岡田斗司夫の遺言4 新宿ロフトプラスワン
ついに遺言も第四回。月に一度のイベントが定着してきた感じ。ちなみに次回は4月14日(月)だそうだ。
今回も6枚ものレジュメを用意してこられた岡田氏であるが、すべてをこなすのは無理であろうと皆思っていたはず。
前半はガイナックス・ゲーム班の詳しい話、後半はガイナックス版ヤマトの話に終始するかと思いきや、現代の日本社会で作品を制作する困難(というより問題点)についての言及といった方向か。
前回で懲りたからか23時ちょい過ぎにはお開きとなり、質疑応答もなかった。とりあえず概略は以上。
●[参考]
私の中では、エロゲーが一番面白かったのは1990年代〜2000年代前半だという印象がある。
それには自分なりの理由があるのだが、ここでは取り上げない。
こうした歴史の中でガイナックス・ゲーム班(赤井孝美ほか5名ほど。適宜アニメ班から絵師を召喚していたのかもしれないが)の登場する位置はかなり初期になる。
・ASCII「カオスエンジェルス」1988年:電気大に進学した高校時代の友人にBaby MakerなどのSoftでCopyしてもらって遊んだ記憶が。
・Alicesoft「Rance」1989年:後に「ALICEの館456」に収録されたやつを遊ぶ。この時代は本当に紙芝居レベルであった。
・エルフ「同級生」1992年:個人的にはepoch-makingな作品だと思う。以後の作品クォリティはかなり上がった。
・Leaf「To Heart」1997年:メイドロボの原点は冬目景「現国教師RC-01」だという話から、冬目景作品を読み出した。
Alicesoft「鬼畜王ランス」
・TYPE-MOON「月姫」2000年
ニトロプラス「Phantom -PHANTOM OF INFERNO-」2000年
・D.O.「家族計画」2001年
・ニトロプラス「斬魔大聖デモンベイン」2003年
・TYPE-MOON「Fate stay/night」2004年
・Alicesoft「戦国ランス」2006年
Windows95登場以前であり、今は懐かしいMS-DOS環境である。
私は「サイレントメビウス」と「プリンセスメーカー」はその異常な定価とフロッピー枚数に辟易しながらも購入して遊んだ。「電脳学園」シリーズは後にCopyかUSEDで遊んだような気がする。
さすがに短時間で遊び終わってしまう「電脳学園」を正規版購入するほどお大臣ではなかったということだ。
プリンセスメーカー以降の、育成>恋愛ゲームの流れ。
1989年「電脳学園」
1990年「電脳学園4エイプハンターJ」「サイレントメビウス」
1991年「プリンセスメーカー」
https://www.amusement-center.com/project/egg/index.shtml
1992年「卒業」
1994年「ときめきメモリアル」
(1996年「True Love Story」)おいらは未プレイ
1996年「サクラ大戦」
■前半
●電脳学園(1989)
当時、グラフィックの貧弱なエロゲーである「はっちゃけあやよさん」を購入していたのは、岡田斗司夫・赤井孝美含めてガイナックス社内でもPC所有者の3割にのぼっていたという。
1989年時点ではまだましだったが、それ以前では非常に少ない色数、一枚絵を表示するのも困難な処理速度といったPC環境であったがため、その画像はレトロゲーマニアでもない限り今の若者が想像するのは難しいような代物であった。(エロではないが雑誌に紹介されてた1984年「夢幻の心臓」のオープニング一枚絵を今思い返すとなかなかの絶望感にとらわれる。グラデとか中間色が使えるわけもなく、平面の絵は線で区切られたエリアが一色で見事にベタ塗りされていたような気が。記憶に頼ってるので実際はもうちとマシだったかも。でもよくよく考えると携帯のサプリとかも似たような進化の系統をたどってきたのではないかしら。)
