アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす!(切通理作氏、竹熊健太郎氏、氷川竜介氏)新宿Loftplusone

●前半
切通理作氏]

宮崎駿の「世界」 (ちくま文庫)

宮崎駿の「世界」 (ちくま文庫)

増補版を出版するにあたって旧稿の見直し。
・水の表現に注目する(モチーフ、技術ともに)
・上下(立体)構造に注目する(ナウシカなら、再生された綺麗な水>腐海>その上を飛ぶナウシカ
宮崎駿作品の持つ「場面を切り取ったときの魅力」「その中毒性」について語りたい。作品は描写主体である。
つまり切り口は、ぱっと見たときに惹きつけられるのはなぜか? になる。
竹熊健太郎氏]
当時、劇場で「カリオストロの城」を鑑賞した体験から、宮崎駿はカルト監督で終わると思っていた(あまりの客の入りが少なさ、絵の地味さ、でも作品は面白い。
1985年年末、諸星大二郎作品の魅力を有名人にインタビューする企画に関わっていた。そのときに無理に宮崎氏に会いに行ったという。
1986年公開の「天空の城ラピュタ」の追い込み時期で、「インタビューを断る押し問答の時間がもったいないので30分だけ会う」という約束が、2時間も話していたとか。
そこで絶賛した「マッドメン」のとある場面が、後に「もののけ姫」でそっくり同じ絵となって表現されている。デイダラボッチがぬぼっとそそり立つ場面で、アニメで巨大感を出すのが難しいという話なぞをしていたり。
そのインタビューの帰り際、まだ「ラピュタ」の結末ができてないという話を聞いて驚く。時間的に間に合わないではないか。
で、翌年公開になって作品を見たところ、シータが滅びの言葉を口にするところで呆気にとられたという。その方法で解決するなら最初からやっとけよという突っ込みが入るからだ。
要するに宮崎作品のシナリオは破綻しているのだ。たとえばシナリオ学校の教材にはとても使えない。
また「となりのトトロ」を引き合いに出す。
この作品の冒頭10分はいわば“説明シーン”である。普通の作品ならば、いかにコンパクトにまとめて物語を展開するのかを考えなければならないところ。
しかし、宮崎駿はこの説明シーンを面白く描くことができるし、見せ場にしてしまえる。これは技量もさることながら、特権的な作家であるという証拠でもある。
(普通、プロデューサーやスポンサーの意向や作品づくりの定石を無視するクリエイターはいない。というか存在できない。なのに宮崎駿は違うのだ。ハリウッドのようにプロデューサーが作品の編集権限を持っている土壌からすると宇宙人のような存在であろう。
[氷川竜介氏]
宮崎駿のイメージボード集 講談社

崖の上のポニョ」は結局これ(上記)じゃんと思った。
宮崎駿の描きたいイメージ、水と少女が作品にぶちこまれただけ。
少年と(人魚である)少女を隔てる耐圧ガラス壁。これを越えていく越境モノとして描かれる。少女の立つ側の水は澄んでいるのが象徴的。
通常、アニメにおける波の表現は、渡辺さん(?)という方が確立した色トレスといった技法を使うのだが、「ポニョ」においては(絵本のような?)黒い線で区切られたものになっている。
波もキャラクタとして扱われているのか?
人間の目の構造上、ものを捉えているのではなく、光を見ている。ゆえに透明なものをアニメで映像表現するのは難しい。
こうした超プリミティブな「水」という表現に、調子を崩した現代人が惹かれる…という見方もあるかも。
氷川氏の私見だと、コンビニというオールインワンで必需品が与えられる場ができてから、我々がおかしくなっているのではないかと。それは生活面(物資調達・素材調理)を考えずに済ませる必要からできたものだが、考えないことそれ自体が我々をおかしくする要因になっているという示唆でもあるか。
ここから「アニメを語る言葉が貧しい」と本音(?)モード。
たぶんに東浩紀宇野常寛なぞを苦々しく思っている言葉が「いやそういった仕事にも意味はあるのだろうけど」などフォローしつつも漏れてくる。
「アニメもラノベもコミックも同じ次元で語るってことは…(中略)…宮崎駿のやってることがラノベで書けるってこと? おかしいじゃん」「テキストがあって観客がいるのに…(中略)…批評の批評して(どうするの)」「いや、いいんだけどね」などと。
閑話休題
根っこにあるのは、当たり前という感覚。自然にあるものをその特性として受け止めるのは当たり前で良いが、人が無理矢理ねじまげた理屈を当たり前とするのはどうか。
水の属性は荒ぶる神(普段人にとって欠かせないもの。しかし洪水や大雨など災害となる)、それがコンビニのペットボトルという当たり前というのは?
