岡田斗司夫の遺言3 新宿ロフトプラスワン

[前置]
語られている言葉、起きた出来事を正確に伝えるためにBlogに記しているわけではない。
健忘症気味なので、後で自分がそのとき何を見聞きしてどう思ったか確認するためのメモ、その出力先がBlogというだけの話である。
だから聞き間違いや見落としなどあろうし、勘違いもある。だが、そういった諸々含めて楽しみのうちである。
楽しめるうちは楽しむのが己のStanceなので、とりあえず今回も適当にレポートを書きなぐるのであった(言い訳?。


■前半
というわけで「岡田斗司夫の遺言・第三章」である。おいらの整理番号は1番。
1番なのは気持ちがいいが、私にとっての“いい席”は喫煙者から離れた席であるので、それに寄与するものではない。
しかも第四章があることはまず確実なので、果たして今日どこまで進むのかが興味の焦点であった。
登壇した岡田氏は最初に一応、今日中に残りのエピソードをクリアするにはどうしたらいいか悩んでいたようだったが、ともかく「遺言」用のレジュメの雑談部分から話に入るのだった。
氏は4月くらいに「オタク学入門」(1996年)を新潮社から文庫を出すに当たって(再販?)、当時の文章に加筆や注釈を加えずに出すことで、読者へ余計な誘導や色眼鏡越しに読まれることを避ける方針であった。とはいえ、当時の内容そのままということは新鮮味は何もないわけで、既読の人間にも手にとってもらえるよう、巻末に富野監督との対談を入れることにしたのだ。この対談の話から。
富野監督は1996年作品だと知らず2008年作品として「オタク学入門」を読んだらしく、「岡田クンはとんでもないものを書いた!」と怒り心頭に達し(今の拡散し切ったオタクを愚神礼賛しているとでも思われたか?)、少し遅れて対談の場に到着した岡田氏は、一通り富野監督がスタッフ相手に「こんな本を世に出すとはケシカラン」と説教した後の何とも言えず居たたまれない雰囲気に遭遇したという。
そこから話はBSアニメ夜話の方へ。
今月20日といっていたように思うが、実際は3月17, 18, 19日予定なはず。
「今日から魔王」…スタッフが今まで岡田氏のスコープ内の作品ばかりを取り上げていた暗黙のルール(?)が、ついに破られてこの作品がエントリーされた。でも案外とダラダラ見るには見れた。
イデオン」…新潟での公開収録。空回り。
トップをねらえ!」…全開モード。いつもは番組のことを考える冷静な部分で動いているのに、自分が楽しく関わった“最高な”作品であるだけに、語り倒した。カウボーイ・ビバップを酷評(?)された佐藤大が同席していてその復讐の機会と「トップ」のコメントを岡田氏に突きつけようと狙っていたらしいが、機先を制して「トップ」がいかに素晴らしい作品かと言い切ってしまったらしい。(BSアニメ夜話の放送が楽しみだ!)


1985年冬から1986年一杯は「王立宇宙軍」の制作に費やされ、明けて1987年が訪れる。
ガイナックスは当初「王立宇宙軍」が公開できたら解散すると公言していたわけだが、実際は「じゃあ解散しましょうか」と言ってくるスタッフはいなくて、「これからどうしよう」という話になったという。
意気込みとしては本気で解散するつもりだったので、「王立」以後の仕事のことなど考えていない。
さらに、あちこちの会社に「王立宇宙軍」用の背景や動画やその他の仕事を発注しており、その支払いができずに借金を抱えていたということもある。
どんな状態かというと、会社には230万しか金がない。
なのに今月の社員給与が300万必要。加えて支払いの滞っている会社が数社。150万が1社に50万のが3社…といった有様。
社長としては社員に5万ずつ手当てを出して、残金を他社への支払いに当てるとか遣り繰りするしかなく、本当に身につまされるギリギリの経験をしたわけだ。
ここで「“赤字覚悟で”とか“身銭を切って”とか大言壮語する監督やプロデューサーがいるけど、あれはよくない。」という話。
プロデューサーは仕事掛け持ちすりゃいいし、監督は自分の作品と言えるから、いい。だがその下で作品を制作するスタッフは、家族抱えてそれでも逃げずに/逃げられずにこの業界を支えてくれる人間であり、そういった人たちにまず皺寄せが行くのだから。大言壮語できるのは余裕あるからで、本当に切実な人間を、監督とかプロデューサーは守るべき責任があるのだ。いや実体験に基づいているので、説得力ある(というか有り過ぎ。
当時のガイナックスは、岡田氏が出社すると「××より電話連絡アリ」というメモが貼ってあり、当然支払いの催促なわけで、これに対応するだけで大変だったという。
社員である庵野、赤井、山賀氏以下はすぐに出社しなくなったとか。沈みつつある船という実感だったのであろう。


そんな状態を見かねて、バンダイ側から「アップルシードをやらないか」という話がくる。言わずと知れた士郎正宗作品だ。
これを「丸受け、丸投げ」で延命措置を講じなければならないほどの会社状況であった。
どういうカラクリか?
おいらも道路工事の警備員バイトをこの頃やってたと思うが、警備員の派遣会社には一人当たり1万5千円ほど入っているわけだ。ところが警備員のバイトには7000円+交通費という支払いになる。差額は派遣会社の懐に。
同じ理屈で、7000万円で請けた仕事をそのまま(たとえば)AIC*1に5000万円で流せば、2000万円がガイナックスに入ってくる。
2000万円あれば四ヶ月は回していける…という判断だ。
大きな会社はどこでもやっていることで、5%〜15%を抜くのが普通だと言う。その代わり納品保証やある程度の品質保証をするのが責任の範疇になる。
なので下請け側の制作進捗を確認したり、内容に口を出したりしがちなのだが、このときは一切口を出さなかったとか。無論、岡田氏は試写にもいかなかったようだ。流しに徹したわけだ。
ガイナックスの「アップルシード」なのに…と曰く言いがたい思いを抱えた岡田氏に、赤井孝美氏は「アニメファンだって勉強した方がいいときがあるんです。」(オイオイ)と慰めたとか。
貧すれば鈍すというか、窮地に陥ると誰かが貧乏籤を引かねばならぬのは世の常というやつである。


