岡田斗司夫の遺言5 新宿ロフトプラスワン

5回で終わらぬ遺言もある。6回目は6月中旬〜下旬になるとのこと。
刑事ドラマ「太陽にほえろ」か何かで、メインの登場人物が殉職する場面、仲間に後事を託すシーンを延々20分以上続けたという話に似ていると岡田斗司夫氏自身も呆れていた。
それはともかく、今回はおいらがずっと聞きたかった「不思議の海のナディア」が題材にあがっている。
今までも俎上にあげる予定だったため、岡田氏はTSUTAYAでDVDを借りていたのだが、ここまで予定がズレこんだため結局DVD-BOXを購入したという。なにをかいわんや。
レジュメは4枚(この日消化できたのは、またもや1枚と1/3くらい)。
不思議の海のナディア」から「没企画(残り)」を経て「トップをねらえ!2」までが残課題である。
王立宇宙軍」を制作しているときも岡田斗司夫山賀博之の間で話題に出ていたが、何か観客に集中を要するイベントで2時間半を越えるものはまずないとのこと。
それは楽しみを提供している範疇をこえるがゆえに、“こわさ”があるよねと指摘する。
総計3時間で途中休憩アリというものはあるだろうが、単独のトークイベントでここまで視聴者を釘付けにするタイプのものはないであろう。
これに加えてLoftPlusOneの斎藤さんから、この日収録のあった「徹子の部屋」についての話もしてくれとの要望もあって、まあ終わらんよねという会場の雰囲気である。
あ、なんかおいらの席の近くに大内明日香さんとよくお見かけする男性2人が来てたような。この人うちの妹と同い年なんだよな…いや関係ないか。
ともかく「徹子の部屋」は「怖い部屋」だったというのが岡田斗司夫のファースト・インプレッションだったようだ。
レプリカントに「思い通りにならないのはつらいだろう?」と言われて殴られるデッカードの気分(「ブレードランナー」より)だったという。
お笑い芸人が「徹子の部屋」に出ると必ずスベるというので、アメトークテレビ朝日の番組らしい)でこれをネタに特集した「徹子の部屋」対策の回を録画していて、これを前日に勉強してから臨んだものの黒柳徹子のマイペースっぷりにやられたとか。
詳しくはまた後で…といういことで、なし崩し的に本題にゆるゆると移っていく。


■前半
岡田斗司夫が述懐するに、自分が幸運だと思うのは、アニメの草創期ではなく思春期というか青春時代を共に歩めたことだという。
ぶっちゃけ「何やってもいいんだー!」という自由奔放さが、ジャンル自体の若さも相まって許容されてしまう状況にあった。
制作側も管理側も視聴者側もそこそこのいい加減さを備えていたような気もする、ということなのだろう。でなければガイナックスの数々の伝説が生まれてないのは確かだ。
アニメ業界だけでなく何かをなそうという集団でステップアップするイメージとしては、優秀な人材集うプロジェクトに参加してなにがしかの貢献することでプロジェクト参加者のレベルアップを体感するところから始まり、1)やりたいこと、2)やれること、3)やらしてあげたいこと、といった3点について拡大・深耕していくのが定石である。
しかしながらこの成長のサイクルを、それが当たり前になってしまうがゆえに苦痛に感じるというのは何となく理解できるところではある。経済としては全く真っ当な、会社が常に右肩上がりの未来図を描く不気味さが、個人的には同様の感覚だと思うが如何に。
ともかくプロジェクトのためにPartyを組んで各自の役割分担(ポジショニング)が明らかになってしまうと岡田氏には窮屈だと感じられ、面白くないのでこのままアニメを制作し続けるというスタンスにはならなかったのだ。
結局、会社として安定的に作品を作り続けるといった大きなルーチンを担うことはできなかった…とも言える。
話はちょっと横道に逸れ、ここで「創聖のアクエリオン」にはまっている話をする。以前の「遺言」ではたしか「何が面白いのか分からない」と述べていたが。
確かに1〜4話はつらくて、とくに2話はどうしても見れずに寝てしまうのだが、それを抜けるとマゾヒスティックな先に面白さが垣間見えるのだ。
それはたぶん河森正治ら制作者が透けて見えるところに、面白さの肝があるのであろう。何話か視聴してみて言えるのは、最後まで主人公が好きになれないというか、キャラクタデザイン(たぶん絵面ではなくて人物造形だと思われる)がショボ過ぎるということだ。
どうやら「アクエリオン」ブーム到来といった有様のようである。
本当はこうした状況のときに色々と聞き出せると面白い意見が聞けるのであろうが、自分もアクエリオンは通して見たことはないので先の話を聞くことに。
で、「不思議の海のナディア」である。
前回説明したガイナックス・クーデターをもう一度おさらいして、井上プロデューサーがやりたかった点を整理。
1)貞本義行に何かやらせたい。(「王立宇宙軍」のとき、井上博明は貞本の若さが現場のベテランに通用するか心配していた。だが絵師の世界は絵がうまいヤツにこそ説得力がある。ゆえに「貞本で行ける!」と判断した)
2)NHKでやりたい(当時のガイナックス主流派である岡田・山賀とそれに連なる関西組ではない人材とともにうってでるには相応しい大舞台である)