いや「ポニョ」に戻ろう。
町山智浩氏あたりがBlogで「ポニョ」の物語上問題点を指摘してたけど(氷川氏の発言ではない。町山氏の発言もアメリカでは映画が社会的なものだとの認識があって、作品内で登場人物に良識的な行動が求められるがゆえ)、そういったことはどうでもいい。だって、お爺ちゃんの法螺話なんだから。
宮崎アニメを見続けてきた身としては、最初に「働く女性」とか「老人問題」とか色々やろうとしてるけど、いつものようにグダグダになっていくのね…という認識になる。
「ポニョ」を見ていて困ったのは、むしろ洪水後の世界が現実なのかどうかアヤフヤだったこと。死後の世界でもおかしくない。ただここを云々しても、どのみち壊れているのは確か。
竹熊氏は「つげ義春」であると指摘。
氷川竜介氏は先日のNHKプロフェッショナル 仕事の流儀SP」宮崎駿のすべて〜“ポニョ” 密着300日を視聴したところから、すぐに分かる宮崎駿の魅力を説明する。
アニメの動画には「中割」と「送り書き」という二種類の描き方がある。
「中割」は人物の動きを設計図通りに予定された位置にもっていく描き方。つまり、手を上げるという動画なら、手をおろした絵と手を上げた絵が最初にあり、その過程を「中割」で描く。
「送り書き」はそれとは対照的に、動きを継ぎ足していく描き方。つまり、手をおろした位置を描き、次にちょっと手を上げた絵を描き…その繰り返しで最終的に手を上げた絵に到達する。
「ポニョ」は明らかに「送り書き」の作品。
こういった宮崎駿の作品を考えるとき、思想だとか何だとか瑣末なことよりも、彼がレイアウター、アニメーターの立場でクリエイトすることを中心に考えるべきでありましょう。
すなわち、こうした手法を選択している意味を考えなくてはならない。
決められた作業をこなすのはクリエイターではない。というか面白くない。
何か作品をクリエイトすることに意味を見出す人間ならば、自分が作品を発見しつつ創出する楽しさを外しては話にならないだろう。
よくいう「作家は最初の読者である」というやつで、宮崎氏は「脳みその蓋を開ける」と語っているという。イメージを継ぎ足すことで、自分の中にあるイメージを引き出すことで、作品を紡ぎ出す。シャーマニズムなのだ。
もっと言うなら、観客・視聴者とともにイメージの奔流が作品に結実する様をみつけていくことがクリエイトということになるだろう。
氷川氏はここでISOの品質管理の話を持ち出す。
押井守の制作体制はそうした品質管理・内部統制を導入したもので工程管理がしっかりしているという。作業は計画的でひとつの工程が終了したら次の工程に移る、製品管理としては当然の流れである。
しかし宮崎駿はどうやらすべての工程に関わっているようなのだ。しかも絵コンテを作画に回して上がってきた絵すべてチェック(修正含む)しているのだ。
「ポニョ」で大洪水の盛り上がり場面が中盤にあるのは理由がある。作画枚数が多いクライマックスシーンは、制作時間に余裕があるとき、すなわちせっぱ詰まって制作する物語後半ではあり得ない。だから「ポニョ」の後半に何か大きなイベントがまだあるだろうと期待しているとスカされる。制作体制から来る事情を知らない観客は、脱予定調和からくる強い印象を受ける。
それはそれとして「ポニョ」に対する物語の破綻を指摘する者は数多おれど、それでもなぜ客が入っているのかとか視聴してしまうとかを話題にする者はいない。
ちょっと目端がきけば物語の破綻だとか、おかしな点だとか、見れば分かるしいくらでも言える。
●後半
3人で。「それで宮崎作品がどの場面を切り取っても視聴者を惹きつけてやまない理由は分かったのか?」「破綻した物語を最後までみせてそれなりに楽しませてしまう理由は?」
とりあえず話の最後に登場人物が「よかったよかった」と“これでいいのだ!”と天才バカボン並みの良かった雰囲気を形成するからでは。
たとえば「千と千尋」を見れば、ヒロインは父母を元に戻すために行動を起こすのにハクと出会ってからは恋人のことで頭が占められて両親のことをすっかり忘れるがごとく、である。しかもハクを助けるために行動してピンチに陥ったら、ハクが助けに来てくれるという倒錯ぶり。
それでも雰囲気で丸め込んでいる?