ともかく当時PCのモニターだけでも30万円したわけで(岡田氏談。Apple系ゆえにPC9801ユーザーよりもシステム全体の総額はさらに高価だったと思われる。ちなみにおいらは1986年にPC9801環境を構築したとき、モニター・本体・プリンタで50〜70万だったように記憶している。それでも現在のPCスペックと比較すると本当にショボいスペックで涙が出てくる。時代の進歩ってやつぁ…。)、そんな高価なシステムで言ってみれば稚拙なエロいお絵かき画像を見て、「こりゃすげえ」と感嘆していたというのは一体何事であろうか。無論、ジャンル自体が発生して間もない混沌としていた面白い時期であるというのは前提として。
岡田斗司夫はこれを「ポトラッチ(potlatch)の感覚」という表現をしていた。文化人類学に通じてないと分からない言葉だ。
とあるインディアンの文化形態で、乱暴にまとめると「自分たちの財産を相手に与えることで他部族との交流を円滑にする文化」のことになり、財産の多さや気前のよさを誇示する目的が高じて、財産そのものを破壊する行為にまで及んだという。たとえば奴隷という財産を破壊(撲殺)すること、非常に価値ある銅版を壊して海に捨てたりすることが、これに当たる。
つまり富の誇示として、自分たちの財産を破壊して威張るような精神性に通じるものがあるというわけだ。
まあ、そこまで突き詰めたものでもなかろうが。
とにかく、テスト前にネットでエロ画像検索に明け暮れるような心持だったり、くだらないことに熱中する感覚、それはアナーキーでドライブ感溢れる行為(ということはロックの感覚なのだが)に満ち溢れた世界であったのだ。つまるところ「俺たちのPCで駄目なことをしてみたい!」という駄目感覚(まるで絶望先生並み)、これこそが当時のエロゲーに手を染める動機であったのだろう。
そこにガイナックスが綺麗なグラフィック(アニメ絵として確立された“うまい”絵柄)を導入することで、ジャンルの持っている混沌さに指標と方向性を与えたのだった。これは「文明度は上昇するが文化度は下がる」と表現していたように、市場や製作体制が整備されていくことに寄与はするが、別の表現に進化するかもしれない可能性を低減することになるであろう。
そういった思いはともかく、当時のガイナックス・ゲーム班内での様子はどうであったか。
・カラーチャートを前に、キャラクタの乳首の色をどういったものにするか喧々諤々の議論を戦わせて、女子社員から「セクハラです」と言われてみたり。
・でも、その女子社員の給料は、このあられもない姿をした美少女キャラクタが稼いできてるんだがと忸怩たる思いを抱いたり。
・庵野秀明は「トップをねらえ!」のキャラクタに扇情的なポーズを取らせてイケイケノリノリだった。
・それでも「この娘の性格からしてそんな濃い色合いは使うのはおかしい」「いやできるだけ濃い肌色といったイメージでいかないと」などと、真剣に乳首の色設定が為されていたり。
・「電脳学園3」が宮崎県から有害図書指定を受けたのは、あまりにグラフィックにこりすぎて陰毛まで描いてしまったからだが、「陰毛のカット上がりました」などと社内で平気で会話がされていたり。
この有害図書指定については、赤井孝美は商売の今後を視野に入れて憤っていたが、岡田斗司夫の感覚では無責任にも「いーじゃん、有害図書で。だって有害でしょ、これは」と開き直っていた。陰毛まで描いてるんだから、有害は有害に違いない。怒るのは筋違いだ。
でも、大人気ないことに「電脳学園3は有害指定受けたけど、1と2は受けてない。じゃあ、1と2には無害シールを貼って売り出そう」と発案するものの、当然実現はしなかった。
電脳学園は1・2・3と制作され、1は脱衣+クイズゲームというコンセプトで絵の力で売る。2はその延長となるもクイズの内容を交通ルールにして免許取得補助といった役割も付加。3では自社作品の「トップをねらえ!」に登場するキャラクタを脱がすという展開で持っていった。
周囲からは「あと5年早く市場に参入していればビルが建ったよ」と指摘されている。
たとえば1987年(岡田氏は1986年と言っていた)の日本ファルコム「イース」などは、ちょうどPCソフトの売れる時期に合致していたという。なのでその頃に参入していれば10万本のセールスを上げられたというのだ。
PCソフトで10万本売り上げると、当時は銀座以外にビルが建てられるほどの収益になったのだ。
●眠田直
ガイナックスを語るときにゲーム面に光を当てる人はあまりいない上、眠田直に焦点を当てる人もまた稀である。
