岡田斗司夫の遺言2 新宿ロフトプラスワン --BSアニメ夜話で取り上げる予定の「トップをねらえ!」のネタバレ有り--

ロフトの斎藤さんが“遺言”を“遺書”と紹介してしまい、岡田さんにつっこまれていた。
王立宇宙軍 アメリカ版の話
前回は「王立宇宙軍」が如何に制作されて如何に公開されたかといったあたりでお開きとなった。
なので、今回はその後、「王立宇宙軍」のアメリカ版の話から。
もとからそういう話はあったそうだが、単館でちょっとだけ公開して「アメリカでも公開!」という謳い文句、つまり宣伝に使うだけではないのかという読みに違わず、実際その通りだったらしい。
その際、くどいほど言われたのが「アメリカは吹き替えの文化ですから」というもの。
日本の場合、映画は字幕で見るちょっと知的な娯楽と見なされているが、アメリカではそもそも州によって公用語も違い、文盲も一定数いるということで、字幕の手間をかける文化ではない。とくにアニメは子供向けとの前提があるため、吹き替えで対応することになった。


※どうでもいいが、フロリダ州について。フロリダはスペイン語公用語であるとの指摘を受けて。
Wikipediaでは、フロリダ州公用語が英語になっている。
http://wikitravel.org/ja/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%80%E5%B7%9E
こちらでは、公用語スペイン語となっている。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%80


ところが、アメリカ映画の職業ヒエラルキーは、1にハリウッド、2にテレビ、3にCM、そこから外れると記録映像のナレーションだとかになり、番外として子供向けアニメの吹き替えというカーストが確立されている。優秀な人材は見事にハリウッドに集中登用されており、日本の声優のような職業的なプライドや技術を期待できるわけもなかったのである。
さて「王立宇宙軍」制作の契約項目の中には、海外版に関しての条項もあり、これに関しては山賀博之のチェックを必ず通すことという項目もあった。
ゆえにアメリカ版吹き替えにおいて山賀博之アメリカに立会いに行くことになるのだが、その内容は推して知るべしという結果となる。
岡田斗司夫氏曰く「帰ってきた山賀くんの暗い顔がすべてを物語っている」とのこと(このとき岡田氏は同行していない。
日本の昔の声優の場合、テレビ放送のスピーカー特性を考慮して、聞き取りやすい高音のはっきりした喋り方をとっていたものだ(それゆえ不自然な喋りとして敬遠される向きもある。
ちゃんと脚本を読んで役柄を理解し、その中でプロとしての表現をする。
そのような前提があるため、「王立宇宙軍」では端役に至る登場人物の存在感を出すため40人からの人間が関わっていた。
アメリカ版は最初、この仕事をビジネスチャンス(自分をステップアップ・売り込むための仕事)としか捉えていない7人の人間しかいなかったという。
あくまでビジネスチャンスなので、アドリブだらけで目立つことしか考えていない有様だった。これを山賀氏が苦労して何とか聞けるレベルのものにもっていったのだという。
それにしても、後でシナリオチェックしてみるとだいぶ言葉の扱いがレベルダウンしていた。
たとえば「機関の出力、上がりません」という台詞が、「機関が爆発しそうだ」に丸められていたりする。前者ではちゃんと機関の内圧を制御している人間の言葉として通用するが、後者ではパニクった担当者の台詞になってしまう。
(あとは空戦シーンで「やられちまう!」とか「ガッデム!」のような少年漫画的なアドリブ台詞が入ったり。全体的に地味な作品を盛り上げるためだとしても、それは制作意図とはかけ離れた対応であった。)
大人が子供に分かりやすいサービスをする、それがアメリカのアニメだと言われてしまえば納得せざるを得ないところに制作サイドの限界と悔しさがあったのであろう。文化的障壁というやつか。
当時ネット(パソコン通信?)はそれほど発達していなかったが、公開時「王立宇宙軍オネアミスの翼)がアメリカ(ハリウッド)で公開。吹き替えは滅茶苦茶」という報告がなされたとか。これがハリウッドでのプレミア上映の顛末らしい。
ガイナックススタッフもハリウッドで公開セレモニーの会場に招待されて行くわけだが、タキシードやネクタイ着用を失念してアロハ、Tシャツ姿で赤絨毯の上を歩いて清掃員らしき人に睨まれたり、拍手している相手が制作で揉めたり一緒に仕事した顔見知りやアメリカの声優の兄ちゃんたちだったり、非常に「微妙」としか言いようのない感想しか持ちようがなかった。
映像作家であれば一度は夢見るハリウッドの赤絨毯を有名人の注目を浴びて歩く…といったミーハーな状況にもならず、歯切れが悪い思いをしたという。