しかしながら、貞本・前田両名はこのとき率先して監督を引き受けて作品を主導していくような条件が整っていなかった。
それは周囲の人間が凄すぎて萎縮していた部分もあったのかもしれないし、様々な要因があったのは確かである。
一緒に仕事した相手をざっと見ただけでも庵野秀明赤井孝美岡田斗司夫山賀博之美樹本晴彦(超時空要塞「マクロス」のときに手伝いに行って一緒しているはず?)など錚々たる面子がそろっているのだから、彼らと同じように監督なり何なりしなければならないとなったら、相当の実力があったとしても躊躇するのではなかろうか。
あと海千山千、煮ても焼いても食えない人物例として富野監督を例にひき、監督のような全共闘世代は最低でも二面性、下手すると状況状況で全然違う人物のようになってしまうので手に負えないという話をする。
鵺のようなもので、馬鹿な話のリアクションが「岡田ちゃ〜ん、何言ってるのぉ〜」だったり「馬鹿なことを言わないでいただきたい!」だったり煙に巻かれることおびただしい。
つまりは井上プロデューサーの思惑通りには進まず、貞本義行前田真宏は自分たちだけで好きな作品を制作するというわけにはいかなかった。
特にNHK側の問題というのもある。
NHK側はNHK側で、岡田斗司夫が「これって宮崎アニメのパクリじゃないですか」と指摘したら泡吹いて病院送りになってしまったお爺さんプロデューサーにもそれなりの作品に対する夢や希望があったわけだ。
彼は今までのNHK名作劇場のような「いい子が見るアニメ」ではなくて、普通の民放で流れているようなアニメをやりたかったのだ。
けれどもガイナックスなどという危なそうな会社に制作を任せるのはリスクが大きいと判断していた。
ゆえにタッチ(あだち充)を制作していて安心感のある株式会社グループ・タックと共同制作させれば、なんとかなるのではないかと考えたわけだ。
これは実にプロデューサー的な発想で、まずプロジェクトの人的配置というフレームワークとして考えてしまう点を指摘する。
球漫画の得意なマンガ家とSFが得意なマンガ家を組み合わせたから素晴らしいSF野球漫画ができるというわけではないのだ。
しかしながらプロデューサーはフレームとして制作体制を作り上げて管理せねばならぬゆえ、そういった思考になりがちである。
そして「不思議の海のナディア」を語る上で、明確な証拠はないものの状況証拠はあちこちに散見された重要なポイントに、日本・韓国の国家間の取り決めというか申し合わせの問題があった。
どうやら1988年あたりの外交上の指針として文化支援の中に「韓国の制作会社にアニメ制作を教える」といった項目があったようなのだ。
実際はどうかよく分からないのだが、ガイナックスはこの件を上から「国会で決まったことだから」と伝えられたという。
動画・仕上・撮影について、ときには一括して全部、ときには一部のみ、韓国の世映動画に発注せねばならぬという、これまでのガイナックスの制作体制からは考えられないようなシバリが入ったのだ。
当時、「不思議の海のナディア」の感想をニフティサーブパソコン通信)で確認していた岡田斗司夫は、「作画が駄目!」「ガイナックスは何をやってるんだ!」という書き込みがあるたびに、「ちゃんとエンディングクレジットに世映動画と入ってるのに、言いやすい俺たちばかりに非難が集中する…」とハンカチをかみ締めていたとか。
無論、発注した代物が完璧に近い状態で返ってくることもあったのだが、問題は宅急便で日本に届くまで作品の品質がチェックできないことにあった。
今までは何かトラブルがあっても最終的に自分たちで動画も色塗りも撮影さえもやってしまえばいいや…というのがガイナックスのスタンスであった。
それが自分たちではどうしようもない手順が挿入されたのだ。貞本義行の顔が曇るのも分かるというものである。
また日本では下層に属するアニメーターも、韓国ではエリートであるとのこと。その意識も当然違っていたのだろうが、日本に送付する納品物の宅急便にキムチが同封されていたというから魂消る。
向こうとしては親切で送ってくれているのだろうが、あるときキムチの包装が破れて汁が溢れて大変なことになっていたので、「キムチはやめてくれ」と連絡したら次から韓国ラーメンが同封されてきたという。
食物を同封するのはもともとマズいことなのであるが、当時新聞でも報じられていた拳銃や麻薬の密輸など本当にヤバいものであったらと心臓に悪い思いをした。
なぜなら、そうしたアクシデントで納品が遅延すると契約上違約金が発生するからである。
NHKエンタープライズと直接契約して納品責任を負っているのは東宝とはいえ、当事者たるゆえどちらにしても責任は問われるであろうから。まったく泣くに泣けない状況だ。
こうして品質管理できない悩みを貞本義行は抱え、前田真宏は「いやボクは監督なんてガラじゃないですから」と話を他人事として逃げ、どうにもならなくなって岡田斗司夫を経由して庵野秀明が登場したのである。


まとめると「不思議の海のナディア」を裏舞台から眺めると、すでに制作開始前に大きな問題を抱えていたことが分かる。
1)週刊連載。テレビの特番など入る予定だったので、年間39話ながらも基本一週間に一本放映される。これはガイナックスの体力的にどうなの?
