新宿ロフトプラスワン「岡田斗司夫の遺言」その1
やはりというか何というか、岡田さんはレジュメ2枚用意して臨まれたが、1枚目の4割3割くらいしか消化できなかった模様。
「ダイコン3オープニングアニメ」の制作から始まって「トップをねらえ2」の企画が没になるまでを、自分が経てきた道行きを自分みずからが解説しようというイベントである。いつものペースでは時間が足りなくなるとは危惧していた。
でも分かっていたとはいえ、遺言が次回に続く…になるってぇのは、どうにも格好がつかないもんですな。*1
とりあえず今回分の話の骨子としては以下になる。たぶん。
「作品を制作する上でテーマというエンジンが必要。制作者(クリエイター)とその受け手(視聴者)の間には、決して交わらぬ溝がある。制作者の士気を維持し、作品を為さしめるのは“自分がおかれている現状・思い・魂を作品に盛り込む”ということ、テーマに沿って作品をつくることに尽きる。それは視聴者に届かなくても良いことだが、それが“ある”のと“ない”のとでは大きく違う。」
「(この手法の)問題点としては、制作者が抱えるものすべてが投影されるため、最終的にエンターテイメントになるかどうか分からないこと。」
例によって、以上は自分なりに言葉を組み立てなおしているので、岡田氏の意図を正確に伝える言葉になっているとは限らない。あしからず。
こういった視点で、岡田氏が関わってきた作品(ガイナックス作品・黒歴史は含まず。「怪傑のーてんき」「哭きの竜」とか)を検証していく。
まず最初にプロデューサー(人に仕事をさせる立場)だったときの、人を説得する技術の低下の話から。
最近とみにそういった“当該プロジェクトが人生を投げ打つ(投資する)に値するものだ”と説得するBluffだとかDiplomacyのSkillから縁遠い場所にいる。
今のうちに、過去の自分のそういった部分を語っておかねばなるまい。つまり、それが遺言(遺すべき言葉)となる。
時間ないので、メモを元に雑然と書き流す。
●最初に
「ふしぎの海のナディア」(1990年作品)全39話を視聴しつつトークという流れでもいいが、それは現実的じゃない。
そもそもこの作品、権利関係上はGAINAX作品ではない。
NHK作品とか総合Vision作品とかが正しく、せいぜい外注先の東宝とかグループタックとかのもので、そこからGAINAXに発注されているわけだ。*2
仕事を受けた段階の(GAINAX・岡田斗司夫視点の)意識としては、我らがよく知るところのクリエイター至上主義で確信犯的なものであった。
常識的な予算消化・スケジュールをはなから無視、放映までにフィルムがあがれば上等で、やりたいことをやりたいようにやる段取りをしていた。これを聞いていた東宝の井上プロデューサーは青くなったという。
最初の納品時に契約書には13話まで納品と書いてあるにも関わらず、4話までしかできていないとか。当初の予算とスケジュールの大半を1・2話につぎ込んでしまったとか。契約書には違約条項の記載なく、言外に「違約すれば今後NHKの仕事させないぜ」とあるわけだが、やりたいことのために常に“最初で最後”を標榜していた彼らには、抑止力となり得ず。
こんな状況であったが大まかな段取りはあった。
最初の盛り上がりである13話(?)、後半の盛り上がりである32-39話は根性入れてやる。その代わり、いわゆる島編(20-34話)は手抜きして韓国に外注した上、動画などのチェックをすべてスルーして放映できれば良しとする。そして困ったときに何とかしてくれる樋口真嗣を投入してここを凌ぐ。
まるで独ソ戦で広大な戦線をイタリア軍で穴埋めするがごとき無謀な計画。戦力の大半を“描きたいもの”に注力させ、テレビシリーズの品質維持を放棄して、極端なクリエイターシフトした体制で臨んだのだ。
こんなゆる〜いスケジュール感であったが、実際は島編は島編で完全に“捨て”に徹することができるわけもなく…理想と現実の狭間での激闘といった有様になる。