●その後、迷走期間
王立宇宙軍」公開後、毎週日本全国から上映館の寂しい入場者数の報告があがってくる。四国4人とか。だが80年代後半の四国では3、4人入れば順当なところではないか?(邦画冬の時代だし。
ともかく映画は大成功・大失敗でなければ、そこそこに人が入れば事業として次の判断が求められる。成功として次に行くか、失敗として撤退するのか。
バンダイの中でも「王立宇宙軍」の捉え方は2つに分かれていた。
1)失敗派:映画に関わることで左遷させられた人たち? 映像事業部の名刺から地方事業所の名刺に代わり、映画は過去のこととして撤退方向で。
2)成功(しつつある)派:宣伝費込みで8億かかっている。映画自体の売上は1億2〜5千万というところだが、金曜ロードショーに1億で放映権を売っているし、VIDEO・LDのことを考慮すれば元はとれる。
この成功派にしても、VIDEO・LDの売上の回収は四半期ごとの決算には間に合わないので当面は赤字を繰り越すことになり、損益分岐点到達の遅さを理由に失敗と看做す人もいた。
そんな中、成功しつつあると考える人間は、作品を梃入れするためにさらに予算を投入する先を求めて拡張路線を模索する。
といった流れから、ガイナックスに「王立宇宙軍TVシリーズの企画を提出するように求めてくる。
ナウシカ」が興行的にうまく回らなかったのは、TVシリーズをやらなかったから…「あれをどうやってTVシリーズにするんだ?」という根本的な問題に蓋をした(でもTVシリーズやってたらどうなっていたかは、やってみないと分からない。)話が出発点であったようだ。
岡田斗司夫氏はともかく、山賀博之氏はこれをノリノリで受けたという。
どうするのか聞いてみると、2時間の劇場版を1年52話に広げた物語にするということで、その線にそって様々なプロットを考えたらしい。
中でも山賀氏のたっての希望は「核実験シーンを放映したい!」というものだった。
4月から放映していくと8月くらい(しかも終戦記念日近辺。もっと言えば広島に原爆投下した日を狙っていたのではなかろうか?)に、主人公たちは南極に出掛けることになる。そこでシロツグたちは核実験の現場に立ち会ったりするのだ。
山賀氏の熱意は相当なものだったが、岡田氏は手塚治虫方式(制作遅延を理由に、納品をギリギリまで遅らせる手法。この場合、局やスポンサーのチェックは当然飛ばされ、ヤバい映像でもひょっとしたら上映可能かもしれない…という。嘘か本当か、24時間テレビ「海底超特急マリン・エクスプレス」の伝説はよく知られているところである。)でなければ不可能と判じていた。
年間スケジュールを切って、シロツグたちが傭兵に駆り出されて戦争するエピソードとかも盛り込まれるはずだった。が、いつの間にかこの企画は立ち消えになっていた。企画が潰れたことは誰も知らせてくれず、頻繁にあった問い合わせが途切れると「ああ、立ち消えになったんだな」と勝手に判断するものらしい。当時はそこらへんの呼吸が分からなかった。
その後バンダイ側も勉強したということで、一度劇場版を作成したので過去の資産を「兼用」(一般的には流用)することでコストダウンし、2億くらいの投資で劇場版の続編を制作してみないかという話が次に来る。
つまりTVシリーズ52話分だと制作費が6億かかり、TVの枠をおさえると10億、これで年間16億円の出費になるというのだ。
16億で冒険するよりは、2億で現状の後押しができれば良いとの企業判断である。まあ妥当なところだろう。
ただ岡田斗司夫氏としては、2時間アニメは2億でギリ、4億は欲しい。そのクォリティは、2億:4億では1:10くらいの開きになるという。
6億出せば非常にいいものができる。そして上限は8〜9億くらいで、それ以上予算投入しても画面が煩くなるだけだとか。
それはそれとして、これも山ほどプロット出しをして企画を詰めていった。
こうした企画でクリエイターは枝葉末節の話を投入したがる。山賀氏とのネタ出しでは日常と戦争が地続きであるような小ネタの集積といった状況を振り返り、岡田氏はこれを「カウボーイ・ビパップ現象」と名付けていた。あと今から思うと、「最終兵器彼女」のようなことを山賀氏はやりたかったのではないかと述懐している。
結局メインストーリーはどうなったかというと、以下のような感じで実現していたら結構面白そうだ。
「続編は100年後の世界。シロツグたちの生きた世界がだいたい1950年代(朝鮮戦争周辺)の科学技術だったのに対して、今度は近未来2050年を想定して世界を作り込む。亜光速による星間航行の技術が開発され、6光年先の惑星に有人宇宙船を送り込んでファーストコンタクトを果たすという流れになる。しかもこの6光年先の惑星が現実の1989年頃の地球なのだ。地球側の視点とシロツグたちの世界からの視点、両方の視点で描いていく予定で、王立宇宙軍とあるからには戦争描写も織り込むもの」だったという。
こうした企画を詰めていたものの、やはりこれも立ち消えとなり、その間社員への給料未払いは続いていた。
1年半も宙ぶらりんな状態が継続していたのだ。