だが非常に面白い人であることは間違いない。それは「エイプハンターJ」(電脳学園4)の制作について語る前段の話からも十分伺える。
岡田斗司夫は山賀博之と眠田直を比較して、その特徴を説明する。
山賀博之は総力戦タイプで大規模プロジェクト向き。参加人数・費用・風呂敷の広げ方すべて壮大にして果てしない方向にシフトする。3年かかっても企画が没になる可能性がある。たとえるなら鉄道とかコンボイで、取り回しが非常に大変。物語もスミからスミまで考え抜く。鉄道(物語)を敷設して機関車(登場人物)を走らせる段になっても、維持に膨大な人数と経費がかかる。方向転換も困難。
対して眠田直はバイクであるという。
下手すると仕事の話があったその日の午前中に企画があがってくる小回りのよさ(焼肉屋に入る前に仕事の話が出たときは、食事の間に企画をまとめてしまったこともあるらしい)。
しかも企画の中身が、自分の好きなことをベースにちゃんと売れる要素を織り込み、なおかつネタに一捻り加えてくるサービスのよさ。
昔SF大会で「一晩でアニメの企画を!」というアイデア会議があったという。
SF大会はプロアマ混在で、脚本家や作家やその筋の猛者が集う場でもあるのは周知の通り。
そんな中で眠田直発案の企画が、誰もが「ああ、それだ!」と絶賛する一番使えるアイデアとして取り上げられた。
内容は「昔は地球のことなど気にせず人間は好き勝手やっていた。その頃の地球は強かった。我々が何をしようと泰然自若と構えていたものだ。それがどうだ。我々が地球に優しくし出したらこの現状。優しくした途端軟弱になってしまったとは思わないか。もっと地球に厳しく、ゴミはポイ捨て森林は次々伐採道路をどんどん作って地球を鍛えねば…このままでは駄目になる!」という戦隊モノ。
地球を鍛えるための公害戦隊なので、毎週毎週環境保護を謳う秘密結社の地球に優しい自然環境保護活動を阻止して地球環境破壊・汚染活動をするのだが、話の終盤には地球がそんな苦境をはねのけて何とか再生する様が展開される。
そこで「我々はまだまだ地球に甘過ぎた」という台詞で次週に繋がる…というものだった。
こんな逆転の発想をユーモアたっぷりに提出された日にゃ、誰もが魅せられようというもの。
ただこの企画を実現できるだけの意欲と力量を持った人間がいなかったこともまた事実であった。やむなし。
眠田直がガイナックスであまり表面化しない原因のひとつとして、真面目な作品至上主義とも言うべき雰囲気があった。社内で気楽にゲーム作りができる空気が醸成されていたかといえば、それは微妙だったのであろう。
だが、そうした中で「エイプハンターJ」の企画が上がってきたのだった。
まず企画書の冒頭は「この学園の中に猿がいます!」という突拍子もないものであった。
「少子化が叫ばれる昨今、人類は猿を遺伝子操作することで人間そっくりの生物として世に送り出すことに成功した。彼らは人間の代わりに労働し、奉仕し、すっかり世界に溶けこんでいる。しかし次第に自我に目覚め、その立場を逃れて人間として生きるものも現れだした。彼らは人間社会に潜伏している。」
こういった説明を読んで、当然「ブレードランナーじゃん」というツッコミはある。
「人間社会に潜伏している猿を見つけ出すもの、彼らのことをエイプハンターと呼んだ。そして猿と人間の区別は…その尻を見ることでしか判別できないのだ!」
ばばーん。
どんな企画書だ。
周囲の冷静なツッコミにも負けず「幸い電脳学園はクイズに負けたら脱ぐという伝統がある。よって学園に潜伏した猿を見つけ出すには、クイズして女の子を脱がして尻を見て、赤い猿の尻であることを確認すればよいのだ。」と続く。
最後には「紆余曲折の末、猿も人もない感動のクライマックスが訪れる」とあるが、「これはいらんだろう」と岡田斗司夫は返したという。
結局、企画書最後の部分はあっさりナレーションで流すことになるのだが、それはともかく。
この頃にはPC Softの売上予測はだいたい計算できる状態であった。
採算分岐点は600-700本といったところで、当時定価9800円だったから、600万円前後がトータルの制作費ということになる。後は売れば売るだけ会社の利益となったのだという。
これがガイナックス商品ということで7000-10000本の発注が読めるわけだ。7000本で6860万円、10000本で9800万円の売上となり、制作費を除いて6000-9000万円が転がり込んでくる計算となる。