2)制作システムの肥大化。世映動画(韓国)への発注を含めて、あまりに大きな体制での制作ゆえ見通しは悪いしうまく回っていくの?
3)ガイナックスクーデターの影響は? 結局、井上博明にプロデューサーを降りてもらい、岡田斗司夫が代わりに入らずに村濱章司(現在はGONZOの元・代表取締役社長。元とあるのは経営赤字の責任をとってか取締役に降格。さらに現場に復帰…している?)を3階級特進くらいでプロデューサーに据えた。いったん制作デスクに格上げした後そのままプロデューサーに抜擢しているから2階級特進か?
この3番目の点については、実は岡田本人がプロデューサーをするのが対外的には睨みもきいてよい施策のように思えた。
だが当人はクーデター当事者を断罪した独裁者のごとく作品を乗っ取る気分がして嫌だった点、あとやはりNHKでテレビシリーズをやるという必要条件をクリアする作品づくりに対して本気になれない点、これにより無責任にも若手に下駄を預けてしまったようだ。
作品そのものやその背景からは浮かび上がってこない事情がここにあった。
さらに言うなら、テレビシリーズの必要条件とは少年少女を主人公に据えて1年通して安心して視聴できて大団円へとたどり着くような仕様というか要件を指している。
岡田斗司夫の言い方だと「レギュレーション」ということになる。F1で走るならその細かい仕様を外れてはサーキットでレースに参加すらできないという類のモノだ。
D&D Gamerにはお馴染みの話で「ガエルが出る余地のないレギュじゃ、ちょっとなあ…」というのと同義だと思ってもらいたい。
結局、作品制作の裏テーマとしては、村濱章司を如何にうまくプロデューサーとして成長させるかという課題も含みつつの状況であった。
こうした状況下でNHKから年間39話分のプロットというか粗筋が提示されるものの、これが平凡で気に入らない。
いやプロットが平凡でもアイデアでふくらませることで話は豊かになるのだが、そのアイデアもイマイチだったのだ。
仕方ないのでガイナックス側で手を入れる。海底二万マイルを下敷きにしているのはいいとして、そのままSFにしてしまったのだ。
庵野監督主導の「不思議の海のナディア」において、岡田・貞本・前田という3人はアイデアは出すものの採用されずだんだん窓際族の様相を呈していくのであるが、それは作品制作における課題の違いにあったようだ。
このときクリエイターとして岡田斗司夫が抱えていた問題は具体的には物語の中に如何に登場人物を配置すべきかといったあたりになるのだろうけど、その例として以下のような話をする。
まず1話目でパリ万博を扱うことは設定上決まっていた。
登場人物が西洋人ばかりということで(名作劇場とかはそういうものであろうけど)、ここに日本人を組み込むことで話に厚みを持たせようとしたのだ。
調べてみると薩摩藩がパビリオンを出展しているゆえ、日本人の少年剣士を登場させるに歴史的な背景がないわけでもない。
作品ではマリーの立ち位置にくる人物はまだ人物像が確立されていなかったので、ここに日本人を組み入れ、その事情をにおわせることで当時の雰囲気を伝えられるのではないかと踏んだのだ。
こういったリアリティの作り方に貞本氏も共感して庵野監督に提案するものの、彼がやりたいことはまず“タイムボカンシリーズに如何に近づけるか”であり、少年少女向けシリーズに限りなく接近しておいてから自分らしさを出すという方向にあった。
最終的に物語の骨子、整合性をおいてでも登場人物をどこまでも描写していく、その魅力を丹念に描きあげる姿勢にこそ庵野秀明の真骨頂があった。
これはどちらも大切なアプローチであると思うが、結局庵野秀明がキャラクタを信じて最後まで突っ走った結果として作品は提示されている。
それはそれとして。
岡田斗司夫のやりたかったことは司馬遼太郎坂の上の雲」だった。
ナディアたちの生きている時代から日露戦争(1904年)あたりまで、国力とは海軍力のことであり、艦船とくに軍艦というのは国家の象徴でありいわば城塞そのものであったのだ。
そんな時代の超兵器を描きたいという望みを持っていた。
超兵器といったもまったく歯が立たないようなものではなくて(それではまさしくお話にならない)、これを通常兵器で何とかして渡り合わねばならぬ類のものと位置づけていた。
そうした微妙な関係性を精緻な描写をするには描かれる世界を重層的に視聴者に提示できるようにあらかじめ仕組まなければならない。
作品内で起こり得ることを現実に近づけ、登場人物が我々の延長線上にいつつも当時の薩摩藩なら薩摩藩に所属する少年剣士としての立ち位置を読み取れるようにしておく必要がある。