シナリオはあくまで論理。情で納得させてるだけ、とも言えるか。
誰かが「話の後半は強引でよい。観客は話が終わりそうなことを残り時間や残りのページ数で感覚的に把握しているので、後半は多少強引でも納得してくれるのだ」という話をしていたり。
あと佐藤佐吉監督が「主人公またはヒロインを、宮崎アニメの今までの実績からどんなに物語の起伏があっても最後には落着させてくれるのだという信頼しているのだ」と言っていた話をしたり。
デボン紀のような「海の時代」の再来を夢見ていたはずのフジモトが、物語後半で大きくなった月を指さして「時間がないんです」と大騒ぎするという矛盾。それはあからさまに制作の時間がないという実情の吐露ではないか。
ちょっと横道にそれて、「ハウル」が如何に腐女子に人気があるかというあたりに言及。
留守がちなイケメン亭主がたまに帰ってきて母性本能くすぐる台詞を言ってくれて、ヒロインが城で専業主婦する話だと考えると納得できる。女性視点のポルノとして優秀。
頭がいいはずの藤本ゆかり女史なぞも嵌っているとか。
このハウルにしても物語は筋の通らない幻想的な場面をつないだと思われる内容だ。結局、シナリオでモノをみなくて良いのではないかというところに落ち着く。
たとえば「ハウル」でたしか荒地の魔女だったかが身体が不定形になりながら階段を上がる場面、大平晋也氏(?)の見せ場として用意されたテクニカルな表現を要求されるものだった。
これは分業合理化される前のアニメーターが「そこまで描けるなら、たとえばそうだな。難易度の高いこれこれこういうシーンを描いてみないか? なあに、作品のここに当てはめればそれらしく視聴できるさね」とばかりに、一連の場面を任されてしまうのと同様だ。
竹熊氏はフライシャー作品の話をひいて「当時はフライシャーがネタを2,3考えてスタッフに提示するだけ。後はアニメーターがそれを叩き台に自分が描きたいように面白いと感じるものを制作していた」とか。そういった事情らしい。
よく言われることだけど、宮崎駿は(映像)描写に絶対的な自信があるのではないか。
絵は言葉や音楽や声を凌いでイメージを共有し自由自在に楽しみ楽しませることができるということか。
あとプロデューサーの鈴木敏夫と宮崎批判を展開する押井守の関係も面白い。うがった見方をすれば、押井守が騒いでも宮崎駿が揺るがないと鈴木敏夫は考えていて、敢えて忌憚なき意見を引き受けていると。
そもそも宮崎駿という人が自分で昔言ったことや他人の分析などを忘れていて、様々な創作の場面で苦境に陥ることが多く、それを補佐する鈴木敏夫が適宜必要な言葉をかけることであたかも宮崎駿がそこで思いついたかのように得心して行動に移るのだ。
外から見れば、それは過去に宮崎駿の引き出しの中に納まったあのときのあの言葉じゃないか、という指摘ができたりする。
「ポニョ」の話に戻ると、そうした雑多なイメージ、悪く言えば思いつきを、絵の説得力に任せて詰め込んだある意味出鱈目な作品とも言える。
だが、それがいい
いや本当に。
その豊かさの中に世界再編の鍵がある?(宮崎駿の根底にある破壊的な創造というあたり?