こうして金が入るアテができると、ガイナックスの悪い癖(?)で作品クォリティをひたすら上げる方向に熱中してしまう。
有名な「エイプハンターJ」付録「高校生の現代社会科 猿害の実際」(日本史の教科書っぽく仕上げたゲームの副読本)の作り込みに命をかけたのだ。
http://homepage3.nifty.com/mindy/prof/game.html
話は前後するが眠田直がかんでいる企画では「バトルスキンパニック」にも触れねばなるまい。
こちらはシステムの基幹となるカードゲームをまずベーシックで組んで、何度もテストプレイをしてデベロップ作業をこなしたツールが基になっている。作り込んだだけあって、ゲームシステムのバランスは非常に良かった。
さらに眠田直はガイナックスのアドベンチャーゲーム「サイレントメビウス」などを分析し、通常の半分の作画枚数で「電脳学園」シリーズと違って2時間以上遊べる内容の作品ができると指摘した。
要はアイデアと見せ方でコンパクトな作品ができると主張したのだ。
最初にカードゲームが前提にあるため、逆にそこからシナリオ設定を導き出した結果、作品は全裸真拳(裸神活殺拳)という脱げば脱ぐほど強くなる拳法によって羞恥心ギリギリで戦う美少女格闘モノとなる。キャラクタが衣類を脱ぐことでゲーム内で強烈な技を繰り出すことができるようになるものの、あわせて羞恥度のパラメータも上がってしまうため、Game Overにも近づくというシステムであった。
岡田斗司夫はこれにネタとして「巨乳の塔」というアイデアを提示する。
もともとはブルース・リーの映画から来ている、ドラゴンボールでもあったお約束の展開である。主人公が塔の各フロアにいる敵を倒して目的である最上階のボスまでたどり着く、あの熱い展開だ。
「巨乳の塔」ではサンシャイン60のような塔の各フロアに敵のおねーちゃんがいて、フロアAから始まるアルファベットに対応したバストサイズを誇っているという設定だった。
無論、あまりに過ぎる巨乳は単なるグロテスクな怪物にしか見えないので没ということになったのであるが。
もっと言えばここまで荒唐無稽過ぎると、Softを購入した人間の興が醒めて自己嫌悪に陥ることになる。せっかく買ってくれた人間に「こんなものを買った俺って馬鹿なのかしら」と思わせるのは、商品として失格である。
Trial/Repeatで、TrialしてくれたもののRepeatしないどころか「あんなものは買う価値なし」と喧伝されてはマイナス効果にしかならない。
とかくバカな商品ほど真面目に制作せねばならんということだろう。
しかしながら、「バトルスキンパニック」の秀逸さは最後の敵設定にもあった。
眠田直は「最後に核ミサイルと戦ってですね。女の子の服を脱がすように、ミサイルがどんどん分解していくってのを考えているんですよ」と言ってくる。
これに岡田斗司夫は「それは面白い。それじゃプルトニウムの妖精が最後に出てきて“私も本当は爆発したくなかったのです”とか、いい話っぽくするのは、どうだ?」と返す。
といった流れで、あのマニアにはたまらないラストバトルの演出がなされたのだ。
岡田斗司夫はさらに“239Puがアルファ崩壊すると235U(ウラン235)が崩壊生成物として生成される”(Wikipediaより)に注目して、脱衣の過程と核分裂をオーバーラップさせた演出を考えたものだが、さすがに周囲から「やり過ぎです」と突っ込まれた。
ともかく眠田直作品とも言うべき「エイプハンターJ」と「バトルスキンパニック」は、シンプルでゲーム性があってグラフィックに優れた一連の作品として、ガイナックス作品の一画を担っていたのである(とまとめてみる。
●プリンセスメーカー
赤井孝美の「岡田さん、どんなゲームがやりたいですか?」という誘導に
・「脱衣ゲームがやりたい」と答えたら「電脳学園」ができあがった。
・「リバーヒルソフトのようなゲーム(「琥珀色の遺言」など)がやりたい」と答えたら「サイレントメビウス」ができあがった。
・「女の一生をゲームにできないか」と答えたら「プリンセスメーカー」ができあがった。