この後、吉祥寺にあったガイナックスは、不動産屋に内緒で(!)スタジオ交換をしている。
相手が2年ほど広い場所で仕事したかったため、入れ替わりに手狭で木造のスタジオに引っ越したのだ。
主なスタッフは、岡田斗司夫庵野秀明赤井孝美山賀博之前田真宏貞本義行樋口真嗣といったあたり。会社の状態が状態なので、全員が虚脱状態だった。
ただこれで事務所の賃貸料が70万円から一気に16万円に減り、資金繰りに頭を悩ませる部分が少しは(本当に少しだが)軽くなっている。
「王立」以後の次の作品1987年末の「トップ」の企画が出てくるまで、ひたすら暗中模索といった有様であった。
確かに悩むのはいいが、そもそも解決不能だから悩んでいるので、それを留め置いてこじらせないことが大切であろう。現在の岡田氏の視点だとそうなる。
そもそもが「カウンセリング手法」としか呼称しようがない方法でしか作品を立ち上げてこなかったところにも問題がある。
この方法では、何をやりたいのか、どういった作品にしたいのか、その内容を岡田氏が相手の相談に乗る形で引き出していくスタイルになる。
「王立」の場合、山賀氏の作品に対する方向性(問題意識や世界の捉え方・把握の仕方)をカウンセリングを通して引き出して作品化したため、このやり方がガイナックス内で作品を制作するStandardというか真面目なやり方として認識されることになる。正直シンドイやり方ではなかろうか。
そこまでキッチリ詰めて作らずとも、「トップ」のようにある程度画面にニュアンスが出るくらいでも十分作品としては成立するのである。
「我々の感動が虚構の上に成立している」というあたりを匂わすだけで事足りる、というか深みは出る。
「王立」レベルでも妥協の産物と感じる当時のクリエイター魂というのは、まあ若いということなのだろうか(実際様々な妥協はしていたのだが高い次元での妥協というか。
振り返るに、ここで岡田氏がやるべきは、庵野秀明氏に対してカウンセリング技法で「何か」を引き出して作品を作ることだった。
山賀氏は持てる力を注ぎ込んでしまったため、Rechargeの時間が必要だったのだ。ゆえに同様に作品を生み出していくなら、対象を変える必要があったのだ。
だが実際はそうならず、山賀×岡田コンビで悩み続けスタックしたままといったことになる。


ここでガイナックスが誇る人材についての話。
庵野秀明赤井孝美山賀博之という3人の傑出した人間と付き合ったために、「面白さ」に対する基準が厳しくなり、岡田氏は面白い人間になかなか出会えないのだという。自らを三国志劉備になぞらえていたが、確かに関羽張飛趙雲に囲まれていたら、普通の武将なぞは見劣りして見えるであろうというのは想像に難くない。
3人は外からは仲良し三人組であって欲しい三羽烏で、ということは互いに良きライバル良き同僚といった表現になるが、互いの実際の関係は微妙ということになろう。岡田氏は「3人の関係は3人の中で決めて欲しい」と言っていた。
この時点での次回作の監督に対する意識は、山賀「王立やったんだから次も俺でしょう」赤井「勝てる戦しかしないので、今は雌伏の時」庵野「頼まれればやってもいい」といったあたり。
特にここで赤井氏に言及。人柄としては軍師・参謀タイプで、自らがやりたいことを持たず、あらゆる勝てる条件がそろったときに重い腰を上げると宣言していた。すなわち利益が上がり業界に貢献し己のキャリアにも通じるような仕事(そんなおいしい仕事あるか!と叫びたくなるが)。山賀氏に対して岡田氏が参謀のような立ち位置でカウンセリング技法によって「王立」を制作したが、そんな岡田氏も赤井氏相手では己がカウンセリングされる側に回るのだとか。
あと大学のときの挿話が入る。
岡田氏が実家に帰ってみたときのこと、三階建てだった家が四階建てになっていて、その四階部分に新興宗教の本拠ができていた。
父親曰く「母さん、神様になったから」と。
面白人生にもほどがある。
さらに三羽烏の評価を続ける。
庵野秀明という人は、他人の10倍の才能があり、人望もあるのだが、何かが他人の1/10しかない。そんな人物だという。
山賀博之という人は、X68000くらいしかマシンがない時代に既にフルCGアニメの企画を出してみたり、「3年後にはマシンのスペックなぞが進歩しているから可能」と断じたり。
赤井孝美にしても先に書いたように戦略家であると。
これだけのカードを抱えていながら、うまく回せなかったのはやはり劉備(岡田)が悪いという話になるのではないか。
「同時代に曹操がいなければ…という劉備が思ったように、宮崎駿押井守富野由悠季がいなけりゃ俺だってなあ」とぼやいてみたり。
バスタード(萩原一至)の影響について。
萩原一至のBASTARDでは天使がウルトラマンの顔立ちをしていたりするのだが、そのセンスは庵野秀明に強い衝撃を与えたのだという。
その延長線上に、新世紀エヴァンゲリオン使徒はあるのだ。
「トップ」がSF知識によって構築された“教養あるアニメファンなら分かってくれる”という甘えによって提示された作品だとするなら、「エヴァ」は旧約聖書の世界を特撮の世界と結合させて「こういうのもあるよね?」と提示した作品になっている。
重力井戸?が原罪の表現として機能していたり、ここらへんの組み合わせ方と提示の仕方には、それなりの背景があるようだ。
まとめてみると、結局虚構たる作品群の影響を受けた自分を肯定的に捉えると「トップをねらえ!」となり、懐疑的に捉えると「新世紀エヴァンゲリオン」になるのではないか、それは表裏一体の構造ではないかと指摘する。
エヴァの「ハリネズミのジレンマ」はトップの「一つ一つはただの火だが…2人あわせれば炎となる」という場面と意味合いは同じ。