このような今では異質な作品でも、「千と千尋」などではあからさまに異界へ行き、そこから帰ってくる場面が入ることで視聴者には分かりやすかった。入り口と出口があったのだ。だが「ポニョ」にはそれがない。
だから観客は上映後の映画館で呆気にとられ、宮崎駿作品に対してそれまでの「国民作家」などというイメージとの齟齬に思いを馳せる。何か変だ。それなのに観客は入る。


ざっと宮崎駿の流れをトレースするなら、少女と水の表現に終始してきたわけだが、「もののけ」以降メタモルフォーゼと液体粘体チックなものへのこだわりが見られる。
老人になれば幼児以上にそうした歯茎とか涎とか糞尿と不可分であるといった現実の影響を受けているとも取れる。
そして映像は結局フライシャーの融通無碍なる変化を楽しむものへと回帰しているのではないか。
それはリアリズムに裏打ちされて高畑勲と組んで物語を形作っていた初期の仕事から、合理化・管理化・システム化の果てに仕事がつまらなくなったという現場に対する抵抗でもあるのか。
竹熊氏は「ダイコンフィルム」と表現していたが、動画マンが好き勝手描いた場面を適当にまとめる混沌とした在り方を指しているのだろう。
氷川氏もレイアウトシステムの功罪といった話に言及し、創意を発揮できる余地がなくなる問題点を指摘している。
設定資料はあくまで参考であり、それを読み込んで登場人物にどのように演技させるか考えるのがアニメーター。表情は同一作品内で変化するものだし、それを設定資料と違うと怒るのはお門違い(咀嚼して表現されたものが拙いというのはあるだろうけど。
伊藤剛氏の話も出て
・物語あっての登場人物をキャラク
・単体で受け入れられる象徴をキャラ(キティちゃんとか)
と使い分けている。
だが、宮崎作品にそういった定義を適用するのは難アリ。なぜなら、話の中で登場人物の性格さえも一貫性を失っていたりするから。
「ポニョ」のグッズを買ってもらった子供が大人になったとき、絶対「なんで自分は子供の頃こんな半漁人を可愛いと思ったのだろう」とトラウマになるよね…という話。
あと竹熊健太郎氏から素晴らしい指摘。
「ポニョって成人したら宗助と激しいSEXするよな!」
ただし宮崎駿は作品に登場するヒロイン(少女)が性未分化であることを声優に毎回指示しているとのこと。
自らの女性を意識していない女性(少女)にこだわることこそ、ロリコンの名を冠するに相応しい。宮崎を越えるロリコンは、ロマン・ポランスキー監督くらい。


最後にお三方の好きな作品は? という切り口。
竹熊健太郎
好き、という切り口だと「風の谷のナウシカ」になる。
だが、この一本ということで総合的に判断するなら「となりのトトロ」になる。これは傑作。
[氷川竜介]
よく聞き取れなかったが、たぶん「空飛ぶゆうれい船」と答えたのだと思う。
国防軍の戦車の絵からゴーレムにカメラがうつる場面を250回は視聴したとか。
おいらも激しく同意するが、モデルグラフィックスで描いていたようなミリタリーものをまた描いて欲しいというのはある。
※なぜか西武池袋(新宿?)線の話が出てくる。あの路線は都内の糞尿を田舎に運び、田舎から野菜などを運んでくる列車であった。
※メモには「カタストロフィ願望」「多砲塔戦車」「照樹務(宮崎駿ペンネーム)はテルコム」などと記されている。
切通理作
やはり「となりのトトロ」になる。敢えて(美しい)日本を舞台にしているところ。
他にもルパン三世「死の翼アルバトロス」「さらば愛しきルパンよ」
さらにはジブリ美術館短編「水グモもんもん」「星をかった日」(ここらへんはDVDになってないのでおいらは未見)