ガイナックスガンダム
次なる動き(救いの手?)は、サンライズ方面からもたらされた。
ガイナックスさん。ガンダム、作ってみませんか?」という話だ。
これは当時、(悪の帝国)バンダイが経営思わしくないサンライズの株主となって「ガンダム」というコンテンツをどのように発展させたら良いのか試行錯誤していた時期に当たる。
そこでバンダイ側が提示したのは、商品戦略として「登場するMSをすべてガンダムにする」というものだった。これにガイナックスの面々は「そんな馬鹿な!」と反発する。作品の世界観を重視するなら、それはリアリティの放棄、スーパーロボットモノへの逆行だと考えられたからであろう。
ところが結果的にバンダイ側の戦略は「機動武闘伝Gガンダム」に象徴されるように、市場に受け入れられていく。それは故なきことではなかった。
バンダイ側では「ウルトラマン」で培われた商品戦略を把握していて、子供たちは怪獣や宇宙人のグッズにはお金を払わず、ウルトラマングッズに金を払うという統計データを押さえていたのだ。
この傾向をおさえていたからこそ、ウルトラシリーズは次第に味方(ウルトラ兄弟)を増やしていき、それに伴うドラマ作りで物語を構築するようになっていく。仮面ライダーも同様だ。
これがセーラームーンなどの少女モノでも通用したがゆえ(セーラー戦士を増やすことで、ぶっちゃけ売上増といった有様だったらしい。)、「ヒーローの人数を次第に増やしてその中でドラマを構築する」という手堅い手法が確立したのである。
無論、それがガンダムにも当てはまるものだとは、もしくはそれを当てはめることで通俗化(?)してしまうとは、思いもしなかったであろう。
ともかく、ガイナックスガンダムがどのようなものになる予定だったのかを以下に記す。案としては2つあった。
1)MSに搭乗するとは如何なることなのかを詳細に描く。
メカマニア向けと言っていたが、実は男の子向けであろう。
たとえば戦記物で零戦に搭乗するシーンを描こうとしたとき、実際のパイロットの体験をできるだけ忠実に描写することになろう。
どういった手順で計器をチェックしていくのか、計器の意味は、パイロットの視線はどう動くのか、そういったディテールに拘るのは、男の子の嗜好で本当にそのメカに乗ってみたいからだ。
スクランブルのかかったパイロットが、コクピットに収まり、MSを起動していく様を3分20秒かけて忠実に描こうといった趣向である。
2)メーカーのメンテ要員が現場のMSパイロットを説教する話。
徳光康之氏のジオンのメカニックマン妄想に近い。MS整備兵の知識と経験と情熱が、紆余曲折の物語が背後にあって、戦場におけるMSの姿にたどり着くという、その妄想力を連想させる。
当時、「王立宇宙軍」を制作していたガイナックスではコピーの枚数が半端ではなく、ゼロックスがよく故障していた。
素人がどうやっても動かないコピー機を、メーカーの人間は「ちゃんと扱えば動くモノなんですよ」とばかりに修理して帰って行く。
これをガンダムでやろうというのだった。メーカー側に立ったガンダムである。
というのも、それこそ戦争を体験したことのない世代なので、ガンダム>軍隊を描く>具体的に何を描くのかといった問題が生じ、ありがちな「学校の延長」「体育会系の延長」「昔の映像作品のパクリ」といった形での表現を避けたかったことが根本にある。
注目したのはたとえば同じ戦争に関与していても、パイロットと兵器メーカーのメンテ要員ではメンタリティが全然違ってくる点だ。
二次大戦で零戦に撃墜された米軍パイロットは「日本には凄い機体がある」との認識であったが、実際に機体を接収して調査してみると防弾性能を犠牲にして格闘性能をアップさせたコンパクトな機体であるとの実像が見えてくる。現場で戦っていると「生存」にプライオリティがあるので、生々しい感覚描写になるものだが、一歩引いたメーカーのメンテ要員の場合は「生活」にプライオリティがあり、MSも商品に過ぎず、かといって「こんなジムじゃゲルググには勝てないよ」と語るパイロットどもに機体の優位性を納得させなければ、ジムの大量在庫を抱えて関連会社含めて従業員全員が路頭に迷うといった切実感につながっていく。
あとは作品内での「正義」の問題もある。
アメリカでは、2次大戦は「Good War(良い戦争)」とみなされている。民主主義を悪の枢軸(日独伊の帝国主義)から防衛するという正義があり、このお題目がうまく機能したからだ。以降の朝鮮戦争ベトナム戦争などではこういった評価にはなっていない。
現実を踏まえてガンダム世界を見てみると、富野監督は「ジオン独立戦争」として始まったものの内実はザビ家の独裁であり、これを許してはおけないという捻った設定で対応している。どちらかといえばExcuseに近いものであろう。
ガイナックス側はもはや「生活の手段としての戦争」と割り切ることで処理しようとした。
真面目に武器を供給しなければ、困る人々がたくさんいるのだ。傭兵が汚れ仕事をしなければ、まさに戦争という事業は回っていかない…というわけだ。
最終的に「それでも」(by 島本和彦)己の生活や存在理由を否定してでも戦争に組しないという結末になるのかどうかは、やってみないと分からなかったが。
しかしながら、こうした企画を立ててみるも、いわゆるガンダム正史の流れやバンダイ側の思惑の流れとの乖離もあり、やはりお蔵入りすることになる。あとガイナックス版「宇宙戦艦ヤマト」の話とかもあったというが、そういった諸々の企画の墓標を踏み越えて、いよいよ「トップをねらえ!」に話は移る。