たとえば主人公の少年を助け合いたいという感情面だったり、薩摩藩に所属するということで縛られる葛藤であったり、すべてを描く必要はないもののその余地のある奥行きのようなものを用意しておくべきなのだ。
岡田斗司夫はここで「機動戦士ガンダム」について言及する。
富野監督はカイ・シデンハヤト・コバヤシを最初から独自のエピソードを担う予定で配置したのではなかろうと見ている。
ただ物語を長く走らせるに当たって、まるで将棋を指すように登場人物をうまく配置した結果、逆説的になくてはならない人物として物語内で活きてきたのだという。
これに対して「世界系」と言われる作り手の、現代のクリエイターの共通の欠点である現象、登場人物が話の中でどんどん絞られていって最後には数人残った人物だけが納得できる結末にしかならないという有様をチェスのようだと表現している。
将棋型は初期に配置した登場人物が最後まで物語に関与して話が活きてくる、チェス型は登場人物が物語の進行と共に追随できずに絞られるが故に話に厚みが出ないし矛盾点が表出することになるのだ。
不思議の海のナディア」でも後半、グランディスさんは「一体どうなってんだい!?」としか言わなくなっている。
つまりはようやく出てきてもこういった扱いになってしまうのだ。
また、今川泰宏監督の「ジャイアント・ロボ 地球が静止する日」でも最初に孔明がネタ晴らししとけば、そもそも悲劇は起きなかったのではないかというツッコミ(これを無粋という見方も当然できる)が成立する。
不思議の海のナディア」でも最後のガーゴイルが成仏したのは己が何者か納得したからだけど、それもちゃんと教えておけば悲劇は避けられたわけだ。
つまるところ物語は整合性を欠き、登場人物は使い捨てを余儀なくされる。
こうした岡田斗司夫の感覚からすると許容できない問題を抱えつつも、「不思議の海のナディア」は生き残った登場人物がどうなったかという話として成立しているので、それはそれで良いのだとしている。
庵野秀明にことごとくアイデアを採用されなかったガイナックス窓際組であるが、前田真宏が「ネモ船長って、クジラしか友達いなさそうだよね」といったあたりは、なぜか採用されている。
それどころか39話中のまるまる1話をその話に費やしている。にもかかわらず後の話には一切関わってこないのだ。なんでも最終決戦に助けに来るとか案としてはあったようなのだが、ついに最後まで登場することはなかった。


ここで映像準備。
岡田斗司夫が設定を考えてくれと依頼されたのは「Blue Water」そのものであった。
これに話を持って行く前に、第七話「バベルの塔」の映像を流して解説するという段取りに。
そもそもネオ・アトランティス側にガーゴイル以外に魅力的な人材がいない点を指摘する。彼らの持っている悪の論理も納得できるものではないので、ガーゴイルにすべてを託してその勢いで話を進めるしかないのだ。
結果、ガーゴイルは自ら演説し、自ら重要捕虜(ナディア)の尋問を行い、陣頭指揮をとるといった働き者として描かれる。
映像は「ナディアを捕虜としたガーゴイルが組織の幹部と思しき面々を集めて“バベルの塔”完成披露パーティー&試射会を開く」という場面が展開される。
無論、ナディアを救いに基地に潜入したジャン+グランディス一味も場面に参加するものの、基本的に「悪の組織」の計画とその力を視聴者にしらしめる回だと言える。
人造Blue Waterのエネルギーを元に、軌道衛星上に展開しているという“しもべの星”(反射衛星)を介して、地上の重要施設を破壊せしめる「反射衛星砲」(元ネタは宇宙戦艦ヤマト)の脅威を描いている。
(途中でこの反射衛星砲の基部にあたるギミックのデザインに土器のようなオブジェクトを配置した点につき、前田真宏のセンスを褒めていた。視聴者が形状を知っていて、設定上の古代文明の遺産であるという流れを汲み、おさえるべき点を過不足なくデザインに収斂させる手腕をセンスが良いと評していた。)
ところが…と岡田斗司夫は指摘する。
このガーゴイルの言によれば12年の歳月と巨額の予算を投じたプロジェクト、次の回であっさりと破壊されてしまうのである。
しかもよくよく見ると、しもべの星を確認できたのはプロジェクトが完成する段階になってからで、それまでは実在さえ疑われていたのにプロジェクトは推進してきたようなのだ。
一番の問題は、ガーゴイルが悪の首領の絶対性を守るため、悔しがらない点にある。
絶対不可侵性を保つため失敗を認めないという態度は、旧日本軍の体質と同等であり、その時々は乗り切れても次第に視聴者が醒めていく要因になるに違いなかった。