※メモにはスーザン何某が作品を評して「モチーフのカーニバル」と表現したとある。宮崎駿は後にそれを取り込んで「自分の作品は〜」と発言したとかしないとか。


●質疑応答
<On Your Makをどう見るか>
質問したのは岡田斗司夫氏の遺言イベントにも参加していた、髪をを金色に染めたアンちゃんだった。
押井守っぽいことも俺はできるんだぜ!」という宮崎駿の思いを強引に読み取った岡田斗司夫の話を引き合いに出すのかと思いきや、単に氷川竜介氏が「宮崎氏のミリタリーものをまた見たい」というあたりに絡めての質問だった。
なので氷川氏は「(On Your Markのような)思想性のないものとしてのミリタリーものが見たいのであって…」と説明。
竹熊健太郎氏はMusic Videoのような作品もありだよねと答える。
切通氏は「On Your Mark」の話から、宮崎作品にあまり時制をいじったものが存在しない点に触れ、子供でも分かるように配慮していると述べる。
回想シーンもあまり歓迎されるものではない。淡々と時間経過に従って話が進んでいくことで、今起こっていることとして受け入れられる。視聴者の体感に忠実と言おうか。
<富野監督との比較>
宮崎・富野ともに、表現することに疑いをもっていない。対照的に庵野秀明などは確信もって表現することに躊躇がある。
一方で富野監督はコンテ主義で絵を信じていない。宮崎駿は絵がすべて。
富野監督は映像外に男女関係がニオイ立つ。シャアとララァの同衾であったり。艶かしさがフィルムに漂う。
共通項としては、両者ともにアニメに耽溺していない。アニメだけという偏った見方に対する怒り。
※富野監督が描くミリタリー的な場面のルーツは、朝鮮戦争時の映画館で流れていた宣伝映像などにあるそうだ。日本がアメリカの前進基地として機能することが、ミリタリー好きを育てたとも。
吉田秋生「河よりも長くゆるやかに」の世界だよなあ。(米軍の街であるがゆえに、日本の他の場所とは違った思春期を送らねばならない)
<宮崎作品のエロさについて:もののけ姫はなぜエロくなかったのか?>
少女に対する煩悩を抱える宮崎駿が、なにゆえに「もののけ姫」ではそうした性衝動に関する印象が希薄なのか。
氷川氏の説明だと、当時50代前半だった宮崎駿は男の更年期といった状態にあったであろうとの指摘。ひっくり返る。
「ポニョ」では夫が帰れないと連絡してきたときのリサの不貞腐れ描写は、性的欲求不満を簡単に連想させる(竹熊氏は「ありゃ浮気一歩手前だね」としたり顔で述べていた。
幼稚園の女の子が宗助を誘っていた場面も変だったし、エロさというか印象に残る男女の間柄を思わせる描写が年齢に関わらず挿入されている。
しかるに「もののけ」と「千尋」の間には断絶があって、それは制作者の赤玉伝説(男として終了のおしらせ)と無関係ではない云々。
氷川竜介氏も結構直截で酷い(けれど面白い)発言をする人なのね。
・「ハウル」であれだけ大砲を備えた城が一発も撃たないのはなぜか。
・そうした更年期を過ぎ余裕ができたからこその「ポニョ」。爺初心者です、よろしく的な発言だらけ。開き直り。
・宗助の年齢設定は、制作者の現在年齢 - 還暦 = 5歳。これで決められたのでは?
・その年になっても少女を愛し続ける変態だからこそクリエイターに相応しい。いいのだ、お客はエロスとタナトスを見に来ているのだから。
だんだん身も蓋もない話になっていく。
結局のところ、宮崎駿の魅力を率直に上げていくと言葉ではどうにもならなくなる。これは批評の敗北ではないか。
だが魅力を語りたくなる。言葉を紡ぎだす触媒として機能している。といったあたり。