トップをねらえ!
まず最初に「トップをねらえ!」1話目を鑑賞しながら、随所にツッコミを入れるという方式で話を進める。
懐かしい画面においらは涙。(LDのオカエリナサイBOXは所持しているが、DVDは持ってないんだよね。)
そこで樋口真嗣のセンス絶賛である。
冒頭のルクシオンを紹介する新聞の見出しが「しびれるぜ、鋼の巨体」とあって、こういう遊び心はだいたい樋口真嗣氏によるものだとのこと。
トップをねらえ!」のタイトルバックになっている日本列島は福井のあたりが水没しており、原発事故を連想させる。原発のある地点はだいたい水没してるとのこと。
BSアニメ夜話というより、NHKではとても話題にできるネタではない(笑。
こうした真面目な悪ふざけは、真面目なアニメ業界の人間に当初受け入れられなかったという。
この作品の試写会でまずオープニングが流れるわけだが、スタッフは大喜びの大盛り上がりだったが、業界関係者(アニメ雑誌など)は席を立ってしまったものもいた。
まあスタッフにしても、これから動画制作で3日ほど徹夜する人間が「このシーンがどういうシーンでどうして必要なのか」と聞いてきたときに「いや、面白いじゃないですか」とぶっちゃけては相手にキレられて仕事にならん。仕方なく「ロボットものと日常の融合として、ロボットがそのままに組み体操や縄跳びをするシーンが必要なんです」と無理矢理説得したという。おねーさまの鉄下駄もゲラゲラ笑うところだが、真面目に説明しなきゃならん立場とそれを納得して描かねばならん立場というのも、かなり微妙か?(ゲラゲラ笑いながら描くしかないと思うが。
初号試写のとき作品の全体像を知らないスタッフがやってきて、岡田氏やら爆笑しているのでようやく「あ、笑ってもいいんだ」という感じで作品を実感したというエピソードなどもあり。
ノリコとキミコの沖女での食事(弁当)シーンで、テトラパックの牛乳と懐かしい中に仕切りのある弁当箱を小物として配置したのも、樋口真嗣コンテだ。
描き手もそういった「お、このセンスだよ」と思わず納得してしまう素材の扱い方・提示の仕方に、共感してノリノリで描いてしまうのだ。
そして有名な「努力の天才ですね」というノリコの台詞、コンテの欄外には“ノリコはバカ”と大書されていたという。
さもありなん。
スタッフ間でも当時、この台詞は流行だったようだ。
ここらへんで雑誌「New Type」の井上伸一郎氏はイヤーな顔をしていたとか。(席を立って「ふざけるな!」と叫んで退席するまでは至らなかったらしい。)
この後、マシンに搭乗したまま朝礼を受ける場面へと続くが、マシンの1年・2年・3年の色分けは、庵野秀明の通っていた高校のジャージ(体操着)の色分けと同じだった。
そして当時まだそれほど著名でなかった田中公平についての爆笑エピソードが語られる。
通常、ある場面に付される音楽を依頼するとき、発注の方法は「××の場面に相応しい曲をお願いします」とかになるはずだ。
ところが、庵野秀明はノリコが日々鍛錬している一連の場面に「ヴァンゲリス炎のランナー」を指定し、「これでお願いします」とやってしまったのだ。
いっそのこと、使用料払ってサントラを当てた方が安かっただろうに。
田中公平氏は「屈辱的だ」「2度とこんな仕事はしたくない」と後に語ったほどだが、ほとんど「炎のランナー」と変わらないBGMを提供した。同じく作中で下校の音楽(ドボルザーク「新世界」より)も発注しているのだが、音程がわずかに違うと指摘されたけど全然気づけなかったほどの曲を仕上げている。
いや凄い。
また、「トップ〜」では作中実在のメーカーの商品(サクマのドロップ缶とか)を意図的に描いている。
これも実在商品を登場させると権利関係が問題になるから…という業界の常識に対して、「権利ってなんだよ。トラブルになったら責任とるからやってみようぜ」と反発した結果だ。
とくに問題にも発展せず、以後アニメ作品に実在のメーカーの商品が登場する流れは普通になっていく。
物語はノリコとお姉さまがパイロットに選出され、ノリコが皆からイジメられるシーンへと移っていく。
そこで「庵野クンは“あれはエコヒイキですよね”と語っていた」と衝撃の発言が。いや確かにノリコがパイロットに選出された妥当な理由って出てこないんだけどさ…。
あとイジメの落書きの中には、よく見ると「大阪に帰れ」の文字が。
ここでキミコが箒を振り回すシーンで、岡田氏が苦言を呈する。
そこそこ描ける人間は構図に引っ張られて、無闇に長い箒を描いてしまう。実際はそんな長い箒は有り得ないとか。
そして衝撃の「お姉さまは鉄下駄特訓で努力していた」シーンに。
ここで日高のり子は素で爆笑してしまい、6回もリテークを出したという。
心中お察し申し上げるといったあたり。
さらにパイロットに選ばれてしまったノリコに、コーチ(若本規夫)が言葉をかける場面が壮絶である。
普通は“いい台詞”を言う場面で使われる、人物(顔)の回り込みという結構手間のかかるアニメーションで画面は表現しているのに、台詞は「確かにお前には才能がない」となっているからだ。
今でこそヘンタイ声優(褒め言葉)として名を馳せている若本規夫であるが、この「回りこみ」なのに否定台詞という点で、かなり逡巡していたということだ。台詞も微妙にそれが表れている?
まあ、その後にフォローの台詞は入るわけだが、それでも「何も教えないコーチ。エコ贔屓でパイロット選ぶし、質問もはぐらかすし」と岡田氏は突っ込んでた。この後の夕日を背景にシルエットとなったノリコとコーチの場面は「トメでパラフィン、繰り返し」だけど「いいシーン」としている。
まとめると「王立宇宙軍の苦労があったがゆえではあるが、アニメ作るのって楽しい!」という有様だった。
試写のとき、くだんのシーンで「ヴァンゲリスだー!」と庵野氏などが歓声を上げると、公平先生が「おまえらが(そうしろと)言ったんだろー!」と子供の口喧嘩のような場面があったとか。