●DAICON3(1981年)
話はここまで遡る。
大阪で行われた3回目のSF大会ゆえ、DAICON3(大阪コンベンション)となる。
SF大会についての詳細はWikipediaでも何でも調べるのがよかろうし、SFについての背景が知りたけりゃ最相葉月「星新一 1001話をつくった人」(新潮社)を読むのがよかろう。
それはともかく、DAICON3のオープニングアニメである。
岡田斗司夫氏の当時の実感としては、SFモノの奥深さ(氏は高校卒業あたりで10000冊の読書量を誇っていたようだが、SF古参は原書で読むためにロシア語を習得していたりするわけだ。)、SF古参の老害(権威主義に堕している現状。たとえば誰それは小松左京氏の息子の家庭教師をしているから偉い、など。)、結局は東京で開かれるSF大会が優遇されていること(東京だとSF作家もたくさん参加。地方主催時はぶっちゃけ内容がショボくなるので集客も悪い。)、こうした要因から鬱屈の中にあった。
たまたまDAICON3で仕切る立場となったゆえ、オープニングアニメをやって「俺たちだってやれる!」というところを見せようということになったらしい。
トーストを食わせるといくらでもメカを描くという庵野秀明。
コーヒーを飲ませるといくらでも美少女を描くという赤井孝美。
あと山賀博之の3人が京都にいて、大阪にいた岡田斗司夫は彼らとこの頃に出会っている。
庵野らは岡田斗司夫がスカウトに来るという事前情報から、ちょっとした仕込みをしていた。出会って話している最中に、パワードスーツの落書きをサラサラと何枚か描いてみせ、それを動画チェックするようにパラパラと動かして見せたのだ。こういったアピールもあって、オープニングアニメ制作スタッフはそろった。
後にプロデューサー・監督・演出などの分業を(当然、プロとしての効率から)確立する彼らであったが、当時はそんな流れになっていず、これが「トップをねらえ」あたりまで続く。
ともかく8mm作品(予算15万円くらい)を4ヶ月で仕上げなければならない。
何をつくったらいいか分からないし、スタッフのテンションを保つのも難しい。
そこで彼らがとった方策が「今、自分たちはこうなんだ」というものを作品に全部叩き込むやり方である。
対照的なのは「カリオストロの城」や「ヤッターマン」のような作品で、オトナのゆとりがないと出来ないもの。むしろ「カウボーイ・ビバップ」を取り上げたアニメ夜話で「恥ずかしい」との感想をもらしたのは、ビバップのスタッフの若さが自分たちのやり方を彷彿させたからであろう。
いうならば「本気8:遊び2」くらいがいい作品になるのだろうが、本気10でしか作品をつくることしかできないのは業と言うべきか。
オープニングアニメの中身はざっと以下の内容である。
科特隊のビートルのような飛行機から降りてきた吾妻ひでお作品の登場人物のような男からコップ一杯の水を託された少女が、これをDAICONまで届けて欲しいと依頼される。少女は途中、SF作品に象徴される様々な障害に出会うが、超常的な力を発揮してこれを撃退、ついに萎びた大根の元にたどり着き、水を注ぐ。大根は大根型宇宙船となり宇宙に飛び立つというもの。
ここでのテーマは「才能」だ。
“コップの水をこぼさず運ぶ”という設定は「次の年のSF大会にバトンをつなぐ」という現状を表している。
少女は真面目にコップの水を運ぶが、途中で怪獣やらパワードスーツの妨害が入る。これは同じSFファンの年長者などがアヤをつけてきていることを意味する。
ただの少女は怪力に目覚めて障害を駆逐し、ついには空を飛び、ビームサーベルを抜き、背負ったランドセルからミサイルを飛ばす。(庵野秀明、大喜び。
これは制作者が困難にぶち当たったもののそれを乗り越えて作品に結実させるといった現実と、少女の才能が開花していく物語のラインとが共鳴しているがゆえに、見るものを惹きつける切実なものを含んでいる。
話は少女がSF的な障害をクリアすると、今度は世間一般的な象徴が登場して妨害にかかる。