こういった一連の流れは例のカウンセリング手法によって、赤井孝美が岡田斗司夫からうまくゲームコンセプトを引き出していたわけだ。
ところが「プリンセスメーカー」を制作するに当たっては、実は赤井孝美の“やりたいこと”もある程度決まってはいた。
それは光栄「信長の野望」の戦闘場面を除いた、ひたすら配下の武将を鍛えてパラメータを変動させる部分のみに特化したゲームであった。
後に育成シミュレーション>恋愛ゲームとしてジャンルを確立する萌芽は、こうした「女の一生」+「人材育成」をうまくひとつのゲームにまとめる流れから生まれたのである。
赤井孝美は「女の子を育てるゲーム」として企画を立案するものの、ガンダムではないが「このタイミング(大気圏突入)で戦闘を仕掛けたという事実は古今例がない。」という台詞並に今までにないゲームとなるゆえ「ゲームとして成立するのかどうか」という不安を岡田斗司夫は抱いたものだ。
製品版は「プリンセスメーカー」であったが、長い間「マイ・フェア・チャイルド」という仮タイトルで企画は進行していった。
パラメータ変化だけでは画面に動きがないため、女の子の着せ替え、成長につれてのグラフィック変更、アルバイト場面でのちょっとした動きのある絵などを追加することで工夫を凝らすものの、センスのよい絵師による質の良い絵が必要となり(たとえるならBランクの絵師でも適材適所で使えばトータルで高品質のアニメ作品は作れる。しかし「プリメ」の場合Aランクの絵師であるクォリティに統一された絵面が必要だった。)、作業は困難を極めた。
そしてゲームのラストに何を設定するかが大きな問題であった。
それは「人はなぜに感動するのか?」といった命題でもあった。
他人を納得させるのは容易いが、感動させるのは難しい。しかしながら作品とはおしなべて他人事を自分事と感じさせて、深い感動を与えるものではなかろうか。
「トップをねらえ!」では最後に「オカエリナサイ(イは反転文字)」という場面を用意することで、「アニメを見続けてきた視聴者の深層心理にその言葉が届けばいい」という熱い思いで、その場面を構築した。
「サイレントメビウス」はもろに細野不二彦「Gu!Gu!ガンモ」のラストを引用して、作品に没入すればするほど感動を引き起こす仕組みを用意した。
その感動の仕掛けとは、ガンモの場合話のラストで(たしか)人々が今まで一緒に過ごしてきたガンモとの記憶がなくなってしまうという展開であった。
主人公の少年はすっかりガンモのことを忘れてしまい、何かあるべきものがない不足感に悩まされながらも日々を送ることになる。しかし、ガンモが好きで飲むと酔っ払ってしまった缶コーヒーを口にしたとき、自分では何でそんな反応になるのか全然自覚がないのだけれど、涙が溢れて止まらないという場面を創出したのだ。
サイレントメビウスでの最後の演出もこれに依っている。
Comicではよくある読者のみが物事の顛末を知っていて、登場人物はそれぞれに思うところはあれども運命に翻弄された状況に散っていくEndingだ。
「泣いた赤鬼」のようなものだと思えばよい。
感動しろとまくし立てるような演出(絵/音楽/ナレーション)を使うのではなく、あたかも視聴者・読者が「主人公の感情を補完するような心の動きに自然と移行する」ように、制作者は注意深く最後の場面を構築していく。
とある超常現象に巻き込まれたとき、時間と空間の流れから隔絶した場所でタイタニック号内に閉じ込められたゲームの視点である主人公は、このような超常現象に対処する対妖魔特殊部隊の少女と懇意となる。ところが事件後すべての記憶を失って、日常の世界に戻ってくる。その後の平凡な日々の中で、ふとタイタニック号引き揚げ記事に接し、誘われるように現場に向かうのだ。引き上げられたタイタニック号内で彼はオルゴールを発見し、その奏でられる音楽に我知らず涙を流すのであった。これはゲーム中様々な場面で流されるモチーフとなる音楽であったがゆえに、記憶を失くした主人公が呆然と流す涙にゲームを進めて最後の場面までたどり着いたUSERの気持ちも動かされるのであった。
実際、渋いEnding、Epilogueということで、かなりの反響があったようだ。岡田斗司夫もその反応を素直に「嬉しかった」と述べている。
これを「プリンセスメーカー」では如何にすべきか。