そもそもの最初は(バンダイ)鵜之沢伸氏からの企画要請であった。
一本1500万の予算で30分番組はキツいであろうが、ひとつの企画を4分割or6分割することで4本なら6000万、6本なら9000万とまとまった売上になる。しかも通常の30分番組の構成(オープニング, エンディング, アイキャッチなどが入るので本編は正味21分くらい。これが6本だとだいたい2時間作品という計算。)でよいとの話であった。
当時のOVAというのは2時間だったら通常5000万あたりが相場だったらしく、割のいい仕事ということで引き受けたようだ。
バンダイとしては「1本の話を分割して売り出せばコスト削減」という判断だった。
ガイナックスとしては「もう社会派は王立宇宙軍でやった。ここは肩の力を抜いたSFアニメをやりたい」との意識もあり、6本前提で企画を立ち上げることにした。(途中でどう転ぶか分からないので、本数は多い方を選択するのである。無論、4本でも終わるようにも組んでおくのだが。)
ここでちょっとしたエピソード。
「トップ〜」では脚本に岡田斗司夫のみ名前があがっているが、これには訳がある。
当時、山賀氏も脚本にかんでいたのだが「俺は王立宇宙軍で監督をつとめ、いうなれば4億の作品を担当した男。このような軟弱作品に関わっていることが世間に知られるのは体面上よろしくない。なのでゴーストは務めるから、名前は岡田氏単独ということにしてくれ。これは男と男の約束だ。」「分かった、一生言わないよ。男と男の約束だな。」という感動的な話があったという。ところが、「トップ〜」が売れてしまうと「いや、実はアレ、ボクも脚本書いてるんだよね。」と山賀氏自らがネタをバラしてしまう始末。
「男と男の約束じゃなかったのかよ〜」と。
実際、岡田氏が書いているのは1話、2話だとか。プロットだけならTVシリーズになっても良いよう26話分も作成していたというのは凄いというか何というか。
スタッフの特徴としては
・「泣きの山賀」脚本には必ず泣きの要素が入る? ええ話をつくってくる。
・「アイデアの樋口」陽気で悪ふざけが大好きなコンテマン。アイデア満載。
・「熱い台詞の庵野」いい台詞をのせる。台詞命なので監督権限で熱い台詞のシーンは絶対切らない。
こんな感じ。
作品の中核を構成するときも、「伝説巨神イデオン」が非常にネガティヴな作品で人が戦うのに意味はなく、ただ人が駄目な存在だから…というのを反面教師にするがごとく、「トップをねらえ!」ではただ生存のため戦っている状況を設定し、そのために宇宙怪獣という途方もないモノを導入したのだとする。
作品の雰囲気はカート・ヴォネガット・ジュニア*1のような、重要なところでなんか失敗してしまうような、ギャグの中にシリアスタッチが含まれているような、そんな作品をイメージしていた。
シリアスの中でギャグをやろうとした「王立宇宙軍」とは逆の発想である。無論、後で述べいてるように、「王立宇宙軍」と「トップをねらえ!」はコインの裏表のように、制作スタッフには2つで1つのような作品ではあるのだが。


ここでガイナックス作品における岡田斗司夫クレジットの縮小傾向の話がはさまる。
実際に携わった作品なのに、岡田斗司夫クレジットが表示されなかったりといった事があるのだそうだ。
とくにガイナックスとの関係が悪化しているというわけでもないのに、こうした歴史の改竄ともとれるような現象がなぜ起きるのか不思議だった。
ところがとある人からの話で、ガイナックス岡田斗司夫抜きでアニメ制作会社としてやっていけるのかどうかを不安視され、これに奮起して周囲を納得させるまでは並の苦労ではなかったとか。
こういった背景があるので、岡田斗司夫の呪縛を振り切るという意味で、露出をできるだけ抑える方針であったのかもしれない。
本当のところはよく分からないが、そういった考え方もあるということで納得はできないだろうけど困った顔をされていた。
パチンコ「トップをねらえ!」とかを皮肉な例として提示していたが、すぐに「ベストセラー作家になったからいいや」と切り返してみたり。