つまり、主催者の足元を見てギャラアップを要求してくる音楽担当だの、保証人がなければ会場を貸せないといってくるナントカ会館のお偉いさんといった輩である。
こうした困難は、「やりたいことをやるってことは実は好きな世界を潰すことになるのかも」と思わせるに十分であった。
少女が最後に大根に水をやったら、大根が宇宙船となって宇宙へと旅立つシーンは若者らしい浪漫的な夢であり、こうした事情を踏まえるならばより胸に残るラストであろう。
なお、この作品を観た手塚治虫は激賞し、「今すぐスタッフとして迎えたい」とやってきたそうだ。
だが、手塚治虫の伝説(初期日本アニメでは手塚治虫がTVアニメ放映実現のためには手段を問わないスタンスで臨んだため、制作者への負担・リスクは凄まじいものになっていた。おいらも子供の頃観た24時間テレビで放映された「海底超特急マリンエクスプレス」は、前半パートを放映中に後半部分をフィルムを乾かしていたなど、壮絶な伝説があった。恐ろしい。)を知っていた山賀博之の返答は「ええ、まあ」とお茶を濁すものであったという。
●DAICON4(1983年)
テーマとは「訴求力のあるもの」「情熱を傾けるに足るもの」と思いつきメモの走り書き。関係ないか。
DAICON3から2年経過しているわけだが、そこでDAICON4のオープニングアニメをまた制作することとなった。
この間、庵野秀明・山賀博之はスタジオぬえ(アートランド)で「超時空要塞マクロス」のスタッフとなってプロの現場を経験、岡田斗司夫らは「愛國戰隊大日本」(1982年)「帰ってきたウルトラマン」(1983年)と8mm特撮映画を自主制作した。
ここらへんもWikipediaを参照すれば概要は把握できる。
ここで注目すべきはDAICON4のオープニングアニメの前半に、DAICON3のオープニングのリメイクが嵌っていることだ。
2年の間いろいろやったけど、絵がうまくなっている以外他に何かある? というメッセージになっている。
2年前、機会あって作品を発表できて皆が認めてくれたり叩かれたりして、その後プロの現場を経験したり色々やってみたけど、実際どうなのよ? というわけ。
ここで話は逸れるが、庵野秀明が「エヴァ」をリメイクした点につき、DAICON3をDAICON4の前半に嵌め込んだ事例の繰り返しにしか見えないので「キツなぁ〜」と岡田氏は語っている。無論、この後の「エヴァ」の展開によってはどう変わるか分からんわけだが。
当初、DAICON4オープニングアニメは16mmフィルム25分という壮大にして挑戦的な計画が立っていた。
ところが8mm→16mmに変えただけでその扱いも予算も段違いに困難な様相を呈し、ついには3ヶ月前に16mmを断念。思い描いていたものの矮小版に収斂していくことになる。
[以下、時間をおいて書き記しているため、あやふやな部分は強引にまとめてる。]
こういった事情から、ぱっと見は2年前と同様に女の子がSF的な象徴と戦うというプロットをより上手に描いただけに見える作品となった。
だが、岡田氏が解説することで「どうしてこのような展開になっているか」が納得できる。
まず2年前のヒロインはランドセルを背負った少女だったわけだが、今回はバニーガールで成長した姿になって登場する。
これは前回宇宙に向かって飛び立った大根型宇宙船の中で冷凍睡眠から醒めてみると…といった時間経過を表している。
彼女が目覚めてみると、SFファンダムを象徴する巨大宇宙船は各部屋ごとにジャンル分けされて互いの存在に緩やかな軽蔑をもって対峙するような有様になっていた。
これは初期SFファンの連帯感が失われ、各分科会に分かれて疎通のない有様を指している。これはまたすぐに戦争状態となる。
ELOのアルバム"TIME"から、PROLOGUE〜TWILIGHTと続く流れが挿入されているのは、「狂気と正気の狭間からのメッセージ」という皮肉でもあったのだろうか。
