佐藤亜紀さん 講義(第三回)=映像と文学(1)=


■本日の素材
1) Perfume: The Story of a Murderer (2006) Tom Tykwer
2) Merry Go Round: Rupert Julian (1923) [Erich Von Stroheim]
3) In Tolerance: Love's Struggle Throughout the Ages (1916) D.W.Griffith [163 min]
4) Strike (1925) Sergei Eisenstein [95 min]
5) October (1928) Sergei Eisenstein [101 min]
実に五ヶ月ぶりの講義である。
この日私は講義終了後にPPPセッションに途中参加する予定だったので、質疑応答はすっとばして退室するため、教室の真ん中出口そばに陣取る。
前に座っていた女学生が「増鏡」などを読んでいたりして、文学部の学生なんじゃないかと思うのだが、商学部特別講義とはいっても私を含めて様々な聴講生が集っているのではないかと思った。
いやそれにしてもいかにも文学少女っぽく見える女学生さんは、なんか見てるだけで心洗われる気がする。学生時代に戻った気分だ。


閑話休題
佐藤亜紀さんは13:50頃に到着して、サイレント映画を題材にして「映像と文学」についての講義に入る前に、まずはこの夏のことについて語る。
2007年の夏はFritz Langにはまっていたとのこと。
メトロポリス」(1927年)、「ニーベルンゲン〜」(1924年)といった作品を挙げて、これらのSilent Filmを初見ではあまり評価していなかったが、デジタルリマスターによる当時と同じ映像を再現する版を視聴したときに「なるほど」と思ったのだそうだ。
たとえば「ニーベルンゲン」などはドイツで公開されたときには、フルオーケストラが映像が流れる間演奏していたという。
これをアメリカで映画として鑑賞させるために短縮版が作成され、今現在流通・視聴しているのはこちらの短縮版となっている。
Silent時代のFilmを見て安っぽい印象、何を意図しているのか分からない映像と捉えていたのは、Filmが経てきたこうした諸般の事情に原因がある。
今日取り上げる作品でも、"In Tolerance"は163min.とあるが、さらに後発のリマスター版では197min.になっている。"Strike"はロシア内のFilmを回収してアメリカで修復した版では95min.に延び、"October"もフィンランドで修復された版で142min.になっている。
より当時放映された映像に近いものを鑑賞した結果、“監督の持っていた時間感覚”に注目すべきだと指摘する。
そしてSilent時代の監督の考えていたであろうことに、驚愕したというのだ。
Perfume
映像「類稀なる嗅覚を持った男が、とある果物売りの女性の匂いに強烈に惹かれる。街中で歓喜と共にその女性の後をつけるが、相手の女性に気づかれる。女性は男の意図が分からず果物を売ろうとするが、男は差し出された手に唐突に接吻する。恐ろしくなった女性は逃げるが、男は彼女の匂いを追っていく。すると花火の打ち上げが行われている現場に出くわし、火薬の臭いによってScentによるTrackが失敗に終わる」
この作品は一口で言うなら「大胆なことに挑戦して失敗した」作品だと指摘する。
無論、映像によって嗅覚に優れている様を表現すること、それが“挑戦”の内容だ。
この無理を通そうとするために監督が何をしようとしたのか、そこに注目する。
五感のうちで視覚・聴覚によって物事を伝えることはそれなりの筋道があるものの、匂いというのはあまり例がない。
(味覚でさえ「んまいー!」と表記すれば藤子不二雄まんが道」を読んでいれば、涎が垂れてくるのだ。匂いについては細野不二彦「ギャラリー・フェイク」でサラの体臭を最高のものとするジャン・ポール・香本の話が連想されるくらいか。)
ここでTom Tykwerが駆使しているのは、“共感覚”を利用した映像である。
共感覚は、音が色彩イメージとして受容されるような、一種の連想刷り込みである。著名な絵画の人物画(たとえばレンブラントのような)の着ている毛皮の質感が感じられるのも同様。
匂いを連想させる誘導を行うため、以下の3点を挙げる。
1)色彩(コントラスト)
映像全体が灰色に統一されている中、女の肌は白く抜かれ、ほつれた髪だけ赤く染められている。
それこそが男の見ている世界で、嗅覚によって捉えられている世界に他ならない。
2)質感
街も人も濡れていて質感を持っている。うってかわって女の髪は乾いている。
3)音の付け方
映像を一見しただけでは、男が女に恋してストーカー行為に及ぶようにしか見えない。だが違和感が残る。
それは男が女に本当に興味を持っているのか?と疑問を起こさせる描写であり、それを裏付ける音の付け方にあるのだ。