トップをねらえ!」の主題(テーマ)の“補助線”ということで、ここで5話のラストを視聴することに。
(「当時は関係者から嫌がられた」とメモに書いてあるのだが、なんでか思い出せない。困ったもんだ。)
コーチのいる病院に、ガンバスターでやってきたノリコとお姉様が駆けつける場面。
普通巨大ロボットの手が差し出されるシーンであれば、搭乗者が手のひらに乗っていると連想するものだが、定番を外すように手の一角にある扉が開いて2人が飛び出してくる。
そしてお姉様がコーチの胸に飛び込むいいシーンは早送りにし、ラストのノリコの意味不明の台詞を注視する。
彼女の独白台詞で5話は締められるのだが、スミスに謝り、キミコの許しを期待し、さらに父親に感謝する内容がひとつの台詞に全部入っているのだ。
山賀博之「タカヤノリコはバカなんですよ」
庵野秀明「バカの素晴らしさを描きたい」
これはどういう意味か。
なにか致命的なイベントを起こすには、有り体に言えば登場人物の知能指数を下げるしかない。
(それは常に効率的な行動選択をするパワープレイヤーが敢えて効率的でない行動をとる様に等しい。)
たとえば「機動戦士ガンダム」をよく見てみると、感情的な振幅を前振りとして“頭の悪い行動”というものを選択していく流れになっている。
これが「伝説巨神イデオン」では特にそういった行動を選択しようとしないので、感情は捌け口をなくして登場人物の人間関係は尖るばかり。
だが「トップをねらえ!」ではすべて“ノリコはバカ!”という点に集約されるのである。
それゆえ5話のラストのおかしな台詞は、制作サイドからの最大のExcuseとして設定されていたのだ。
ここまで意図的に構築された作品において、作品内で連呼されている「努力と根性」がテーマであるわけがない。
といったところで休憩タイム。


トップをねらえ!(続き)
最初に幻の6話オープニング(15分)の話。
庵野監督が「一人一人はひとつの火でも…」とかの場面を優先して、5話〜6話の間の状況説明シーンをカット。
これは作品をまとめる上では重要なことで、終盤には理屈や整合性、大きな流れよりも、感情の畳みかけでもっていかないと作品自体が死んでしまうことになる。
仮面ライダー電王・最終回で「伏線の回収が〜」と但し書きが付されることが多いが、そんなことはぶっちゃけどうでもいいのである。)
それゆえ採用されなかった状況を語る。
作品内では地球脱出して銀河の反対側に逃走するためにエルトリウムなどの宇宙戦艦を建造していた。だが収容人数の問題などあり、脱出組と居残り組の間で内乱勃発。
大動乱があったが、何とか宇宙怪獣相手に勝算が見えるカルネアデス計画を人類が選択し、バスターマシン3号が建造されることになる。
そして地球大統領が計画の発動を宣言する式場で暗殺されるところまでが、幻の6話オープニングということになる。
こうした説明の合間にも、ちょこちょこと当時の話がはさまる。
まずエルトリウム建造の場面だが、これは映画「スターウォーズ」で惑星上から空を見上げると宇宙戦艦が衛星軌道上か何かで建造されているのが視認できるというシーンがカットされたという話を聞き、これをやってみようとしたものだ。
ところがあがってきた絵は、宇宙空間でプラモデルよろしくランナーに各パーツが張り付いた宇宙戦艦キットが浮かぶ光景であり、あまりに“いい絵”なので採用されてしまう。
元々はスターウォーズからのインスパイアだったにも関わらず、単なる宇宙空間でプラモデルの戦艦というギャグに落ち着いてしまう。
これは極端な例だけれども、「いい絵があがってきたから使いました」という、もともとの意図や意味が違ってしまうのもアニメの面白さではある。
あと有名な「言えばおまえを殺す」という台詞がある。
コーチが病魔に冒されていることを知ったノリコに、お姉様にこのことを知らせたら「殺す」と脅すのだ。
だが、これには元ネタがある。
聖悠紀がコミカライズした「宇宙戦艦ヤマト」で、沖田艦長が同じく病魔に冒されていることを森雪に知られるのだが、これを漏らしたら「おまえを殺す」という台詞が出てくる。
松本零士版にしろアニメ版にしろ、沖田艦長はそんな台詞を吐くキャラクターではないため、聖悠紀は原作を知らずにそんな描写をしたと思われ、岡田斗司夫たちに深い印象を残していたのだ。
だから、それをそのまま使ったために、おかしな台詞となっている。
だが、元からコーチはノリコたちに何も教えないし、エコ贔屓しているし、それらのおかしな点をただ台詞の力のみで押し切っている点に非常に惹かれるのである。
また、舞台を沖縄にしたのはひたすら美少女の水着が描きたかったからなのだが、それなのに5話もかかったとか。
ユングがこの時点で柏原さんのように「嫌な人」から「いい人」へと描写されることになる。以後ずっと「いい人」になるのだが、これをスタッフは“成仏する”と表現していたとか。
宇宙怪獣の侵攻予測図に使われている天気予報の台風マークのような「怪」マークは、やはり樋口真嗣コンテが元になっているとか。
そして6話で「予算が足りなくて色が塗れなかった」と当時言われたモノクロ画面についての話が出る。
当然、そんなお間抜けな理由ではなく、ガイナックスが常に拘っている時代ごとの生活デザインの違いを際だたせるための選択であった。
時間は相当経過し、技術の進歩や環境デザインの変化を描くのに、モノクロのシャープさというのはうってつけだった。
とくに岡田氏の考える未来デザインは「流星王子」や「エイトマン」あたりのスタリッシュさを核としており、超未来や超科学を描くときにはモノクロの方がスケール感が出ると思っていた。
実際にやってみると、「これはイケる」「おもしろい」ということになり、制作に入ったという。ただモノクロは非常にデザインセンスが問われることになる。
軌道エレベーターリフト内での「日本沈没のパロディ」とか(樋口慎司コンテ?)、映画「沖縄決戦」への庵野監督のオマージュだとか。
あと宇宙戦艦のブリッジクルーにイデオンのキャラクタが描かれていた点につき、「パロディオッケーと作画に伝えたら、こんな絵を上げてきた」と岡田氏は嘆いていた。
こうした“まんまパロディー”について、庵野監督は割合オッケーなのだが、岡田氏は駄目出し派なのである。
終戦闘場面で残り20分の戦いの描写は凄まじいものがあるが、これは撮影一発撮りで失敗できない類のものだったようだ。何でも前のカットをダブらせつつやらんといけないらしく、相当大変だったらしい。
無論、その映像を見れば分かるように、一枚一枚の絵が本当にうまくないと、ここまでの表現にはならんものでもある。
そして最後の最後でノリコがガンバスターの動力部を胸から引きちぎる場面、背景で割れるパネルの向こうに描かれているのが蛍光灯であるとの指摘に愕然とする。
この世界は特撮ベースなので、パネルの向こうには必ず蛍光灯があるという設定なのだ。しかもこの期に及んで、まだ「オッパイぽろり」をやっている。
BSアニメ夜話では「いい話なのに何で!」と加藤夏希に物凄い非難を浴びたと、岡田氏は語っている。
こうして見てくると、作品のテーマが「努力・根性」であるはずがなく、そもそも我々は「努力・根性」でどうにかなるなど信じてはいない。
ただその言葉を聞くと熱くなってしまい、同じ熱くなれる人間に共感を覚えるというだけである。
こうした人間(つまりスタッフの考える「オタク」)に向けて、隠れた名作(?)になるように制作されたのが、「トップをねらえ!」なのだ。
言ってみれば「オタク」全肯定アニメだといっても良い。
「オカエリナサイ」に込められた意味は、いつここに戻ってきても待っている、受け止めてくれるというメッセージである。
ノリコは人類が滅んで別の生命体が待っているかも分からないけど(「イ」が反対になっているということは、少なくとも日本人は松本零士作品ばりに絶滅しているともとれる)、確かに待っているもののために笑顔で帰って行くのである。
倒錯しているが、つまり努力と根性を信じている自分自身に対するエールのようなものなのではないか。
そしてそれこそが感動の本質であり人生の本質となる。
自分の内部に起きた感動にこそ、動かしがたいその人の真実がある。
イデオンほど絶望してもいず、ガンダムほど帰れる場所が本当(現実)にあったりもせず、それでも我々は照れ笑いとともに行かねばならぬ。
それなのに、ああ、それなのに。「トップ2」の「どーしてそーなるのっ!?」感は如何ばかり。「鶴巻ー!」と叫んでみたり。