ともかくヒロインは周囲で起こる各ジャンル同士の戦争に巻き込まれ、またもや超常的な力を発揮して現れ来るSF的な象徴を薙ぎ払う。
そのうち空飛ぶ剣が召喚され、ヒロインはそれに飛び乗って世界を縦横無尽に駆け巡る。だがやがて剣は複数に分裂し驚異的な力を発揮するものの、その剣とともにあることに疑問を持ったヒロインは自ら剣から降りてしまう。剣から降りたからといってその力がなくなるわけもなく暴走し、画面は核爆発まで引き起こすに至る。(庵野秀明、大喜び。
ちゃんと核爆発の描写として正しい、“吹き戻し”(爆発の中心が真空状態となるため、最初の衝撃波で中心から外側に吹き飛ばされたモノはまた中心に吹き戻されるように動く様)をアニメでやっているというのは、よくよく核爆発に執着があるというか何というか。庵野秀明の業の深さであろうか。
まるで「太陽を盗んだアニメーター」と言わんばかりだ。
それはともかく、剣から降りてしまったヒロインは既に部外者となり、状況を制御することはできない。
こうした一連の流れは、SF大会でやっていることが権力となり、追従者(フォロワー)が集まり、あれよあれよという間に自分たちの立場が変わっていたこと、そうした展開のうちにも仲間やスタッフはそれぞれの事情でバラバラになっていく。そしてまた理想に届かないながらも必死の今を込めた作品として、DAICON4オープニングアニメは制作された…ということなのだろう。
最終的に描きたかったラストは、やはり若さのなせる浪漫的な結末で、実は大根型宇宙船が新たに居住可能な惑星を探査する目的があったことにして、宇宙船内での戦争に行き詰った場面でようやく希望の星にたどり着くというものだった。
結局、岡田斗司夫氏振り返るに「自分らがモチベーションを保つために行ったことは、視聴者はディティールとして楽しんでくれる。ならばこの方法で行くべし」といったことらしい。ただこのやり方は“クリエーターエリート主義”になりがちだとも。
●「愛國戰隊大日本」(1982年)「帰ってきたウルトラマン」(1983年)
休憩*3後、「トップをねらえ2」の話がちょっと出る。
鶴巻監督に設定を依頼され、岡田氏は“今”を反映した企画を提出するも、互いの生き様の違いからか採用されず。
たぶんここまでがアニメに関わる岡田斗司夫の区切りであったのではなかろうか。だから、遺言として語るのは「トップをねらえ2」までとなる。
最後に「もう一度アニメのプロデュースに戻ることはあるのか?」といった質問が出ていたが、言葉を濁していたけどもう戻らないんじゃなかろうか。
とりあえず「愛國戰隊大日本」と「帰ってきたウルトラマン」である。
前者は当時月刊OUTで特集が組まれたので、おいらは高校時代に知ってはいたが、実際に視聴したのはだいぶ後だ。
後者はGAINAXがNET通販で販売していたときに購入した。
どちらも培った技術や制作方法の確認をするために企画されたものらしい。
「愛國戰隊大日本」の基本はパロディである。
これに以前のロフトプラスワンイベントでも語っていた黒色火薬を利用した爆発シーンの多用、全然違う方法論の適用、楽しい制作現場、スケジュール通りの進行、といった要素が含まれる。
岡田氏の所蔵していた百科事典に黒色火薬の調合方法が掲載されており、その材料を入手して調合してみたら本当に火薬ができた。
ただそのままではホカロンと変わらず、火薬となった途端に自然発火して発熱するだけの代物となる。
そこで爆発するような火薬にするためには、火薬に発火しにくい材料を混ぜアルミ缶に封入、なおかつ踏み固めて圧縮する。これに信管を取り付けて特撮用火薬の出来上がり。*4
当時の仲間には、この火薬を圧縮するためにアルミ缶を踏み固める命知らずの名人カミヤくんという人がいたそうで、咥え煙草で缶を何十回も踏み固めたとか。
さらに今もGAINAXにいるらしいクリマンという人は、調合中に咥え煙草だったという伝説も。