そのまま推移したにしても「しもべの星の存在が確認できただけでも後々の計画のために大きな収穫であった」などフォローの場面を入れるという対応もあったであろう。
こうした物語上の不整合を避けるスタンダードな方法は、「仮面ライダー」などで見られるように、倒される怪人や潰される計画が次の計画よりも下位に位置するという構造である。
少年マンガの展開でいえば、町内一>日本一>世界一>宇宙一>別次元の存在相手に勝つ、というひたすら上位方向へのインフレで話を継続する手法と同義であろう。
この方法であれば上位計画がある限り、悪の組織としての機能は果たせることになる。
しかしながら、これは台詞だけで説明するだけでは意味がなく、実際に登場人物が計画にそって動いている描写をしなければいけない。
これを言葉と雰囲気だけでもっていってしまうと「新世紀エヴァンゲリオン」の“すべてはゼーレの計画[シナリオ]通り”といった表現になってしまい、内実が伴わなくなってしまう。
(この比喩は会場に集った人間のツボにはまったようで、皆爆笑していた。)
こうしたことの積み重ねが世界観をインフレ状態に導き、より大風呂敷が広げられたときに拠って立つ物語内現実を侵食して話を空回りさせてしまう。
ところが、こうした構造的欠陥を内包しつつも強引にキャラクタを描ききることで押し切った庵野秀明の天才性も認めねばならぬところであろう。
というか、庵野秀明の天才性に注目といった流れで次へ。
黒澤明監督作品などは、シナリオ担当者が何人もいて物語内の不整合は徹底的にチェックされて、完成度を高めているのだそうだ。問題は完成度が高いからといって、視聴者の受ける感動が必ずしも大きくなるわけではない点にある。)
ここでようやく岡田斗司夫が設定を考えたBlue Waterの解説に話が移る。
説明によればBlue Waterは「物質」かつ「生物」かつ「概念」であるとのこと。
実体化したプログラムなどと言われても具体的なイメージがつかめない。万能アイテムとか永久機関っぽいものなのかしらん?
アトランティス人が地球にたどり着いたとき周囲は原始人といったレベルであろうから、もともとバベルの塔は破壊兵器ではなく母星との通信手段であった。
その点、ネモ船長もガーゴイルも塔の建設目的を誤解しているのだと指摘する。
どういうカラクリになっているかというと、Blue Waterは地球の歴史を記録した超科学による録画媒体として使われていて、その記録が一杯になったところで母星に連絡が行き、アトランティス人が回収に来るわけだ。
まるで番組の録画が済んだからデッキからビデオテープを取り出しに来るかのように。
Blue Waterは地球誕生から現代までの歴史がまるごと記録されているため、情報そのものが質量を持つほどの様相を呈している。
こういった設定を考えていたのだ。
ここらで「不思議の海のナディア」最終回の模様を映像で見ることに。
岡田斗司夫貞本義行前田真宏ら窓際チームが考えていた物語を重視した最終回、いわゆるもうひとつの最終回を語る前に現実の最終回を検証するという段取りだ。
だんだんとキャラクターショウになっていく「ナディア」に、岡田斗司夫は納得していない。
最終的にガーゴイルを如何にして救うのか、という課題を抱え続けていたのだ。
そうはいっても洗脳されたかに見えるナディアが最終場面でのやりとりを経て、兄や父と別れてジャンを取り戻し…といった展開には今見ても心震えるものがある。
ここを冷静に「奇跡のつるべ打ち」と表現している。
つまり物語を提示する上ではルール違反を畳み掛けていることになる。
にもかかわらず台詞の力と演出によって視聴者の心をとらえて離さない。
まず「ナディアの心は戻らない」とガーゴイルが宣言しているにもかかわらず、ネモ船長の台詞によって制御装置を壊せば心は戻ると切り返している。
これで条件付けがされたことにより、障害解決のハードルがぐっと下がっている。
さらには機械化された(ナディアの)兄さんがナディアの頭にはめられた制御装置を壊しに一歩一歩進んでいくことで、ナディアが自分自身を取り戻すといったどうしたらいいか分からない類の問題が、兄さんが彼女のもとにたどり着けるかどうかという単純な問題に置き換わっている。
そしてガーゴイルは駄目な悪役お定まりのコースを歩みつつも、これを阻止するために兄貴の身体に電力を供給しているコンセントを抜くのであった。
(会場はここでも爆笑。たしかにコンセントは笑えるが、初見の人も多かったのかしら?)