●まとめ&質疑応答
自分たちが見聞きしたことを肯定する方がしっくりくる。
よく「実体験していないことは本当じゃない」「現実に起こらないことは意味がない」という論調があるが、それは嫌いな考え方だ。
エルチ・カーゴが小説版「戦闘メカ・ザブングル」の中で述べているように、嘘(フィクション)の中に真実があるし、嘘でしか伝わらない類のものもあるのだ。
まあ、この自分の気持ち至上主義が過ぎるとまた困った問題を引き起こすのではあるが。
こうして「王立宇宙軍」と「トップをねらえ!」というコインの裏表のような作品に注力できたので、アニメで面白いと思えることは十分やったと言える。
しかし山賀氏は「続編やりましょう。やれますよ。」と声をかけてくる。
「どう続けるの?」と岡田氏が聞くと「ノリコとお姉様が地球に戻ると、そこは柏原校長がいる沖女が変わらずにあったりするんですよ。そこで学園モノをやるんです!」と“学園モノ”という最終手段をとろうというのだ。
「しかし、なんで2万年経過しているのに旅立ちのときと同じ世界になってるの?」と聞けば「何言ってるんですか。それを岡田さんが考えるんでしょう!」と返したという。
…。いや、それはそうなんだけど、ね。
まあ、あとは与太としてだと思うが、宇宙怪獣と戦ったノリコたちは次にクリエイターたる制作スタッフたちと戦う話にするしかないとも。
これをアニメ化したら凄いことになると岡田氏は山賀氏に語ったものだが、即座に「岡田さんにはできません」とケンもホロロに返される始末。
ともかく好きなアニメを制作したくてガイナックス社長となったのに、この後人件費確保のため年3000万円の利益のあがる仕事を入れなくてはならない経営者の自分に素朴な疑問を抱くようになったりしている。
そんなときに連続幼女殺人事件が起こったり、ガイナックスクーデター企画「不思議の海のナディア」をやることになったり、そのナディアの最終回での大喧嘩につながっていったりしたのである。
あと「トップをねらえ!」の元ネタは、ガンダムハインライン「宇宙の戦士」だったのに対し、ジョン・ホールドマン「終わりなき戦い」であった。
バブル時代なのにガイナックス作品が形とならなかったのは、どれも企画が中途半端だったから。
とはいえ、次回は「不思議の海のナディア」をはじめ、貞本義行「銀河空港」、黒歴史?「湾岸戦隊トレンディ」、山賀博之「ウィザード」あたりを取り上げる予定。


