村上もとかといえば、ボンベイブラッド(「赤いペガサス」おいらが小学生のときの作品)であるが、最近中古で入手した「龍」をつらつらと読み進めている。
今6巻まで来たけれど、読んでいるタイミングがタイミングなので、「これって日本版エマだよなあ」という筋違いな感想を抱く。
女中(メイド)である“田鶴てい”を“エマ”に、押小路家の坊ちゃん“龍”を上流階級(ジェントリ)の御曹司“ウィリアム”として眺めてしまう。
かたや1890年代の英国、身分違いの恋を主題としているのに対して、1930年前後の日本を舞台とした大河ドラマとして描こうとしているのだから、内容は全然違うのではあるが。
ただ1930年前後の日本の風景と思しきものを普通に漫画で見せてもらえるというのは、かなりありがたいことだと思う。
当時の人々の風俗習慣に触れるのは、それだけでとても楽しいことだからだ。
世界恐慌からくる不景気、就職難、日中関係の悪化、戦争の足音、激動の時代を、理想に燃える若き主人公と意志強く志高いヒロインが紆余曲折を経て成長していく視点こそ、大河ドラマに必要なものではないか。まあ当時は炊飯器があるわけでもなく、冷暖房が完備されているわけでもなく、携帯電話もテレビも洗濯機もないわけで、実際に自分がそこにいたらどうなるかは想像したくないけど。
また一方、こうした作品の面白さの一つには、歴史的な事件や人物が作品内でどのように描かれているのかにあるだろう。
それこそ、どおくまん「暴力大将」*1のような破天荒な描き方もあるわけで、歴史好きの心をくすぐったり仰天させたりするのである。
とりあえず北一輝が主人公の龍とからむあたり、過去に北一輝を引き合いに出した作品「帝都物語」とかを連想するのだが、あくまで理想に燃える龍の姿と対比させるように描いているところが大河ドラマとして正当な描き方をしているのではなかろうか。

*1:浪速の暴れん坊の成り上がり一代記。陰謀により、太平洋戦争中のガダルカナル島少年鑑別所出身の陸軍歩兵として派遣されるが、生き抜くために軍を集団脱走したあげく米軍の駆逐艦を強奪して逃走、戦後まで生き延びるという芸当をやってのける。描かれる米兵が判で押したように頭が悪そうなのが笑える。