あとビデオのメイキングでは、ロケ現場に近くのオバちゃんがやってきて差し入れしたり、そのオバちゃんに「来週からTVでオンエアするので見たってや」などと法螺吹いたりしたなど。
最初は全然様にならなかった登場人物が、だんだんと特撮ヒーローらしくノリノリになっていく状況が微笑ましい。
とはいえ、これはこれで得るところはあったが、所詮パロディという結論であった。
一方の「帰ってきたウルトラマン」は従来の路線をそのままに、特撮好きの庵野秀明が自主制作した映像(顔出しウルトラマンとなって怪獣役相手に格闘するという内容)をネタとして本格的に撮影してみるというものであった。
ここで使われた特撮技術は、画面のほとんどの構成要素は紙とストローで出来ているといったあたりからして、ノッポさんも驚嘆すべき工作力と言わねばならない。
画面で机に手をつくシーンも、机が紙製なため、ついた振りをして画面に手元が映らないようカット割りで工夫までしている。
あと冒頭で登場する小学生の女の子は、唯一作品内で関係者じゃない子だったようだ。山賀氏だったかの下宿の娘さんで、頼んで出演してもらったのだとか。
自然な演技が上手で、作品のラストでMAT隊員が中空を見つめるシーンがあるのだが、そこで隊員が一瞬助監督を見てしまって目が泳ぐシーンとの対比が非常に笑えた。
それはともかく。
この作品の場合、才能を開花させた制作者たちを異物扱いする周囲・世間といった構図がまずあり、自分たちでバランスが取れなくなっていく失調状態に戸惑いを隠せない、そういった思いをウルトラマンという異邦人に仮託したのだ。
登場人物の中には現在では脱税で逮捕されたサワムラ社長(?)もいたりする。今は昔。
ラストで人間に戻ったウルトラマンがふと目をやると自分のやったことは破壊だけだと認識し、仲間のMAT隊員から距離をとる。そこに仲間から「どうしたんだ?」と声をかけられ、躊躇った後に仲間と共に歩むという場面、ここに制作者の切実な現実が込められている。
一方で、今回も核兵器を搭載して怪獣に立ち向かうシーンがあるわけだが、庵野秀明に言わせれば「男は核兵器ですよ」ということらしい。
この庵野秀明が終始「帰ってきたウルトラマン」として怪獣と戦うわけだが、素顔は照れも表情もなく、ひたすら真面目に演じているがゆえに作品に一本筋が通っている。(その割には運動不足ゆえキックの足が上がらず、画面レイアウトを苦心して見れるようにしているのが涙ぐましい。)
ここで「本当のことは嘘でしか語れない」という意味のことを語る。これはすなわち「小説版 戦闘メカ・ザブングル」(鈴木良武)でエルチ・カーゴが語っているようなことである。
「描かれているのは嘘でも、それを視聴した者の心の動き、感動は本物だよね」ということだ。架空の世界では特にそれが大事。
●「王立宇宙軍」(1987年)への道
「愛國戰隊大日本」を気に入った宮崎駿に声をかけられたというエピソードもあったという。
なんでも「アンカー」という、未来少年コナンを実写化するような企画に誘われたのだというが、そもそも宮崎駿を神の様に崇めている庵野秀明からして「岡田さん、これは駄目です」という内容だったらしい。この頃の宮崎駿はあちこちにこの「アンカー」の企画の話を振っていたというが。ともかく才能が認められて色々なところから声がかかるものの、次にどうすべきか暗中模索の状況は変わらない。
閑話休題。
DAICON4のOPENINGを制作した後、まさに青春群像とでも言うべき展開が待っていた。
岡田斗司夫氏の周辺も、あるものは就職し、あるものは実家に戻り、あるものは別の道を行き…といった有様であったらしい。
こうした中、仲間内でこれからの方向性を決めるべく、企画コンペをすることになった。
8mm自主映画の次は段取りから行って16mmになるわけで、赤井孝美は「ヤマタノオロチ」(八岐の大蛇の逆襲)という本格的な作品を制作し、映像を仕事にしていく道筋を示した。
結局、こちらが採用されることになるのだが、では岡田&山賀コンビはどういった企画を提示したか?