さらにいったんは動きを止める兄さんが、“最後の力を振り絞って”という描写の力のみでナディアの心を縛っている(と思われる)制御装置を破壊してみせるのだ。
この一連の流れのシーンで、ガーゴイルのみが台詞らしい台詞を喋り、同じ場面に登場する他の人物は視聴者同様、手に汗を握って見ているだけ…という演出で押し切っている。
これはなかなか凡人にはできないことだ。
つい「魁!男塾」のように状況を解説する台詞なんぞを入れたくなる。
(機械の身体にされたナディアの兄さんが爆発する場面、いったん目が見開いてから爆発するのであるが、コンテでは指示されることもない動画担当?のセンスが光る仕事に、こんな秀逸な表現:目が見開いてから爆発することで「取り返しがつかない感じ」や「確かに存在が消えてしまった感じ」を絵にできる才能を手放さないように…との言あり)
こうした緊張感を維持して話を展開させることで、作品の品格を醸し出している。
先に作品がチェス型として話に関与できる登場人物が絞られた中で、ここまでの最終回を展開した庵野秀明の力量には感服である。
そうはいっても、最後の最後でガーゴイルが何者なのか告げるネモ船長に、「早く言えよ!」と思わずツッコミを入れる岡田斗司夫であった。


エピローグをそのまま流さずに、ここでいったんPAUSEボタンを押す。
たとえば最後の最後にネモ船長がニューノーチラスの主砲でナディアたちの未来を切り開くべく自らの命を懸ける必要があったのか? とツッコミを入れる。
主砲のコントロールに船長のDNAコードが必要だとか理由はいろいろあるでしょうが、犠牲になるのが老機関士であってもいいのじゃなかろうか、と。
話に入り込んでいる側からすれば、島本和彦調に「ネモ船長は漢の死に場所として最高の舞台を選んだんだよ!」と自らを納得させもするのであろうが。
こうした庵野秀明の最終回を視聴するにつけ、岡田斗司夫も物語の整合性云々よりも、視聴者の心の温度管理こそ重要なのではないか(意訳:クリエイターの真価が問われる課題なのではないか)としている。
受け手の心の動きを制御しようという考え方そのものは、佐藤亜紀「小説のストラテジー」で語られている内容につながっていくのだろうが、こちらはまた別次元の話になるので置いておく。
こうした本編の矛盾や登場人物が収斂されていく中で、繰り返しになるが庵野秀明は登場人物の行く末を描くことに徹してここまでのものを提示できたのだ。
おいらが「ナディア」を好ましいと思うのは、岡田サイドからの物語構築アプローチを受けつつも庵野サイドが登場人物アプローチで乗り切るといったアクロバットを含んでいたから、その空気を匂わせていたからかもしれない。
ともあれ、ここで岡田斗司夫ら窓際チームが考えた最終回が披露される。
ジャンは科学者となり飛行機による大西洋横断単独飛行を成し遂げ、ニューヨークタイムズの記者となったナディアの出迎えを受ける、というのがいったんの結末。
二人が結婚するというのは、もうひとつの最終回でも変わらぬ出来事であった。
ただジャンの抱えていた科学への楽観的な信仰についてのその後を描こうと、話は一気に1945年に飛ばすことに。
ジャンもナディアも初老の夫婦になっている。
そこに日本に原爆投下のしらせがもたらされ、周囲はファシストの始めた戦争を終結させた正義の兵器としてもてはやす中、それがガーゴイルの扱ったのと同じ科学に属するものだとジャンには実感できる。
ガーゴイルとの戦いによってさしものジャンも科学には暗黒面があることを認識し、自分たちの体験を封印して世界から隠していたのに、とうとう世界は科学の暗黒面に到達してしまった…という展開だ。
しかしながら、ナディアはそんなジャンがかつて自分を連れて行ってくれると約束した宇宙へ旅立つためのロケットを準備していることを知っていた。ついに二人はロケットに乗って宇宙に向けて旅立つ、といったところで締める。
この流れは後の「オタクのビデオ」のプロトタイプになっているというが、おいらは未見なのでよく分からない。
結局、アトランティス人が欲しかったのは「人類映画」とでもいうべきBlue Water内に納められた歴史そのもので、Blue Waterが解放されるシーンでは地球上のあちこちで人類の歴史イメージが(「王立宇宙軍」の後半で同じく人類の歴史のカットが次々と切り替わる場面があったように)流れるというものであった。
この点につき、岡田斗司夫はさらに「スコラ学」を引き合いに出して説明を続ける。
スコラ学派というのはとても面倒なことを考える学派で、説明を聞くに屁理屈が得意だったとしか思えないのだが。
ともかくその学派が神の存在証明をしたという。
神の存在証明といった命題は当時の人々には切実な問題であった。
まず「神は万能である」と聖書の裏打ちを得て定義した。
万能とはいかなることかというと、すべての属性を持つということだ。
ならば「存在する」という属性もそのうちに含まれるに違いない。ゆえに「神は存在する」と結論付けたのである。
なんだかこの呆然としてしまう理屈に、ヘーゲル(?)が「そんなわけあるか」と否定するまで、人々は300年も「なるほどなー」(アイギス能登麻美子調)と思っていたというのだ。
なんでこんな話を展開したかというと、ナディアの祖先であるアトランティス人を如何に捉えるべきかと考えたとき、万能なる神をイメージしていたからだ。
神は万能なるがゆえに孤独であろうけど、それを感じることもない。
ただその無聊を慰めるために、万能でない人間を生み出したと考えるのが自然である。はっきりいって退屈しのぎである。
なんでも黒人の賛美歌に「喜びの機械」というのがあり、神から見た人の本質はそれではないかと看破する。限りある生の中で喜怒哀楽の感情を繰り広げるその様を観察するために我らは生み出されたのだ。
このような洞察のもとに、アニメを視聴する人々とアニメという虚構の登場人物たちの関係性は、神と現実の人間たちの関係性に対応しているし、ナディアの世界でもアトランティス人がBlue Waterによって人類の歴史を閉じ込めたアカシックレコード(Akashic Records)として設定したのは同じ対応を意図してのことであった。
ここまで設定を練りこんだのは、当然ながら100人からのスタッフを1年なり2年拘束するプロジェクトゆえ、各自がそれだけの期間作品作りに人生を費やすにに足るだけの土台がなくてはならないからであった。
岡田斗司夫は言う。
島本和彦の台詞に心躍らせる我々は、なぜ親身になってくれているはずの肉親の説教に反発するのか?