まず「人間は己の努力、積み上げたものを過大評価するイキモノである」と喝破する。
PC GameをPlayするというのは、言ってみれば単にマウスをクリックしているだけに過ぎない何の価値もない行為である。
それにもかかわらず、1時間、2時間…とGameに没頭して熱中した一連の流れの結果として、何か達成感なり感動なりを期待しているものなのだ。
散々考えた末に、最後に成長した少女(Game内では養女)からGameのUSER(Game内では養父)に感謝の手紙が送られることにした。
これも少女がどんな職業に就くかによってEndingの内容が変わったので、その派生数分の手紙の内容を非常に注意して制作したのだ。
こうしてガイナックスは、いわゆる独自性をもって育成シミュレーションというジャンルを切り開いたのではないかと思われるような作品として「プリンセスメーカー」を世に出した。
だが自他共に認めるようにガイナックス作品は垢抜けない部分がつきまとう。
後に「ときめきメモリアル」が世に出たとき、岡田斗司夫は「なるほど。こうすれば良かったのか」と感心させられたという。
詳細については推察するしかないが、商品展開もそうであろうし、商品コンセプトだったり、その表現の差違による発言であったのかもしれない。*1
どちらにせよ「ときメモ」スタッフが「プリメ」を分析していたことは確かなようで、岡田斗司夫は後に「ときメモ」制作スタッフ(コナミ?)と一緒した機会に、向こうから「プリメ、参考にさせてもらいましたよ」と言ってきたという。これに「ええ、そうでしょうよ」と口をヘの字にしながら答えたとか。
●その後の流れ
以上が1989-1991年の流れになる。
1991年のアニメは「オタクのビデオ」(私は未見。実写映像が半分くらい入っていて、ガイナックスの社員がオタク代表として登場し、台本に書いてあることを膨らませて喋っていたとか)や「炎の転校生」あたりを制作していたようだ。
アニメ制作会社としては、その制作体制の弱さが露呈し、低迷していた。
当時を回想するに、否定してばかりしていて企画が出されるものの「これはちょっとなあ」と乗り切れない状態が続く。
山賀博之は実家のある新潟に帰省ばかりしていた。そんなこんなで3年ほど。
ところがゲーム班の頑張りにより、一時は月2500万円の運転資金が必要なのに会社の預金通帳に1500万円しかない中で戦っていたのに、なんと1億円という数字が乗っかってくるようになっていた。
それなのにアニメの次回作が軌道に乗らない。
前回触れた山賀博之原案のトレスコ(プレスコ[プレスコープの略ではない]・ロトスコ・シネスコープ)企画も結局自分から駄目だしをする始末。
やはり「王立宇宙軍」や「トップをねらえ!」以下の作品はつくれない…という暗黙の縛りが身動きできなくしていたのだ。
そうした中で、ついに西崎義展から「宇宙戦艦ヤマトやらない?」という話がガイナックスにもたらされるのである。
これは「絶版 史上最強のオタク座談会3」で語っている内容とカブるかもしれないが…との前置き後、いよいよ「ガイナックス版ヤマト」の話題に移行する。
話を受けたときに乗り気だったのは庵野秀明+岡田斗司夫で、山賀博之はそのスタンスから距離を取るようになっていた。
つまり最終的に映画ファンというか一般客相手に映像作品で勝負したいというのが山賀博之の望みだったのである。
ただ公開される邦画の半分が制作費の回収もままならない時代のことだ。岡田斗司夫はそんないるかいないか分からない客相手に商売するよりは、自分らも含めてオタクなんだから今までと同じオタク相手に商売していく方向でいいのじゃないかと述べている。
それに「オタク・フォレストガンプ」(映画「フォレストガンプ」の主人公が歴史的な場面に常に立ち会うところから来た言葉)たる岡田斗司夫としては、マクロスの企画が成立した現場にも立ち会ったし、スタジオぬえが喧嘩して内部分裂し、一階と二階に分かれた現場にも立ち会った。ここで庵野秀明と西崎義展の出会いに立ち会うというオイシイ場面を逃すわけにはいかなかったのだ。といったところで前半終了。
■後半
●導入
後半最初は「ヤマト」の話題ではなく、先生と学生の話から始まる。
今までいろんな学生相手に講義をしてきた岡田斗司夫であったが、MIT(マサチューセッツ工科大学)での講義が一番学生の姿勢が凄かったという。