「大正スターウォーズ」という、これまた業深い企画を提示している。
SFファンが大正時代にタイムスリップして、そこでスターウォーズを制作するという粗筋だが、己の情熱を再確認するような内容だと推察する。
あくまで己の業に拘った作品を投入しようと志向したのかもしれない。
まあ、他にも「出稼ぎ巨人」という話もあった。
巨人は存在するだけで小人たる我々の戦争の役に立つから、ロボットのコスプレして“新兵器”として戦場に投入されるも、中身は巨人というオチだ。
どちらにしてもネタレベルだったため、最終的にDAICON4ではできなかった“今現在の状況をすべて作品に叩き込んだ上に、高品質な映像作品”を制作するという理想を実現すべく、活動することに。
ここでバンダイが映像事業に乗り出すということで、岡田斗司夫&山賀博之は後に「王立宇宙軍」となる作品の企画をプレゼンすることになる。
作品のプレゼンにも関わらず、当日まで説明すべき物語は決まらず、ひたすら「今までにない」「どんな作品とも違う」「新しい」お話だということを主張。
普通ならこんな駄目プレゼンは「君たちの言うことはよく分からん」と斬って捨てられるところだが、バンダイ社員・渡辺繁に「面白いかもしれん」と声をかけられることで、とにもかくにも作品の命脈は繋がった。
この渡辺繁氏が“悪い”社員で、岡田斗司夫たちに大企業の相手の仕方を教育する。
すなわち、少しずつ投資させて、今までの投資を回収するためにはあとちょっと投資すれば…という話をし続けることで、延々と予算を獲得していく制作方法だ。
ぶっちゃけGAINAXのヤクザな商法はこの頃に確立しているわけだ。
最初は28万円から始まって、ついには3億6千万に膨れ上がる、笑うに笑えない現実に起こった伝説である。その他の経費を含めると合計8億の金が3年で動いているのだ(という。
「不思議の海のナディア」まで続くこの悪弊(?)は、つまるところ一緒に作品を製作する仲間を騙すことになるので、非常によろしくない。
最後には製作サイドも制作サイドも同じ仲間として一緒に泣いて一緒に笑う立場なのだ。だが当時の岡田&山賀氏はGAINAXのTOPであり、バンダイ側の意向にYESマンではいられない事情もある。
バンダイ側との当時の険悪な雰囲気については、GAINAX側はバンダイ側が好きにやらせてくれない点を攻撃し、逆にバンダイは膨大な投資しているのに物語は決まらないし興行を考慮しないアマチュアクリエーターに業を煮やす面もあり、間に立つ渡辺繁氏はこの後鬱病になって実家に戻ってしまったほどであった。
それはともかく、彼らは「いろんな人間のエゴや生き様を作品にできるだけつっこむ」というテーマにそって「王立宇宙軍」のパイロット版を制作することになる。
外向けにはそんなことは言えないので、ともかく物語の大筋を固めることに。
主人公シロツグの造形は、映画をつくりたいけどアニメしか作れない上、大阪に仲間を置いてまで東京にやってきているのに何をやっているのかという現状を仮託するようなものであった。
だが初期プロットでは、主人公は2人の兄弟だった。
双子の兄弟で、兄は出来はイマイチだったが宇宙へ憧れ、弟の方は出来がよく兄想いであった。
弟は兄の学資のために軍に入って、その中で昇進していくが、人生有為転変結局傭兵となって戦場で生きていくことに。
心乾く戦場で、弟の唯一の慰めは、夢を叶えて宇宙飛行士になった兄であった。
その兄は夢を持って宇宙飛行士になったものの、いろいろな現実に触れて次第に心を腐らせていく。
宇宙に行くことは逃避でしかなくなっていた。
そんな中、有人宇宙飛行計画が持ち上がり、兄はその宇宙飛行士となる。
「オネアミスの翼」同様、この後隣国からの侵攻を受けて宇宙船発着場は戦場となり、弟は発着場防衛で戦闘に参加する。その甲斐あって兄は宇宙へと飛び出していく。
互いの人生は交わらない。