この後ようやく山賀氏から次回作へのネタが提供される。
「次回作はトレスコで行きましょう」という話であった。
それはロトスコープ(実写の動きが先にあり、それをトレースしてアニメにする技法)・シネスコープ(横長の画面サイズ)・プレスコープ(先に声優の演技があり、それにあわせてアニメを制作する)の3つ特徴がある作品、ゆえにトレスコというわけだ。
まずは実写と見紛うばかりの丹波哲郎が登場し「ほほう、すると私が絵に見えるのですね」という台詞から始まる。
主人公は世界が主観的な絵(アニメ)に見えてしまう精神病を患った少女で、心の状態次第で世界は実写ばりのアニメだったり、ハンナ・バーベラのアニメの様相を呈したり、ロボットアニメ風に見えたりする…というもの。
このアイデアを提示された岡田氏は「で、どういう話になるの?」とは聞かなかった。
どうせ「それは岡田さんが考えるんですよ」と返されるに決まっているからだ。
そこでとにもかくにも、この「トレスコ研究会(名称はうろ覚え)」という看板を作って、部屋の扉に掲げて企画進行中を皆に分かるようにしたのだが。
既に「岡田&山賀次回大型企画進行委員会(名称はうろ覚え)」と「ジーザス研究会(天才の軌跡を調査して何かに役立てようとかそんなあたり。うろ覚え)」の看板も掛かっていて、ほとんど誇大妄想狂の部屋である。
こういった一連の紆余曲折はすべて「王立宇宙軍」の影響下にあり、クリエーターはおしなべて自分の先の作品によって縛られるわけだ。
話としては分かっていたが、実際自分たちがその立場になったとき、駄目スパイラルから抜け出ることは至難の業である。
ここで岡田氏は「作品をつくるというのは楽しいものだけど、呪いを受けるものでもある」という発言をしている。
作品を死ぬまで作り続けることが当たり前となってしまう呪い。まあ、それが本望というなら(たぶん高橋留美子のように)祝福になるのやもしれないが。
ともかく1988年は「トップをねらえ!」に集中することになるものの、経営は悪化したままであった。
遺言・第二章での金額は間違っていて、1話2500万円という値段だったらしい。4話で1億、6話制作すれば1億5000万という売上げであった。
それでも赤字経営には変わりない。
先に書いたように「アップルシード」の仕事を横流ししたりして綱渡り経営で乗り切っていく。
それを見るに見かねて、またもやバンダイが「逆襲のシャア」の仕事を回してくれる。
今までは大河原邦男などに依頼していたMSデザインであるが、このときはコンペによってガンダムのデザイナーを決めるということをやったらしい。
これにガイナックスからは庵野秀明が参加したのだが、何を考えたのか「ファーストガンダム」を「安彦良和タッチ」で克明に描いたものを提出したという。
いや富野監督の激怒したことよ。涙を流して怒ったわけだ。「一体こいつは何が言いたいんだ!」と。
ニヤニヤしながら「安彦さんはこうだー!」とかノリノリでガンダムを描いていた庵野秀明という人物は、壮絶の一言であろう。
当然コンペで採用されるはずもなし。
ただMSデザインは没になったが、メカデザインは何点か採用になっている。リテイクをくらいながらではあるが。
このときの岡田氏の心中は、富野監督と仕事できる喜びが1/3、ガンダムに関われる喜びが1/3、点数多く採用されれば金になる喜びが1/3だったとか。
そして岡田斗司夫デザインのメカが採用されている。
映像で見ると、アムロサイコミュ受信機を操作している場面、その丸い受信機がそれだ。
黒澤明監督追悼記事で「別に黒澤が死んでも惜しくない。」という意味合いの文章を書いたという岡田氏であるが、富野監督については高く評価している。
クリエイターには「旬」があることを中心に、それなりの理由があって黒澤明に対してそのような発言をしているのだが、この辺はあまり覚えてない。
それはそれとして富野監督である。
たとえばMSが母艦からカタパルトを使って発艦するシーンで、カタパルトデッキの先に誘導員用の小さな待避所が設けられている点に注目する。
普通はパイロットとオペレーターの会話だけで発進シークエンスが進み、画面上は動きに乏しく、一連の流れは平面的に認識される。ところが「逆シャア」でのMS発艦シーンでは待避所に誘導員が配置されていることで、艦橋:MS(コクピット):誘導員の間に交わされる会話によって画面から受ける印象が立体的に感じられるようになっている。ぶっちゃければ母艦が多くの人の手によって運用されている実感が沸くのだ。発進位置にいるMSがカタパルトデッキの先にある待避所を抜けて宇宙に飛び出すことで、あわせて母艦のスケール感を表現することにもなっている。
つまり一連の流れの中で視聴者に与える効果は他の作品に見られないほど充実しているわけで、これを意図的にやっている部分並みではない。
同様な意図を持っていても、たとえば母艦内の廊下や格納庫で忙しく働いている軍人のカットを入れるとか、段取りを踏んだ描写になってしまう。
こういったことができる富野監督は黒澤の10倍は凄いという結論だ。
ここで「妥協してもガンダムですよ」とメモにあるのだが、どういった意図で書き付けたのか不明。
前半最後のネタとしては、新潟でBSアニメ夜話の公開収録で「イデオン」をやった後のどこぞのBlogで上がっていた「富野御大のイデオンは未見であるが〜」という文章を取り上げて、そこから話を広げて教養としてのオタクのススメ。
そもそも富野御大というジャーゴンをもって書くからには、“自分は富野オタクである”と宣言しているも同然なのに、よりによってイデオンを未見であるとはどうなのよ…というわけ。未見なのは仕方ないとして、もっと恥ずかしそうにするか、事実が露見せぬようにボカすのが自覚的なオタクであろう。
いやそういう私もイデオンは高校時代にポツリポツリ鑑賞してただけだったり。
あまりに登場人物を無残に殺しまくるので、ザブングルは全話熱心に見てたけど、ダンバインはちょこちょこだったし。
それはともかく。
未見なれど古典(Classic)をおさえ、基本となる作品(Standard)はしっかり鑑賞し、最近の作品(Patish?)動向も分かっている。これが基本。
たとえばロボットものなら、鉄人28号鉄腕アトムを未見なれどおさえておき、ガンダムスーパーロボット作品+リアルロボット作品で最低3作品を視聴して差異を語れる(三点測量ができる)くらいの見識を持ち、同ジャンルが最近の作品にどう影響を与えているかどう変化しつつあるかを把握している状態にあった方が、好きなものを「(教養として)語る」という楽しみ、「(体系的に)考える」という楽しみを見出せるのではないか。
甘味ならば、羊羹やカステラを古典とし、ショートケーキやモンブランをStandardとして、昨今流行の塩キャラメル?などを楽しみ語っていけばよいというあたりに。