これらが「嗅覚」を表現することに成功しているかどうかは疑問だ。
だが、色合いも音もえげつないくらい視聴者への誘導意図が込められているがゆえに、映像のなんたるかを暴露している作品となっている。
「映画というのが“色彩”も“音”も、いまだに扱いかねているのではないか?」という疑問を提出するほどに。
ここで過去のSilent映画を見てみるのは、さらに深く考察するのに有益ではなかろうか。
モノクロ・音[BGM]なし(あってもおざなり。流通しているDVDでは、初期Nintedo Game Softに付随するようなゲーム音が付いている作品もあるので、むしろカットしておくべき?)・字幕あり、といった状況。これは言葉(台詞)で説明できないことを映像で表現するしかないということを意味している。大芝居になるという弱点も含めて、単位あたりの映像の情報量は増える。
■Merry Go Round
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
映像「プラーター遊園地(?)で大きな手回しオルゴールを回す係をしている少女に、粋でいなせな色男が恋に落ちる。実は彼は皇帝の副官で政略結婚の相手と婚約中で…という抜き差しならぬ事情があったのだが、成り行き任せに彼女には“ネクタイのセールスマン”をしているなどと嘘をつく。一方で少女にはサディスティックですぐ怒る上司というか支配人がいて…」という話。
基本的にErich Von Stroheimの話に終始する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0
Stroheimの作品には非常にサディスティックな人間が登場し、作品の背後に人間のドロドロした嫌らしさが垣間見えるとの指摘があったが、そもそも作品を鑑賞したことがないので「そういうものか」以上の感慨はおきなかった。
Stroheimが監督として活躍した期間は1910年代後半から1920年代後半までのわずか10年であり、Filmが1本として完全に残っていない点に注目する。
それはすなわち、当時の映画が作品として捉えられていなかったことを意味する。
(たぶん興行というか、Liveとしての意味合いが強かったのではないかと推察される。Filmも興行形態にあわせて切り刻まれてその場その場の上映に耐えられれば良いとされたのかも。)
それはそれとして、会社を潰すタイプの監督としてこのStroheimとLuchino(?) Viscontiを挙げている。
2人に共通する点は、徹底して現実と変わらないセットを組み上げ、その中に役者を叩き込むことで己の意図する世界を映像に焼き付けようとしたところにある。佐藤亜紀さんは“環境シミュレーター”という表現をしていた。
たとえば、登場人物が新聞を読んでいるシーンを拡大してみると、時代設定に見合った新聞を読んでいたりするわけだ。
映像内で引き出しが開くことはないのに、上流階級の部屋の衣装箪笥にすべて絹の豪勢な衣服がしまわれていたり。
私も視聴したことがあるグレタ・ガルボ「クリスティナ女王」(関係ないが、私はクリスティナ女王を敬愛しているのである!)で、グレタ・ガルボ*1が下着が絹でないことにスタッフに注文をつけたというエピソードが紹介される。映像に映らないではないかという指摘に対しては、「歩き方が変わる」と反論したそうだ。
Silent映像であっても、ちゃんと本物のドアベルを使ったというのは、音に反応して自然な演技をする役者をFilmに収めたかったからである。
つまりは、こういった点に拘ったがために、予算はうなぎ上りに増えていくことになるのだ。その結果。
■In Tolerance
この作品の登場と相成る。
佐藤亜紀さん曰く「グリフィス、かなりキテるな」と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/D%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9
それも有名な「バビロン編」の映像を見れば、誰もがむべなるかなと思うに違いない。
誰もこんな阿呆なセットを構築して遠景からのカットを撮ろうなどとは考えまい。だがGriffithは城壁の天辺の道で戦車(馬の方ね)がすれ違うシーンを撮影できるほどの巨大なセットを組み上げたのだ。
正気の沙汰とも思えない。(森田信吾栄光なき天才たち」を思い出した。こちらではもっとグリフィスを孤高の天才として描いていたような気もする。)
ここで映画ってなんだ。監督は一体何がしたかったのか。そういう当然の疑問がわく。
作品としての映画が存在しなかった時代だとして、そこにはスペクタクルを提供するもの、ジェットコースターとしての役割しかなかった。
ならば歴史や神話を表現することで、Artになるのではないかと肩肘張って制作したのが「國民の創生」であり「イントレランス」だったのではないか。
