本日の戦果


 ■「Blood Alone (2)」(高野真之メディアワークス
 ■ユリイカ8月号(佐藤亜紀「快楽の装置」)
 ■双葉社  長い道  こうの史代
佐藤亜紀という人が面白いと思ったのは、過剰にして過激な言説を吐きながらも、威風堂々として毅然とした印象を受けたからだ。
何でもそうだが、私は自分の精神的なリソースを自分の好みにあった系統樹に割り当てている。
自分の直観は、私の中のスウェーデン女王クリスティナに連なる系譜に彼女を位置づけることに決めた。これは私の尺度で計れぬ上に斜め上を行くユニークな女性、といった意味合いになろうか。
しかも女性という括りはあまり意味を持たないのに、実に女性であるのだなと思わせるものである。
いや、ともかくその佐藤亜紀さんの新作がユリイカに掲載されたというので買ってみた。
一読して鈍磨した私の感性も、かなりの衝撃を受けた。
書かれていることは実は以前から佐藤亜紀さんが語られている作品論といったものであるのだが、実に丁寧で力強い“信仰告白”となっていたのだ。
まさにそれゆえに自分が恥ずかしく反省を促されるほどの筆致であった、というのは言いすぎであろうか。
たとえば次の文章である。

「作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、副次的には享受者間の遊技的な闘争の場でもあります。
(中略)
重要なのは、作品が知覚に与える刺激に対して徹底して鋭敏であること、刺激の組織化に対して誠実な努力を払うこと、
その上で、自分が立たされている歴史的・社会的文脈を賭けて判断の勝負に出ることだけです」
彼女は「現状はあまりにも表現者の“表現”が強調されすぎている」と指摘しています。
これを受けて
1)安易な消費者としての姿勢(「やれやれ、好きにしてくれ」)
2)主義主張・イデオロギーだけを問題とする姿勢(評論家的な)
という2タイプの享受者を取り上げています。
だが、それでは駄目なのです。

「表現と享受の関係は、通常“コミュニケーション”と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。
あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。
鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。
「伝える」「伝わる」というな生温かい関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。
見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。
作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。
(中略)
そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです」
なかなかに心が高揚してくる名文であろうかと。
これもまた佐藤亜紀女史の奏でる文章の音色に踊らされているだけかもしれないのだが。
ともかく、自分的には心にしっくりくる実に力強い文章であるには違いない。
無論、ナマケモノにしてアウトサイダーにしてヒッキーたる私は、そうした感動を人生の教訓とし
て前向きに生きていけるわけもないのであるが。