宇宙から地球を眺めた兄は「この地球を眺める視点を皆が手に入れたら、我々は一つになれるのではないか」ということをラジオに乗せて喋るが、地上での戦闘は続く。
こんな内容である。
同じ場所から発し、完全に違う世界での生き様を平行して描くということ。
これはアマチュアだった仲間が就職したり、大阪に残って別の映像を制作してたり、そして東京に出てきて悪戦苦闘していたりする自分たちのことでもある。
そして日常に帰った仲間にはもう自分たちの思いは届かないのかもしれない…という率直な想いでもあったのだ。
●山賀博之「この作品には何か足りない」それはナウシカだ! ということになったらしい。
宮崎アニメの美少女に頼まれたらイヤとは言えないだろう。ということで(?)、宗教勧誘する美少女(リイクニ)を登場させることになった。
リイクニの口車に乗って宇宙船に乗ってしまう…というのは、嫌だけど説得力があったのだろう。少なくこともこの時点の彼らには。
●曰く「監督の日常を作品に組み込む」というのはテーマの持つ迫真性を強化するとか何とか。
「オネアミスの翼」で後半宇宙に飛び出した後、いろいろな懐かしい写真だの風景だののカットが切り替わっていくシーンに登場するその写真は、山賀監督の幼少時代(新潟出身?)のものをカットとして起こしたものだという。
ともかくパイロットフィルムを何本もつくってバンダイ側に見せるというのが1985年4月くらいの状況であった。
中でも樋口真嗣制作のパイロット版が好きだったと岡田氏は述べている。ただし情緒的過ぎるということで没となった。
あと「妖星ゴラス」の作中歌「おいら宇宙のパイロット」をそのまま流して、それに映像に付与したパイロット版も作成された。
この「おいら宇宙のパイロット」版の最後にBANDAIのマークを挿入した映像を試写したところ、バンダイ側は「ふざけるな!」と言わんばかりに怒ったとか。いやいい出来だと思うんだけど。
で、結局「GAINAXにパイロット版はつくらせるな」ということにもなる。
●段取り芝居
若いアニメーター、情熱あるけど技術がついていかない人の描くアニメの特徴について。
自然な流れになっていない。これは「カウボーイ・ビバップ」の映像でも指摘していた。
たとえば乱闘シーンで、Aが殴っている間、Bは止まっているとか。
バンダイとGAINAXの喧々囂々のやり取りで、「3カットでいいから虫を出しましょう。そうすれば丸くおさまるんです」という話もあった。
これは「ナウシカ」の王蟲を引き合いに出して、制作以外の部署のお偉方を納得させるための話だったが、まあ分かるけど分かるわけにはいかん系の話ではある。
そしてパイロット版「王立宇宙軍」に、そういった諸々の事情から「リイクニの翼」という副題の付くことになった。
この副題が付くことで、関係部署のお偉方がなんとか作品を作り続けることにようやく納得したのだとしても、GAINAX側には了承できるものではなかった。
わざわざキャラクタの個性が世界や歴史の中に埋没している状態を意図してここまでの設定を作り上げているのに、副題にリイクニという個人名が入ることで視聴者の印象にバイアスがかかってすべてが台無しになるからだ。
やりたいことを全部やる、そのために全力で戦うのは子供である。
途中のデメリットやリスクは誰かが、オトナが引き受けなければならない。
とはいえ、先にも書いたようにプロデューサーとして岡田斗司夫氏には作品側に立って管理側に妥協することはできない。
最終的に2時間作品だったものが1時間20分作品に削られたときも猛反発している。劇場の回転数を考慮すれば、この判断を間違いだと決め付けるわけにはいかない。
それでも作品側としては「そんなのは俺の仕事じゃない!」とまで言い切ってしまう狂気があった。
当時を振り返って、岡田斗司夫氏は「後悔しているけど、反省はできない」という表現をしている。当時の混乱した状況は同じプロデューサーを経験したものでないと分からないのだろうとも。
●自画自賛