■後半
後半はまずアイデア帳のようなノートを引っ張り出してきて、「明石家さんま」というメモから。
さんまなどの世代というのは芸人間の評価を気にしないが、最近の芸人の有り様は違うというのが話の最初である。
これは同じ芸人間、ということは一般客でも玄人筋の客でもなく、同業者の感覚や視点で評価されるものを掘り起こして一般に提供することを意味している。
オタクの有り様と同じで、こうした見方なり捉え方を敷衍することでひとつの体系を世間に浸透させるやり方になる。ある分野の教養が立ち上がるのはこういった現象としてあらわれてくるのだという。
しかしながら、これが行き着くところまでいくと少女漫画の世界のように先鋭化し、落伍者(ついていけない)や離反者(価値観を共有しない)を生み、ジャンルとしての行き詰まりを見せるようになる。結局、「セーラームーン」や「ちびまる子ちゃん」のような作品でリセットをかけるしかなくなったわけだ。
次に雑誌「創」での対談の話。
今はキャラクタの時代となっているというテーマに関連して。
岡田氏は人間を以前は書籍のようなものだと考えて、中身が大事で装丁はプライオリティが低いものだとの認識だった。
ところが最近、人間はComicのようなもので、絵面がよくなければ手にとって誰も本を読もうとしないものだと。もっといえばComicというよりはAnimeという話になるのだが。
ともかく懐疑的な人間であろうとも他人と接したときの一般的な判断基準から逃れられないので、そこらへんには気を遣うべき。
また、昔よりも人間は「自分」に多くの容量を割り振っているので(近代における人間の内面のことを指していると思われる)、相対的に他人に避ける容量は少なくなっており、これをどうモデル化して扱うのかが問題だとか。
…などといっている間に時間ばかりが過ぎ、いまだ1988年から進まない。よってここからは1989年の話に移行。


いよいよ赤井孝美が動いて、「電脳学園」というPC Gameを制作する段になる。
要するに、アニメ業界にいるから宮崎駿押井守富野由悠季など強豪に囲まれて窮屈な思いをしなければならないのである。
オーストラリア大陸には有袋類しかいないゆえ、フクロオオカミという犬っころが最強なのだ。ガイナックスもPC Gameというオーストラリア大陸に行けば、我が世の春を謳歌できるのではあるまいか。
当時「はっちゃけあやよさん」というPC(X) Gameのレベルで留まっていた世界を、岡田氏も赤井氏も同Softを購入して研究(笑)していた。
自分もこの時代を振り返るに、1986年にPC-9801VM2を購入してWizardryとか大戦略とかでPC Gameの世界に入り、初期のその手のゲームも嗜んでいた。
ぶっちゃけ紙芝居レベルの世界だったわけだが、そこにガイナックスは自らのウリである「長い物語を演じきるには持久力不足だが、一発かっこいい絵を描くなら大得意」という武器をひっさげて、収益・制作者のモチベーション・業界のレベルアップという幅広い効果を見込んで乗り込んだのである。
そもそもが紙芝居レベルの絵面だったため、一枚絵としてのクォリティからすればガイナックス側は百戦百勝の状態だ。
つまり、とてつもなく低いレベルの目標設定をすることで、落ち込んでいたクリエーターのモチベーションは上がった。
「自信を失ったときの目標設定は低くしろ!」という教訓を得たがごとく。
ゲームはシンプルに脱衣ゲームとして、その範疇でいかに綺麗なグラフィックを見せるかに腐心したところに彼らのスタンスは確立されていた。そしてその戦略は的を射ていた。
角川の雑誌コンプティークと癒着ギリギリ(アウト?)の構造で、ついにはガイナックスからライターを派遣して「電脳学園」のヨイショ記事を書かせるほどの状態でもあった。
ただ「電脳学園」といえば宮崎県で有害指定か何かになったはずだと思うが、そこらへんの話は出なかった。
しかしながら、アニメに投入した労力に対してリターンが微少だと感じられていた状況で、ゲームの世界ではやればやっただけ評価されるフェアな世界に感じられたというのは、岡田氏の正直な感想であった。
こうして後にガイナックス“左手仕事”と呼ばれるものには「BEAT SHOT」「小松左京アニメ劇場」などがあるが、その端緒というか「電脳学園」でようやく経営難から脱出することになるのである。
だが、1990年になると岡田氏には娘さんが生まれたのと時を同じくして「宮崎勤事件」が起き、ガイナックスクーデター事件〜不思議の海のナディアへと繋がっていくことになる。


