Ghaeleは眼鏡娘

仕事でテンパってると、スバラシイ(素晴らしいでは決してない)考えにとらわれる。
そこで表題のテーマを思いついた。
思いついたからには考察せねばなるまい。たとえそれが妄想と他人に罵られようとも恐れることはない。
たいがいの人間がろくでもないことを考えているのだ。
それに比べれば、なんて高尚で高邁、気高き愛ある考察だと言えるであろう。自画自賛


さて本論。
まずGhaeleは大変魅力的な存在だということを念頭に置かねばならない。
Monster Manualを参照するまでもなく、彼女らの魅力が16であることは自明の事柄である。
そこで「なぁんだ、16か」などと言ってはいけない
Book of Erotic Fantasyを参照してみれば、そのAppearanceが20に設定されていることに注目すべきだ。
デザイナーは魅力と容姿で、前者を16、後者を20に設定した。絶妙の黄金率。その意図は? *1
これは明白である。
容姿に優れるが、何らかの劣等感を抱いているのでわずかに魅力を下げざるを得なかったのだ。
そうに決まっている。あたかも完璧超人のような意地っ張りの委員長が、ふとしたときに見せる素の感情のごとく(?)。
では、その劣等感とは? どこかに彼女たちの性格を決定付けている要因が潜んでいる、または提示されているはずなのだ。
というわけで今一度Monster Manualを見ていただきたい。
じっくり見れば、そこに彼女たちの劣等感たる要因がすべて描かれていることに気づくだろう。
それは彼女たちの外見に起因するものだったのだ。
イラストを見れば、彼女たちが容姿端麗・頭脳明晰・運動抜群といった趣で描かれているのに気づくであろう。
しかしながら、彼女たちは種族特性としてopalescent eyesという重い枷を、十字架を負っている。
無論、天界にあれば、同じGhaeleの中にいれば何の問題もない。
ところが、彼女たちはChaotic GoodのCelestialである。
自らの善に基づき、自由な行動の結果、多くの善良なHumanoidとの友誼を持ったりする。その結果、何が起こるか?
どんなに思いを通わせても越えられぬ種族の壁を痛感せざるを得ない。
一時、ほんの一時、悪を討つ為の共闘者としての自分、それで満足しているうちは良いが、Material Planeで過ごすうちに彼女たちの心はじきに別の思いに至るのではないか。
自分は彼らとは違い、彼らも私たちとは違う。
彼らともっと(彼ともっと)、心の距離を縮めたい…と願ったとしたら?
自分はこんなにHumanoidに相似しているのに、とある部分だけ隔絶しているのはなぜ? と自問するのが自然の流れであろうか。
待て。
いや、そもそもCelestialが上述のごとく推察セル思考形態をとるか否かは議論の向きもあろう。しかし、私は浪漫の使徒。直観はすべて「是」と応えている。
よって、話を進める。
劣等感たる源泉、その象徴は人に似て人でないと思わせる部分、目は口ほどにものを言う、その目である。
瞳がない、というその一点に集約される。
そこでDisguise Selfだ。
At WillのDisguise Selfの登場である。
このDisguise Selfは当然、opalescent eyesを隠し、通常のHumanoidであることを主張するために用いられる。そのはずだ。
ならばそれがもっとも自然かつ合理的な形態とは何か?
自らの魅力を損なわず、それどころか分かるものには分かる重要な意味合いを持つ有り様とは?
それが眼鏡だ。
それこそ眼鏡なのである。
つまり、彼女たちのDisguise Selfは眼鏡をかけたエルフ娘の格好を意図したものにならざるを得ない。
これが真実だったのだ。ばばーん。

*1:デザイナーも出版元も違うなどという指摘は、無論野暮だ。すべての情報をセブン・センシズで感じるのだ!