誰も褒めてくれないゆえ、パイロット版で「空前絶後のアニメーション」というような絶賛ナレーションを岡田氏が自分自身で考えて映像に付与している。
貞本義行の美麗なイメージボード。これも映像にしてしまうと“よさ”が潰れてしまうと嘆いていた。ボードの脇には「無責任に微笑むリイクニ」とか書いてあったらしいが。
さらに前田真宏のボードでは初期プロット「兄と弟」イメージのものもあった。
GAINAXがパイロットフィルムを制作禁止になってから、その道のプロ・東宝東和がこれを請け負うことになった。
で、出てきたパイロットフィルムが…大爆笑であった。
いや、無理矢理にでも映画を見に映画館に足を運ばせるパイロット版を作成してきた会社だけのことはある。
「泣いて笑って喧嘩して、憎いね、東宝東和」と誰かが語った。まさにそんな内容。「王立宇宙軍」をナウシカっぽく見せるには…ということに全精力が注ぎ込まれていた。
試写室で「愛の奇跡、信じますか?」との売り文句を聞いた貞本義行は「信じねーさ」と、校長先生のありがたーいお話にツッコミを入れる中学生のように呟いたという。
全体的に過剰な音付けがなされており、嫌でも劇的なカットや音や言葉が印象に残るように構成されていた。
だが、東宝東和もさるもの。
パイロットフィルムに複雑な胸中を隠せないGAINAXの面々を前に、営業担当が上司に本気で殴られるというシーンが展開する。
「GAINAXさんにお前がスジを通しておかなかったから、パイロットフィルムに満足されてないだろーが! お前が悪い!」(バチコーン!)
福本伸行の世界じゃないんだから…。
ともかく森永製菓から「リイクニチョコ」とか出てしまうような展開になっていたわけで。
この頃には、宣伝プロデューサーから「宇宙船の元でリイクニが祈るシーンを入れましょう」などの無茶な要請から作品を守るのが岡田さんの役目。作品を間違えないように制作するのが山賀さんの役目。ということになっていた。
先の「3カットでいいから虫を出す」という話で、リイクニと一緒にいる子が飼っている虫を巨大化して…という話もあったらしい。
これを聞いて庵野秀明だけは「岡田さんがいいなら、やりますよ!」と嬉しそうに応えた。業深いよね。
「王立宇宙軍」という作品は参加したアニメーターのすべてを投入させるような体制をとっていた。
哲学を論じたかと思うと、アニメ内でのキャラクタ演技を実際にやってみたり、設定を考え出して盛り込んだり、アニメーターという枠を越えて己のリソースすべてを使って作品を作っていった。
作品内で描くべき世界は、現実と同じく世代の違う工業デザインが共存するような世界であり、たとえばコップや卓上スタンドやカレンダーにしても、登場した年代はバラバラでもその後紆余曲折を経て洗練されて現在のような画面レイアウトに収まる形状に落ち着いたことを意識して描き出すものである。これは並みの作品創出ではない。
それゆえマトモな人間は抜けていく。
自分たち自身の生き様を作品に刻み込むという、その要求に応えられる人材か、実力はイマイチだが情熱のある人間しか残らなかった。
とはいえ、ロケットを打ち上げるという作品内の命題は、そのまま当時のアニメを制作するクリエーターたちそのものだった。というところで「岡田斗司夫の遺言・第一部」終了。
[質疑応答メモ]
・電脳コイル嫌いだと聞いたが、その理由は?
夏休み編が終わったら、好きになりました。
(思うに岡田斗司夫氏はジュヴナイルは好きじゃないのだな)
・才能は与えられた機会によって開花する。
・ボクは君が考えるより、貧乏だったけど育ちはいいのだ。
・“落とす”ということができない。物語の最後に夢なりちょっとしたエピソードを置いて、観客を気持ちよく家に帰すこと。
岡田さんは常に最後まで考え抜いて、その時点での煮詰まったラインを提示することしかできない。
とりあえず以上。もし捕捉や指摘あれば遠慮なく。というより、もっとちゃんとまとめたサイトがどこかにあるだろ。そちらのリンク先を教えてもらった方が良いかも。