虚構の世界の嘘の人々の感情をもらうことで、我々は明日を生きる活力を得るのではないか。そこで得られる感動は現実のものであるゆえ。
Blue Waterに記録された人類の歴史は、まさに神々のHDD録画のようなもので、大いなる楽しみを提供する。神は人々を眺め、人々はアニメを眺めて過ごすという対応なのだ。
ここでPAUSEを解除して庵野秀明監督の「不思議の海のナディア」エピローグが流される。
マリーが各登場人物のその後を紹介して最後に模型飛行機を飛ばしていつものエンディングに繋がるという、これ以上ないエピローグを視聴。
まったくキャラクタを如何に信じて愛せるかに尽きる。そんなつくりであった。
試写でこの最終回・エピローグが流れたとき、スタッフは全員拍手とともに「終われたよ」とつぶやいたという。
本当に終わらせることができるのか?という不安を誰もが抱いていた中、1年間番組を愛してくれた視聴者は登場人物を好きになってくれたであろうという確信とともに、庵野秀明は見事に登場人物の存在を確信して各自に相応しいラストを用意したのだ。
岡田氏の話も聞くには聞いて、たぶんノーチラス号を最後日本海溝に沈めて乗組員はその時代にあった普通の生活に戻っていくあたりに何となく反映されただけであろうとも、それはそれで見事かつ強引なまとめっぷりであったろうさ。
岡田斗司夫の視点であれば、どうしてもジャンの楽天的で無責任な科学万能の価値観の決着をつけずにはおけないところであるが、これはこれで十分だと考えることもできる。
科学は原爆を生みそれによる悲劇をも生んだが、隣にいるナディアを喜ばせたり安心させたり逆に不安にさせたりすることはできる。
つまりはジャンは欺瞞を抱え、ナディアは疑問を抱えつつも、互いが互いを好ましく思っているならばその関係性にこそすべては集約されるべきなのであろう。
嘘をついてでも、自分の信じるものが内包している矛盾を知りつつも、相手を安心させたい、相手に伝えたいと思うのかもしれない。
それはアニメというか虚構を構築するすべての作品において、同じことが言えるのではなかろうか。


「ナディア」を境に、岡田斗司夫庵野秀明と同じ方向には歩まず、別の道を行くことになる。
それはやはり整合性に拘る己のスタンスというものがあり、「王立宇宙軍」「トップをねらえ!」とアニメでやりたいことはやってしまったがゆえにその場に留まっている意味もあまりなかったからであろう。
プロデューサーという最高の食材、最高の料理人を集めて最高の料理をつくった人間が、いまさら監督という一料理人になって人参を刻むところから始めて最高の作品をつくろうという気にもならなかったというのも納得できるところだ。
ここまでノンストップ2時間半。
キリが悪いので休憩もなしであった。


■後半
この日ロフトプラスワンは深夜イベントが入っているため、後半は1時間も残っていない状態であった。
仕方ないので「徹子の部屋」の話を少し。
この番組はやはり黒柳徹子ひとりの番組であり、対象がF-3、F-4(Female30, 40. 30代、40代の女性)であることを非常に意識しているとのこと。
たしか月、火曜日で3組ずつ連続で収録するのだが、黒柳徹子がゲストに対する質問をメモに書き出し、それをつなげた原稿を番組ディレクターに渡すのだそうだ。
ディレクターといっても黒柳徹子主導の番組なので、スタッフにそれを徹底させ、収録合間に質問に漏れがないか確認する黒柳徹子に応対するといったあたり。
この番組で若手芸人が滑るのは当然だとする。
最近の芸人、藤崎マーケットラララライ体操にしても「文化の強要」というのが前提になっている芸である。
岡田斗司夫の言だとイジメッコの論理による芸なのだ。
「分かるだろ?」や「分かれよ」といったアプローチがまずあり、これに「分からない」と応えた途端、受け手は芸の対象外となるのが特徴である。
つまりは関連性を強要するところから始まるのであるが、30代、40代の女性にこれが受け入れられるとは思えない。
ゆえに黒柳徹子はすべてのこうしたアプローチを弾き飛ばし、豪腕を持って番組を切り盛りしていく路線を頑なに守ることになる。
岡田斗司夫ゲストの回では、レコーディングダイエットへの並々ならぬ興味からそれ以外の話題に発展せず、「俺に興味ないでしょう?」と確認したくなるような状況だったらしい。
徹子の部屋」は一般視聴者代表ということで20名くらいの公募されたオバサンがスタジオ雛段に座らされているそうだが、ゲストとの対談をしている場所から優に10メートルは離れているとか。
なんでそんなに離れているのか分からんのだが、黒柳徹子は番組進行中そちらの反応を伺ってモニターしているというから面白い。