経営難を乗り切るために、やりたい仕事ではなくやらねばならぬ仕事(しかも質は問わない)のことを、ガイナックス“左手仕事”と呼称されていたようだ。
実際はじめて「BEAT SHOT」(池沢さとし原作)を視聴したが、ツッコミ所だらけで背中が痒くなるような映像であった(何回か視聴すると癖になりそうだったが。
物語冒頭部分を岡田氏が解説しながら流し見たわけだが、その後ここに至るまでの顛末を語ってくれる。
まずバンダイとの契約書の中に「パンチラシーンは入れること」という条項があったというから驚く(個人的には望むところだが…池沢さとしの描く女の子じゃなあ。せめて金井たつお描く「ホールインワン」に登場する女の子あたりにならなかったものか)。
この企画を立てたのは、日銭の欲しかった岡田氏がバンダイの鵜之沢氏を説得するために当時のレンタルビデオ店のリサーチをしたことに始まる。
OVAの流通はレンタルビデオ店の買取に依存しており、1989年のレンタルビデオ店(増えつつあった)ではPOSが完備されているわけでもなく、購入ビデオの選定は洋画などの場合は映画好きの店長クラスが行うが、アニメ周辺はバイト君の一存という有様だった。ここに目をつけた岡田氏はバイト君を観察、ときにはヒアリング調査に及び、仕事の合間に読む雑誌「PLAYBOY」に注目した。これに連載されていたのが、池沢さとし「BEAT SHOT」であり「モデナの剣」だったわけだ。アニメの中身に興味があるかどうかも分からないバイト君が選ぶタイトルの基準として、PLAYBOYでよく見知った作品ならば仕入れてくれるだろうとの予測だ。
なにかギリギリの企画立案物語という印象だが、まさに背に腹は代えられない。
こうした状況に、山賀氏や庵野氏の対応は冷たかった。志高く質のいい作品を提供するのがガイナックスじゃなかったのかと。
「もう岡田さんにはついていけませんよ」とまで言われる始末。
それはクリエーターとしては正しい反応であり、経営サイドとして岡田氏は「そうはいっても俺の苦労も分かってくれ」などとぶっちゃけることはできなかった。
岡田氏はここで「風の谷のナウシカ」を引き合いに出してくる。
ナウシカクシャナは根っこは同じであるが、ナウシカは理想主義的で無限の優しさを持つように見えるが、それは風の谷に向けるべき気持ちを蟲や大地に向けているに過ぎず、非人間性や残酷さと隣り合わせになっている。一方、クシャナは現実主義的で自分に従ってくれる民にのみ責任を持つと割り切ることで、現実を受け入れて首尾一貫した行動を毅然と行うことができる。そんな構造だ。どっちが良くてどっちが悪いという話ではない。
また子供は好き嫌いで判断できるゆえに純粋であろうが、それは大人という対になる存在がいて始めて価値を持つであろう。
というあたりで当時起こったことは受け止めるしかない。
幸い下請けとして「Magic Bus」という会社が、ガイナックス経由の仕事なら何でも引き受けますよと言ってくれているので、岡田氏はこうした“左手仕事”を回して凌ぐことに。といっても下請け側は「ガイナックス経由なら1話1200万は出してくれる」と信頼しているゆえの話で、バンダイ鵜之沢氏から仕事を取るときにはこれに一ヶ月のガイナックス側経費を乗っけた1700万を引き出すつもりで「この企画には1700万がどうしても必要ですね」と交渉するしかない状況であった。
ある日、会社のホワイトボードか何かを見ると、そこには「魔法のバス:企画書+シナリオ+1200万円を乗っければ、このバスは試写会まで行くよーん」と赤井孝美氏の落書きが描かれていたという。ひでー話だ(眠田直氏がどこかでComic化していたはず?。
またあるとき、「モデナの剣」だったか(度忘れした)の企画で、シナリオを山賀氏に依頼したところ、コミックを買ってきてページをバラバラにした後ホッチキスでとめ直したものをシナリオとして提出したという。そもそも仕事依頼したときも25万を渡して「これで何とか3ヶ月遣り繰りしてくれ」というワヤな状態だったわけで、仕方なくそのシナリオ(繰り返すがマンガを一回バラバラにした後ホッチキスでとじなおしただけのもの)を「Magic Bus」に企画書とともに渡したら、流石に担当者は絶句*2していたものの、ちゃんと作品を納期には仕上げてきたというから「下請けの悲哀」と感じたらいいのか「下請けの意地」と理解したらいいのか悩むところ。
こうした仕事は会社全体の問題であり、様々な方面に影響を与える。
哭きの竜(1)(2)」「BEAT SHOT」「モデナの剣」「小松左京アニメ劇場」あと1, 2本。
アニメ部門がこの体たらくで、ゲーム部門が好調であるがゆえ、アニメファンは「ガイナックスってアニメ制作会社じゃないの?」と根本的な疑問を抱きだす。


宮崎勤事件の話。
あまりにも有名なこの連続幼女誘拐殺人事件が起き、宮粼勤のオタク暗黒面とも言うべき部分が暴かれたとき、岡田氏は「バレた!」と思ったそうだ。
その趣味嗜好はオタクのものと切り分けられず、犯罪には至らないが誰もがオタクである限り抱いている負の側面を象徴していると感じたからだ。
これは100人オタクがいたら一人二人はMonsterが出現する可能性を秘めていることになろう。
個人的にはオタクというより人間の範疇だと思うが。
この事件に対するアニメ制作者の受け止め方には、岡田氏はいまだに不信感を抱いているという。
つまり覚悟をもって虚構を形作る片棒を担ぐのではなく、単に仕事だからという理由で問題を棚上げしているだけなのではないかと疑っている。
とくに子供が生まれた影響もあり、自身は以前と同じモチベーションでアニメに打ち込めない状況であった。
ここで筒井康隆の話に飛ぶ。
筒井康隆は自らの作品の影響で現実の死者を出してしまった人間で、そのときの対応は「これは文学である。人を毒するのが文学の本質なので、死者を出すことも(ある意味)やむなしとする」と宣言している。確かに文学ならばそれでいいのかもしれない。文筆をもって世界を相手にするだけの覚悟あるものがその範疇であろうから。しかしながら、アニメは大衆娯楽でありエンターテイメントではないか。その抱えているものが現実をグロテスクに塗り替える作用を担ってしまっては「それは違う」と叫びたくもなろう。
要するに、毒薬は筒井康隆富野由悠季・あと誰か、の3人くらいで十分なのだ。
全クリエーターが、我々が寄って立つシステムを批判したり枠組みを壊したりしていては、あらゆるものが破綻していくだけになる。


話をガイナックスに戻すと、アニメ班のモラルは低下していた。
というのも人望厚き庵野秀明は「王立宇宙軍」で協力してくれた人々に恩返しするためのお手伝いの旅(恩返し巡礼)に出かけて帰らず、山賀博之は「王立」ですべてを出し切っていたため充電中、赤井孝美は資金難対応として始めたゲーム班を率いて「電脳学園」で先鞭をつけ「サイレントメビウス」で方法を確立し「プリンセスメーカー」でこれまでの集大成となる作品を世に出すところまできていた。どこぞのロードマップのごとく計画的に第三世代で自分たちの作品にまで持っていってしまう赤井氏の手腕は讃えられるべきものであったが、ますますアニメ班との間の不均衡は広がった。
こんなときにガイナックス・クーデター計画が水面下で進行することになったのである。