24時間オープンキャンパスで、授業開始が午前1時20分からなどというものもあると聞いて吃驚だ。そんな本来の学生にとっては至れり尽くせりの環境にあって、若者は向学心に溢れかえっているらしい。
どんな話も細大漏らさず食いついて己の知識にしようと待ち構えているがゆえに、非常に授業はしやすい印象だったようだ。
一方で、適当に授業しにくい環境の方が先生としては鍛えられて伸びるという話も。
クラス全体の中で一番ムラッ気で頭の悪そうな人間に焦点をあわせてその興味を逸らさずに話を聞いてもらう状態を保ちつつ、授業として学生に理解させるべき項目をすべて消化して、己の中でも十分に仕事をしたと実感できる講義をするのは並大抵ではない。だがそれだけに達成感や充実感、蓄積されるものも違うのだとか。会心の授業を行えたときは、教師たちのたまり場でガッツポーズをとる話などはちょっと微笑ましかった。
こうした基準からいくと、代アニや東大は生徒の聞く姿勢が良すぎて楽すぎる。
偏差値が高い人間は、いかに素早く教師の考えていることを理解して同質の思考ができるかという点で鍛えられているゆえ物足りない。
対して大阪芸大あたりはいい感じにスリリングな講義体験ができる。自分に興味ないジャンルについてはすぐに集中力が切れるなど。
どうしてこういう話をしたかといえば、要は講義もクリエイティヴな作品づくりも「視聴する側の関与」があって始めて期待値を上回る結果が出るという点に注目しているのだ。
たとえばこうしたオタク話を貪欲に聞いて楽しもうと金と時間を犠牲にしてやってきている人間にとっては、岡田斗司夫がちょっとしたネタを振るだけで読み込みも楽しみ方も過剰な方向にシフトする。参加者が持っている知識というより期待値に反応して場の空気は面白さ敏感フィールドを形成するのだ。ゆえにその場にいた人間と、その場で話されたレポートを読んだ人間では、温度差は当然ながら本当の楽しさは共有できないということになる。
ここで岡田斗司夫のたとえとして、ディズニーランドのミッキーマウスと、なんとかランドのドン・チャックの比較があって「ドン・チャックでは乗れない」という話をするのだが…詳細は忘れたので流す。
●ガイナックス版ヤマト
伝説的なプロデューサーである西崎義展に会えるというので、庵野秀明も岡田斗司夫もワクワクして相手の事務所まで出かけていった。
だが、話はまず宮崎駿との出会いに飛ぶ。
岡田斗司夫は30歳前後で宮崎駿と直接会ったときにも、強烈な体験をしている。
宮崎駿はあの風貌で椅子に胡坐をかいて座り、刺す様な視線を飛ばしてくるといきなり「どうせお前は自民党に投票するんだろう!」と江田島平八張りの大音声で投げかけてきたのだ。
どんな出会いだと呆気に取られるを通り越して俄然好奇心煽られるものがあったであろう。通常型どおりの挨拶ではない何かが展開する空間で自分がいかように対処するのかというのは、それで一つの冒険であろうから。そうせざるを得ない理由が存在するのかもしれないが、まずはこの衝撃を伝える当事者たる幸運に感謝しつつ、さらに足掻いてみたくなるものだ。
こんな難物相手に、こんなオイシイ状況を継続させるべく「え? 自民党じゃ駄目なんですか?」と答えるに。
「若いやつは共産党に投票するもんだーーーっ!」と返される。どんなファイースト・インプレッションだ。この状況を連想しただけで大爆笑ものだろう。
後で「じゃあ、宮崎さんは共産党に投票するんですか?」と聞いてみたところ、「そんなこと…言えないよ」と言葉を濁されてみたり。
究極には自分と相手との関係をいかに楽しいものにするかなのだろうが、30歳前後の岡田斗司夫ではいまだ相手の内懐に飛び込むには至らなかった。
次に先日の富野由悠紀との対談に話が振られる。
富野監督が岡田斗司夫をどう思っているのかはよく分からない。
対談のときの印象では、1)必ず尻かお腹を触る、2)クネクネしている、3)マッチョなことを言う、という特徴があるのだが。
他人の話を聞いてみても、毎週印象が違うだとかで、勝手なオッサンというか変人なのでは? と思われる。
(だいたいいくら有名人とはいえ仕事で出会った相手でそれほど親しいわけでもないのに尻か腹を触ってくるのは、冷静に考えると非常な危機感・焦燥感を抱く気がする…ぶっちゃけお尻の貞操大ピンチ)