さらに週6回?それぞれのモニターは微妙にセグメント分けされているというが…結局のところ岡田斗司夫の感覚としては「Dutyを果たした」という気分であるらしく特に面白い報告ができるわけでもなかった。・


後はテレビに出演するようになって考え方が変わってきた点について。
最初は「せっかくだから言いたいことを言う」というスタンスで臨んでいた。これが次第に楽しそうな顔をするように気を遣うようになった。それは視聴者に対してどのようにアプローチすべきかといった岡田氏なりの考えであったろう。
さらに最近ではテレビに出る自分について考えた結果、そもそもテレビは現代人の鈍ってしまった時間感覚や季節感覚を補うパーツとしての役割を担うのが現在のあるべき姿なのではという領域まで到達した。
言ってみれば「時間と季節を映すShow Window」というわけである。
ゆえに季節感溢れるネクタイを締めたりして、時間と季節に相応しい風景をつくる、空気をつくる、時代をつくるといったところまで視野に入れて形を整えるのだ。
時宜に応じた画面が構成できればよしとするという話のようだ。
これは世の中実体がどうあれその場その場で相応しい言動なり態度をとれる人間は社会では有用だよなーと思っている部分に近いのかもしれない。
あとはざっくりとまとめ。
知恵の実を食べた人間がまずしたことは、食べたという事実を隠すこと、すなわち嘘をつくことだった。
アニメも同様で、愛や正義や希望などフィクション虚構を通して感動を届けるのが本質ではないかとか。ここらへんメモがいい加減なのでいい加減にまとめる。
岡田斗司夫が本を書くためのハードルが年々あがっていると感じている。
「いつデブ」はメソッドの話に終始しているのでまだ書きやすかったが。


●質疑応答
・前回説明した「ひぐらし〜」や「エヴァ」と「トップ」の違いとは?(前者を「社会に害悪を及ぼす楽しみ」としていた)
要は時代が違うといった点が問題の焦点であるとの回答。
たぶんに95年以降の作品で作品に耽溺せしめるような要素があるものについては警戒するスタンスで臨んだ方がいい…ということらしい。
公序良俗に反することはするなという非常に良識的な、ある意味保守的な、当然のことを言わねばならぬ流れでの発言だとすると、作品の相違によって浮かび上がる類の話ではなさそう。
・インターネットに嵌るとバカになる的な発言について
メディアの進化はそれまでの旧メディアでも新たなメディアに準拠したポイントで一斉に視聴者に伝えるだけである。
つまり2ch登場以降に新聞やテレビもそこで展開されるような話題を似たような切り口で提示せざるを得なくなっているのと一緒か。
質問者がいつも岡田氏にからむように質問する方なので、岡田氏も煙に巻くような回答で切り返す。互いに分かって言い合っている一種の芸のような質疑応答であった。
・劇場版ナディアの話題について
岡田斗司夫は「劇場版ナディア」と「攻殻機動隊」だけは視聴していないとのこと。おいらはLDを買って後悔した一品。
次回までに視聴することを宿題としていたが、果たして本当に視聴するのか、あれを? 本人は「つまらんと寝ちゃうんだよ」と言っていたが。
・月給が450万円に跳ね上がった件
アニメ制作会社なのにPCゲームで結構な売上げが計上されたガイナックス。しかしそうなると翌年の税金が大変なことになる。
となると人件費を一気に上げて対応する以外ないということで、給料が20倍近くも上昇することに。
しかし今年50万部書籍が売れたからといって翌年25万部の売上げが最低でもあるだろうと考える税金の考え方は本当に変だよな。
グレンラガンの件
1話視聴してやめた。
縁があれば「アクエリオン」のように視聴することもありましょう。
・ゼネプロ時代の話
ネタとして話しにくいので省略していた。
●その他
ロフトプラスワンのキッチンにあるホワイトボードに「メロンパンの差し入れ。岡田さんにお礼を言って」と書いてあった。
・(うろ覚え)この前ショコタンに会ったとき「無駄に熱い」という話をしたら「どこがですか!」とエライ剣幕で熱く返された…という笑い話。この話はひょっとすると中川翔子を「オタク的に理想的な彼女に見えるけどちょっと…」というその場のノリで出た話をまともに論議している場への牽制であったのだろうか? 考えすぎ?
・そういやイベント開始前、前の席でノートパソコンでネット巡回していた人が、Mellow My Mind らしきWebページを広げて隣の人と何か話していた。電源不要系の人?


ここまで。なんか非常に楽しく感銘受けるのだが、日々の生活の中でどんどん拡散していってしまうのが残念だなあ。
せっかく書き付けても無味乾燥なメモになってしまうのが哀しすぎる。
確かに友人なり恋人なりと語り合った方が実になるのかもしらんが…今更おいらの性分は変わらんのでな。まあ、「不思議の海のナディア」についてたっぷり聞けたのでよしとしよう。