事の発端は、副社長の井上博明がガイナックスの未来を憂えて、貞本義行以下若手を切り離して別のクリエーター集団を創設しようとしたところにある。
ベンチャー企業やこの手のクリエーター集団によくあることで、創設後精々3年までに参加した人材が持ち回りでやりたいことをやっていくため、後から入った人間は絶対やりたいことができない構造になっているのだ。サンライズジブリに就職して「自分の」作品が作れるわけではなく、誰かの作品を実現する作業を延々やる羽目になるので、本当に創りたい作品が見えているなら自らがプロジェクトを立ち上げるのが早道なのだ(まあ、サンライズあたりなら若手登用の道もそれなりにありそうだが。
ガイナックスは岡田+庵野+山賀+赤井で回っているのは見てきた通りで、貞本義行前田真宏東京造形大学出身)などにあまり焦点は当たらなかった。
井上は彼らにまず現状を認識させる。「今のまま岡田氏についていたのでは、クリエーターとして駄目になってしまう」
そして前途への希望というか目標設定をすることで発言に説得力を持たせる。「俺と一緒にNHKTVシリーズをやらないか」と誘ったのだ。
これは岡田氏も驚いていたが、一体井上氏という人間はどこからそんな強烈な仕事を引っ張ってきたのか。
流れとしては、たぶん次の通りだと思われる。
NHKの下請けが総合ビジョン、その下請けが東宝、その下請けにグループ・タックがある。
この会社はWikipediaを参照すると、旧虫プロの音響スタッフであった音響監督の田代敦巳が社長だ。
当時のガイナックス副社長・井上博明という人は、悪名高い手塚治虫24時間テレビを3本担当した古強者(岡田氏曰く「ランバ・ラル」)だったのだ。
つまり旧虫プロ繋がりで話が流れてきたのだと考えるのが自然ではなかろうか。
そして田代氏は「王立」のときの音響監督に名を連ね、ガイナックスに対して好意的だったという。
そんな想像はともかく、まずはNHKという巨大システムに関して言及せねばなるまい。
NHKは国民から受信料を取っている。ということは公共放送なわけで、著作物は日本国民のものとしてもいいはずである。
ところが、我々のものであるはずの番組は他所の国に放映権が買い取られた場合、その収益はNHKという特殊法人のものになっている。
そして法人の枠組みを嫌ってか、配下(微妙な言い方)に総合ビジョンという番組制作会社を置き、企業としての利益を追求しつつ番組の権利を制御する役割を担っている…と思われる(歯切れ悪し。
不思議の海のナディア」は、NHK > 総合ビジョン > 東宝 > グループタックを経由してようやくガイナックスにたどり着くような構造になっていて、製作現場で作品を作りながら「どうして俺たちに作品の権利がないんだろう」と素朴な疑問からこうした構図が見えたとのこと。
しかしながらこれを構造的な欠陥として指摘するのは筋違いで、権利はどこかが私有化(確かこういった表現だった。)しないと業界全体が儲かる構造にはならんのである。著作権問題は難しいところ。
ともかく貞本氏に「この作品で監督してみないか。好きにやっていいから」と井上氏は持ちかけた。
ところがこれがなかなかにうまくいくものでもない。
井上氏のプロデュースというのは完全にプロデュースに徹するため作品内容に関する会議では居眠りするほどだった。
だが貞本氏が監督するにあたって必要だと感じていたのは、まさに相談役であったのだ。
ゆえに「何でも好きなものをやったらいい」「いやそうは言っても…」という状況になる。
当時のガイナックスを外から見ると、「何かやってくれそうな会社」となり、とくに庵野秀明は非常に面白い、そして貞本義行の絵はうまい、というあたりに落ち着く。
なんでも絵描きというのは階級世界で、自分よりうまい相手には唯々諾々と従うところがある。
岡田氏は貞本義行というカードで絵描きの勝負に負けたことがないと豪語する。実際、貞本氏の絵を見せて負けを認めなかったのは江川達也だけというから爆笑するしかない。いやあの人は変人ですから。なにせ「こいつ絵がうまいから俺のアシスタントにスカウトしよう」と思った相手がレオナルド・ダ・ビンチだというからキチガイの領域である。あと大友克洋もギリギリで持ちこたえたというが…。
結局のところ、そんな貞本氏も対話によって作品作りをしていく現場で育ったゆえ、無駄が多いけど共同作業を欲していたわけだ。
こうしてクーデターは井上×貞本間で三ヶ月押し問答となり、一見うまくいくかに見えた計画はグダグダになった。
何も知らない岡田氏は、唐突に「来週水曜にNHKに行ってくれないか?」という話を聞くことになる。今、土曜だから間に3日しかないじゃないか。
「なんで?」と聞くと「実はコレコレという企画が進行中で…」という展開に。
こうして計画が露見するわけだが、岡田氏の方も経営がボロボロだという自覚があるから責められない。
貞本氏はぬけぬけと「あれ? 岡田さんも(企画を)知ってると思ってました」などとのたまう始末。
それはそれとして、問題は目前に迫ったNHK+グループタック+ガイナックスのミーティングである。
不思議の海のナディア」というタイトルは既に決まっており、企画はほぼ固まった段階にあった。しかもその企画というのが「天空の城ラピュタ」そっくりだというからたまらない。
その点を指摘すると、井上+貞本両氏は「岡田さん、NHKに言ってやってくださいよ」と返される。
クーデターの衝撃、宮粼事件の衝撃、それでもNHKTVシリーズを健全な冒険活劇にして社会的責任も担えるような作品に仕上げなければいけないと考えるに、一杯一杯であった。
ともかくNHKの担当プロデューサーの爺さん相手に「企画があまりにも“ラピュタ”に似ている」と指摘したところ、相手はそれを認めないどころか口から泡を吹いて卒倒し、病院送りになってしまった。
東宝やグループタックの担当者に「お爺さん相手に気を遣え」と説教を食らうという無茶苦茶な展開を見せる。
これには当然理由があって、もともと「海底世界一周」というネタ本があり、これを元に「天空の城ラピュタ」は制作されたのだ。
原作で海賊となっているのを宮崎駿が空賊にしたために我々が知るような作品になっているが、不思議な力を持つ石を継いだ少女を巡って正義感あふれる少年と少女を利用しようとする巨大な組織が対立するという構図が基本にある。
同じネタ本から「不思議の海のナディア」の企画も進んでおり、企画を立ち上げた人間からすれば「ラピュタ」が先に作られたからといって自分たちの企画が「ラピュタ」をパクッたものでないことは明らかだ。
そういった自負があるゆえ、基本プロットを変更するわけにはいかなかった。
ただ幸いなことにかなりのアレンジを加えることを認めてもらい、制作にかなり自由度をもって臨める目途が付いた。
とはいえ、この打ち合わせのストレスから貞本義行が監督を降りると言い出した。
貞本の本分は漫画家にあるわけで、そちらに影響するようなアニメ作品を作るわけに行かないというのが大きな問題点であった。
無論こうした打ち合わせから、この作品の制作が非常にシンドイものになるということは見えたというのもある。
それでも監督を引き受けるというのは、男気があるか、そういった現実に目がつぶれる馬鹿でなくてはならない。
結局、庵野秀明が「俺がやってもいいですよ」と、これしか落としどころはないというのが分かった上で手を挙げることに。
岡田斗司夫氏もこれには頭を下げたという。
すると庵野氏はニヤニヤしながら「貸し、ですね」と駄目押しする。確かに貸しだ。
ガイナックスの社長としてどうしようもなかったわけで、岡田氏は「ありがとう」とまで言わざるを得なかったわけだが、「悔しい!」と切歯扼腕ものであった。
クーデターというのはおしなべて起こされる側に責任があるとはいうものの、それでも己のうちに巻き起こる感情は別であろうさ。
以上がガイナックスクーデターの大まかな顛末ということになろう。*3