[質疑応答]
電脳コイルについて
個人的には、もうこの質問で得られる回答に意味はないと思う。
岡田氏にとっては「面白いけど好きじゃない」作品で、それほど分析もなされていないので、要は興味ないということだと思う。
それはそれとして。
サザエさんの絵で作った攻殻機動隊」という表現そのものは面白かった。
電脳コイル少女革命ウテナに似ている」という発言については忘却の彼方。
●恋愛について
「恋愛の基本は片思いだと思わんか? 男子」という発言に爆笑。
「それなのに女子は相互理解など世迷い言を」と。
OutsiderたるGhaeleに惹かれるのも、そこらへんが原因っぽいデスヨ?
●自分の気持ち至上主義について
感動した心は(そんな体験がないより)ある方がよい。それを本当/嘘で分ける必要はあるのか。
実際の恋愛をすることと、萌えゲー/エロゲーを遊んだこと、どっちが面白いか自分にあってるか感動するのかはそれこそ本人の問題であろう。
●評論について
全体を見渡した考え方:対象を好きな視点があるとしたら嫌いな視点でも考える。全体を見通す。
補助線を引く:説明するに難しい場合、何か補助線を引いてみる。人間関係を「フーテンの寅さん」のものに置換してみるとか。
義務感:デスノートの最終回で多くの人間が「分からない」ことを理由に否定的な意見に傾いたとき、読者に誤解されたままではいけないとの義務感から、岡田氏なりの読み解き方を提示。
●プロジェクトの進め方
集団:自分より優秀な人間をそろえる。金のあるやつ、人脈のあるやつ、絵のうまいやつ、話作りのうまいやつ。プロデューサー的な考え方。
個人:自分の直面している状況をできるだけ創作物にのっける。創作は女性的な行為。
●評論家タイプ
作者の代弁:いしかわじゅんタイプ。作品論。作品と著者の関係を語る。どうして作品をつくろうとしたか。
作品そのものの研究:夏目房之介タイプ。作品はインクの染み。物質としての作品解説。
読者の代弁:岡田斗司夫タイプ。いわゆる感想文。作品と読者の関係を語る。作品がどう読まれてきたか。
信者:大月輶寛タイプ。作者の言っていることを疑わない。その心意気を感じ取る。
●パロディの好悪について
岡田氏の中では好悪の基準は不明。
ただし、絵的なパロディには厳しく、文章的なパロディには甘い傾向がある。
●クリエイト基準について
岡田氏の中では、1冊の本をまとめるようなクリエイト作業へのモチベーションは3つの指標がある。
・(社会的な)正義がある
・利益がある
・意味がある
各項目10点で合計20点以上ないと動機たり得ない。
M-1グランプリについて
そもそもダウンタウンの登場前の“お笑い”とは、師匠について同系統の「お笑い文法」を学び継承・(文法内で)進化させていくものだった。
それがダウンタウンの登場以降、どのユニットも「お笑い文法」を自ら開発することが求められるようになった。
彼らの“お笑い”はそれほど破壊的だった。あくまでアドリブ的に見られるように“お笑い”を構成するのは、次に何が起きても不思議はないという強烈な吸引力を視聴者に与えると共に、提供されるネタの消費速度を引き上げた。
そうした歴史認識から、最新のM-1グランプリの流れを追ってみる。
南海キャンディーズがそうであるように、メジャーシーンに飛び出てしまうと、もはや“お笑い”ではやっていけなくなることが明らかだ。
それはユニットの「お笑いの文法」(シズちゃんが女としてどうかというような言動するのに、山ちゃんが女の子への最低限の気遣いを見せつつツッコミを入れる形式)は消費されてインパクトを失ってしまうが故に。
そしてテレビ的には“面白い”よりも“楽しい”が選択される現状、このままではM-1は審査員と視聴者の視点の乖離から凋落していくことになるのでは?
●アニメにおける過剰表現について
岡田斗司夫氏としては表現規制論者である。
環境や文化が強固であるならば、過剰表現(性描写、暴力描写)というより自由な表現が救いとなることで意味があった。
ところが現状のような社会では、メリットよりもデメリットの方が多いと判断する。
たとえるなら、人口少なく工業化されていなかった人々が生活排水を川や海に流すのはオッケーだったが、いまや川も海も巡り巡って自分たちの生活にすぐに返ってくる周辺環境になってしまったあたり。
嘘でも「愛」や「平和」を標榜しなければいけないのではないかと思われるほどだ。
自分の気持ちに従って表現するというのは女性的な創造作業になり、これはともすると社会規範を汚染していく。対抗する男性原理である「行動に責任をとる」あたりを持ち込まないと、社会秩序の根底が揺るがされていく。
大袈裟に言うなら“混沌”への誘いというやつになろう。*2
これはとても危険なことなのではないだろうか。


な、長かった。とりあえず以上。
でも「遺言」は6枚のレジュメ中2枚しか消化していない。
次回でも終わらない予定。誰かなんとかしてくれ〜。

*1:おいらは「スローターハウス5」とか「プレイヤーピアノ」を読んだはずだけど、すっかり忘れてしまった。

*2:ゴミであふれたディズニーランドという表現をしていた。