まあ、「國民の創生」は(分かっちゃいたけど…と佐藤亜紀さんは呆れつつも)KKK*2のお話であり、「イントレランス」は1)古代バビロン2)イエス時代のパレスティナ(キリスト磔刑)3)宗教改革期のフランス(サン・バルテルミの虐殺)そして20世紀初頭のアメリカの4本立てである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA
この中で現代たる20世紀初頭のアメリカを舞台にした映像は、Artの妄執というか歴史や神話の呪縛に囚われないがゆえに、普通の映像として見る事ができる。
バビロンの宮殿シーンに見られるように、壮大なハリボテ(by 王立宇宙軍)を壮絶な執念によって再現した有様に我々はかける言葉もみつからないが、映像は活人画のごとき様相を如実に示している。つまりは絵が動いていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E4%BA%BA%E7%94%BB
佐藤哲也氏の言によれば「宮殿の裏方を考えることができない」映像ということになる。
大量の人員の食料がどこから搬入されて生活の流れはどのように流れていくのかが全然分からない構成になっている。それはすなわち想像力の限界であるわけだが。
Final Fantasyに登場するような絵柄といえば、まあその通りなのだろう。
(ヒーロー、ヒロインは大便どころか小便すらしない、そんな描写を入れないのと根本は一緒だろう)
■Strike
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
そしてEisensteinの登場となる。
映像は後半の放水シーンであり、ストライキ中の労働者たちが追い詰められていって最後には殺戮されるまでの長回しの突端の場面である。
Griffithのカメラが状況説明的で視点の移動を多用したのだとしたら、こちらは放水側と虐待される人々をひたすら交互に捕らえることで視聴者の感覚に訴えることを目的とした、より踏み込んだ映像となっている。
状況説明は視聴者の知性に訴えるものだが、苛烈な攻撃性とそれに翻弄されて人間扱いされない人々の様子を交互に突きつけられることは視聴者の感性を非常に揺さぶるものだ。
これは字幕からしてそうである。
Merry Go Roundで挿入される字幕は本当に言葉で状況を説明する文章が表示されていた。だが、StrikeにおいてはほとんどOne WordとかTwo Wordで、映像のテンポをコントロールするために挿入されている。もはや言葉の意味はなく、単に視覚的効果のため、字面のインパクトを挿入するがために存在しているのだった。
■October
これが行くところまで行くと、プロパガンダ映像に行き着く。
字幕「フィンランド駅」、映像:佇む陸軍兵士。字幕「4月3日」、映像:集う海兵。字幕「我らが英雄レーニン」、映像:労働者が期待に満ちた表情で待っている。
その場に「おいしんぼ」の海原雄山のように(“おいしんぼのパパのように”by 佐藤亜紀)まず足元が映って、下からあおってレーニン登場。
熱狂する人々。
もうこれでもかというくらいキメた映像だ。
「平和もなく」「パンもなく」「土地もなく」されど共産主義万歳。
画面の右下に赤旗が燦然と翻り、左上にはほとんどJOJO立ちにような不可思議なポーズで演説をかますレーニンが素敵過ぎる。
まるでドモン・カッシュが1話目でシャイニングガンダムを召喚するシーンのように、ケレン味たっぷりの映像になっている。
つまり、衝撃的な映像をリズミカルに視聴者に叩きつけることで、Emotionalな高揚感へと誘導しているわけだ。
■まとめ
1)映像はきわめて感覚的なものである。
監督の世界に対する認識が映像に滲み出てくる。
重要なのは、映像が静止画とは違うということ。
流れている映像をどこで切ってどこで止めるのか。そこに制作者の意図がある。
インパクトのある映像を提供しても、それは時間とともに陳腐なものに成り下がっていく。なので次のインパクトにどうつなげていくのかが重要になる。
Silent映像はまさにSilentがゆえにこの取り扱いが顕著である。
2)映像は感覚に訴えるがゆえに感情に制御する
視聴者の思考よりも情感に訴える。つまり映像の持っているメカニズムに従って視聴者の心情を引っ張っていくのだ。
物語のあらすじや、あらすじから派生した分析しかしない評論家は怠慢だと断ずる。それは映像がどのように組み立てられているかが作品を読み解く重要な問題に他ならないからだ。
映像本体を無視して作品を論じても意味なく、映像そのものが雄弁に語っていることに目を向けるべきであろう。


プロパガンダ映像では個々の顔は描かれず、記号化する。レーニン:労働者:ケレンスキー内閣の対比。
■次回予告
顔の問題。美しいもの、美しげなもの、美しげで醜いもの、など。


15:30終了予定が15:45まで食い込んでいたため、この後の質疑応答時に教室を出てしまいました。
終盤はノートをとるのもちょっと駆け足だった。次回は落ち着いて講義が聴けるはず。*3

*1:確かグレタ・ガルボだったはず、と言っていた。

*2:クー・クラックス・クラン

*3:なお、この講義の備忘録はかなり自分勝手に解釈してる部分があるので、実はこうだったという真実が明らかになったとしても後ろ指差さないように。