ガイナックスはアニメ班とゲーム班の断絶がジワジワと広がっている状況にあった。
当然経営者が悪いのだが、ゲームの利益をアニメの負債に当てる構造はともかく、社内で職分による壁ができてきた。
それまでは職分を越えてみんなで作品を制作するという社風であったのに、これが他の部署や役職を越えての見通しが急速に悪くなった。
アニメ制作を助けるためにゲーム班で頑張っている赤井孝美は、左手仕事ばかりしていると岡田&山賀を責める場面もあったようだ。
ところが、経営者たる岡田氏はともかく山賀氏にはこうした追求は己の領分ではないとばかり新潟に帰郷してしまう。
そんな中でも、庵野秀明はお金を使うことに頓着せず、作品を制作する上での自分のペースを崩すことはなかったらしい。究極のマイペースなのか強心臓なのか。
とりあえず1990年のガイナックスである。
作品を並べてみると「不思議の海のナディア」「サイレントメビウス」「モデナの剣」「エイプハンター」といったラインナップ。
会社の人間が「俺たちのスタジオ」という意識から「あの人たちのスタジオじゃないのか」という意識を強くしたのもこの頃か。
それでも井上博明氏がVictorのコンポCreation5500のTV CMの仕事をとってきて、ロトスコープによるアニメを作ったりした。
同じような流れで、BOOWY「マリオネット」のイメージクリップを音楽業界のプロデューサーから頼まれるも、音楽業界は目下の人間の手柄を権威ある人間が自らのキャリアとしてしまう悪弊のあるところで、ガイナックスの北久保氏が制作した映像も当人の名前が出ることはなかった。
実際そのプロデューサーがしたことと言えば、大友克洋AKIRA」の単行本を持ってきただけであるのに。依頼通り「AKIRA」のイメージでかっちょええ映像を制作してもそれでは甲斐がないというものだ。
ここでようやくガイナックスの他のメンバーで圧倒的な才能を持つ、前田真宏の話が出る。
いろいろなイメージボードを制作しているのでちょこちょこ名前は出てきているが、ここまで前田氏がどんな人物なのか説明はされなかった。
だが岡田氏が改めて前田真宏を取り上げたときに表現した言葉は「圧倒的な才能」というものであった。
ゼネラルプロダクツ時代に映画ブレードランナーのグッズを庵野秀明園田健一に依頼し、彼らの描いたものは普通にオタク心を刺激するようなイラストだったりするわけだ。
ところが同じ話をした前田真宏は一ヶ月後に「できました」と持ってきたのは大きなポスター大の油彩かと見紛うばかりの(たぶん)水彩画で、激しい雨が一枚の写真に降りしきるという絵であった。
写真は雨に打たれているので誰が写っているのか定かではないが、どうやら写っている人物は微笑んでいるようだ。
この絵はブレードランナー世界のイメージで描かれており、誰が見ても「ブレードランナーだ」と分かる代物だったらしい。
だが、岡田氏が感じたのは「才能ってのはこういうものを言うのだ!」という確信とともに「このポスターは売れない」というものだった。
まさしく圧倒的な才能というのは、本人もプロデュースする側も使い勝手の悪いものであった。
王立宇宙軍」でも後半の人類の歴史を追っていく場面だとか、「不思議の海のナディア」でもアトランティス文明だとか、「トップをねらえ!」でも最終話の宇宙怪獣との死闘20分の印象的なカットとか、そういった誰も見たことがないような情景や非常にテクニカルな場面でしか登用されないのだ。
この前田真宏貞本義行が組んで制作していたのが「銀河空港」という作品である。
パイロット版まで完成したものの作品としてはロールアウトしなかったタイトルである。
パイロット版から製品版までの距離は短く、完成させることはそれほど難しくはなかったはずだ。
だが実際は完成しなかった。
これはひとつに内部の反応が薄かったというのがある。
山賀氏は自分の企画じゃないしとかわされ、赤井氏もとくに感銘を受けなかったようで冷静に対応され、庵野氏に至っては「バイクはいいですね」という感想であった。
あともうひとつの原因として作品のおさめ方(落としどころ)が分からなかったというのもある。
ここで井上博明氏の逸話が挟まる。
氏は24時間テレビで放映された手塚アニメに3本関わっていると先に書いたが、それは以下のような状況だったらしい。
どう考えても放映に間に合わないとあちこちで悲鳴が上がる中、彼は宇宙空間なら宇宙空間でともかく仕上がっている背景をすべてピックアップ、これにのっけて問題ないセル画の組み合わせを機械的に作り上げ、しかも内容を確認せずにとりあえず全部の組み合わせを先に撮影に出しておき、コンテの中の似たシーンに無理矢理当てはめてアフレコまでに演出家に調整をかけるという途方もないことをやっていたのだ。作品内容を知らないからこそ出来る究極のたったひとつの醒めたやり方である。
このような歴戦の戦士がいたからこそ、アニメ黎明期の世界は何とかなっていたのだとも言える。「ガンドレス」のような失態を晒すことにならなかったのは、まさに神懸かった職人がいたからでは。
岡田氏は井上博明を「ガイナックスというホワイトベースにやってきたランバ・ラル」と位置づけていた。
それはともかく「銀河空港」である。
これも岡田氏には知らされずに井上博明氏の下に貞本義行前田真宏がタッグを組んで制作した作品で、ロボットと人間が共存する世界が描かれている。
貞本氏も前田氏もどちらも作品に対してのイニシアティヴをとらなかった/とれなかったようだ。
貞本氏の思い入れあるバイクがテーマになっていて、これは後に岡田氏も作品の落としどころを相談されたものの、バイクに対するあまりに深い愛を理解できずに作品に対する有効な助言ができなかったという問題も含んでいた。
お話としては、とある星の廃墟というかスラム街の少年少女のイメージか。少女の夢を適えるためにロボットである少年が己の姿をバイクに変えて彼女を銀河空港に送り届けるという流れになっている。無論、二人の仲を裂くサイボーグを登場させて緊張感をもたせる構造にはなっている。
物語の世界観では、ロボットは独立思考型から使役されるだけの単純なものまで並存する状況。そんな世界のデートコースに「銀河空港」があり、ここで地球に旅立つ宇宙船を眺めるのが若者の憧れのようなイメージであった。
最終的に少女は銀河空港から地球に旅立ち、到着した地球からバイクとなった少年に思いを馳せるのだろうが「なんでバイクなの?」という点をどうしてもクリアできなかったという。
その貞本氏のバイク愛(人とバイクの関係)というのは、バイクの部品をヤスリかけて削りだしたり、エンジンを風呂場で全部バラして再構成するなど、生活がバイクと一体になるかのように“バイクする”という表現が適切な状況を指していた。これは確かにどうしていいのか分からない。その愛の部分は分かるにしても、話として理屈が通らないので作品にならないのだ。*4


ここまでで時間を使い尽くした感があり、あとはまとめ。
結局のところあらゆる面で行き詰まり感を見せていた会社を何とかするため、岡田氏は大阪から様々な事情で別の道を歩んでいた澤村武伺を招聘する。
澤村氏を後釜に据えて社長職を辞してしまうという思い切った荒療治にて、対応したのだ。この前後で井上博明氏も会社を辞めている。
この澤村氏という人物、よく分からないが社長就任に当たって大阪での資産をすべて処分して乗り込んできたというから物凄い。
兜町の風雲児として儲けていたらしく、ロシア語に堪能で(ロシアと取引してたから)、ガイナックスの社長になるのを辞めてくれと止める奥さんの制止を振り切り、退路を断ってやってきた。ガイナックスの面々(岡田氏を除く?)に因縁があるようで、彼らの窮状に颯爽と乗り込むことに個人的に思い入れがあったと思われる。
まあ、その後1999年に所得税の脱税によって責任を一手に引き受け(?)、塀の向こうに姿を消してしまうのであるが。
時間はちょうど23時25分になっている。
なのにレジュメは1枚目がようやく終了したところ。1991年のガイナックスはゲーム班も大作傾向の影響を受けてあまり稼げずといったあたりや、ガイナックス版ヤマトの話で松本零士庵野氏が誘われるといった話や、ナディアの最終回のネタ、宮崎駿以降の回答のひとつ(?)と目されるベルサイユの薔薇銀河英雄伝説略して「ベル銀伝」とか、「Wizard」やら「終わりなき戦い」の件はまた今度…ということだ。
あとクリエーターって庵野氏を見れば分かるように、結局のところ理解する力ではなく、解釈する力と自分に引き付ける力があればいいのだという話。


■質疑応答など
岡田斗司夫・作品創造意欲の構造
「意味」…個人的なもので構わない。よりによって自分がやらねばならぬ理由。
「正義」…この世界が少しでもよくなる確信。漢気。これがないとシンドイときに心が折れてしまう。綺麗事と思われがちだが、旗印として機能するので求心力を発揮して人が集まり、最終的に合意も得やすい。つまり効率がよい。
「利益」…関わる人々が少しでも良くなる、幸せになる。これは最低限の責任でもある。
結果として関係者の「笑顔」がこぼれるような状態になればベスト。
たとえば「銀河空港」では岡田氏の中でどうしても意味を見出せなかったところに弱点がある。
●話術について
東日本で一番口が上手いと自信を持っている。
それは人が決定的に分かり合えない存在ということを前提に、色んな表現でともかく相手が理解しやすい言葉を探りつつ喋るから。
話下手な人間は、自分のいいたいことを正確に表現しようとして何も言葉にできなくなる。
コミュニケーションなぞ、他人の存在を自分の中でエミュレートして伝達するようなもので、断絶しているのは当たり前。
●組織内の遣り繰りについて
ガイナックスのゲーム班とアニメ班のような状況に対応するには。
両部門を健全化するしかない。小技としては、システム的には人材交流促進、キャラクタ的な対処としては両者を取り持つ人間になること。
●パロディについて
宿題として持ち帰る。
作品の消費の仕方がこの10年くらいで大きく変わった。ゆえに昔のパロディと今のパロディでは意味合いが違う。
というのも作品の受け手である我々が変わったから。(社会のインフラの変化に我々が影響されたがゆえ…というのもあるかも。携帯電話やネットの存在など。)
一般的な世代論は意味をなさないが、我々というハードは毎年世界の中でいろんな価値観を身内にダウンロードして自分というソフトにパッチを当てているような状態だと見なせる。ゆえに40歳の人間は1970年代後半の価値観を10代のときに取り込んでおり、1980年代後半の価値観を20代のときに取り込んでおり…という風な積層構造になっていて、互いの価値観を自分というOSの中で統一的に扱うために統合化が行われているはずである。ときにそれはコンフリクトを起こしたりするものの、基本的には日々最適化して自分というものを構成しているのではないかという指摘。
そして現状は、作品が生まれた瞬間にパロディ化されることを運命付けられている。これにより我々は作品を通して「仲間が欲しい」という欲求を満たす。
著作権について
実体は単なる既得権の主張である。明らかに当座の手段として採用されたシステムなので、現在のような長年の使用には耐えることが出来ない。
それゆえガタが来ているのだとも言える。
(どこかでエイヤッと新しいシステムを全面的に導入しない限り、この手の仕組みは色んな手を加えつつ恐竜みたいに巨大化しつつも続いていくものか。)


以上。

*1:アニメ・インターナショナルカンパニー。詳細はWikipedia参照。

*2:新井素子も吃驚。

*3:ゼネプロ時代を含めるとクーデターをやったりやられたりで通算3回目に当たるとか。クーデターにも歴史あり、てか。

*4:まるでおいらのGhaeleに対する愛情のようだ…などと言わないように。