赤井孝美に言わせると「富野さんはAB型ですから」ということになるらしい。
拗ねたり怒ったりする面と人懐こい面が同居しているからだ。
くだんの対談においては、先の遺言でも話したが、岡田斗司夫は20分遅刻して行った。
場所は老舗の出版社が抱えている新潮倶楽部という施設で、一晩10万の部屋に泊まった経験ある人間からしても、その調度品は別格であったという。
通されたのは和風の応接室といった部屋で、編集者3人に書記、撮影係も含めて10人くらいが全員項垂れていた。
そして富野監督は開口一番「遅い! もう終わった」と岡田斗司夫に告げたのである。
対談の仕事にやってきたのにこの展開は空前絶後、驚天動地のイントロであろう。
そこから監督は如何にガンダムの話をしたくないかを語り出したというから、目が点になる。
どうやら監督ブチ切れる>全員で宥める>さらに説教モードに移行>最近の地球はこれでいいのか!(日本や世界を飛び越え、ついには地球ですよ)という風にエスカレートしていったようだ。
仕方ないので(この辺あやふや)ちょい喧嘩腰で「じゃあガンダムの話はいいですよ」という風に対処すると「だいたいガンダムのビームサーベルはスターウォーズより早い」と言い出すのであった。
よく分からんが、ライトセーバーとビームサーベルは別物と言いたかったのではなかろうか。
結局、富野監督は「機動戦士ガンダム」でのビームサーベルの描き方について言及する。
ビームサーベルというのは連邦軍極秘兵器であるガンダムの武装の中でもさらに極秘にすべき特殊兵器なのだ。
だから第一話で描かれるべきシーンというのは間違っている。つまり、抜刀したビームサーベルがあたかも剣のごとくビームが伸びている必要はない。Fate Stay/nightのセイバーが所持するエクスカリバーのように不可視…というより、ザク相手に斬撃の瞬間にビーム状の剣が伸びるのが正しい姿であろう。最初からビームが剣のごとく伸びていては、始めて正対する敵の兵器だというのにその用途がバレバレになってしまうではないか。こう主張したのだ。
そこで「なんでそういう描写にしなかったんですか?」と突っ込む岡田斗司夫であるが。
「オカダちゃん、それはね。」
と返す富野監督。
「バカな、バカなやつらがつくるから…折角の俺のガンダムがーーーーーっ!」
もうこんな駄々っ子のような監督相手には、いかにガンダムでのSF描写が凄いかを語るしかない。
無重力下での人間の移動シーンに注目して、ホワイトベース内の通路に定期的に移動する取っ手(グリップ)を掴んで船内移動するのが素晴らしいと告げる。
よく壁を蹴って無重力下を移動するシーンが描かれるが、あれは途中で停まってしまうと身動きとれなくなる可能性があるのだ。
あとはウィンチガンのアイデアだとか、「逆シャア」で空母から発進するMSがエアロックを使用するなど(艦内の空気というリソース保持のため)、凄いアイデアがちりばめられているのに誰も評価してくれない。
といった話で何とか対談の様相を呈してきたのだが、新潮社の編集がよせばいいのに「といったところでガンダムの対談を…」などと仕切り直そうとしたものだから、またもやつむじを曲げる富野監督は「ガンダムの話なんかするかーっ!」と。
この対談ではNewType論がなぜ必要かなども語っているようだが、詳細は4月に出る新潮社の対談部分を参照とのこと。
ここで岡田斗司夫が繰り返し主張する見解「流通している共通概念が正解」という話がされる。
クリエイターの真意は別として世の中に流通している見解こそが正解であり、もし真意と違うのならクリエイターの負けを意味するとも。
かなりシビアな見方ではなかろうか。
この後も富野監督との楽しい対談は続く。
「キチガイ」だとか「乞食」だとか放送禁止用語もバシバシ飛び出した挙句、ついに「人類なんか滅びればいいんだ!」という台詞が。
これに「そうですよね。富野さん一人が生き残ればいいんですよね?」と返すと「ちがうーーーーー!」と絶叫される。
いや、ここまで60歳を過ぎたいい大人が、しかも確たる業績を残した一人のクリエイターが、「なんでボクに喧嘩を売るんですか」と聞きたくなるような対応をするのか。
インタビューや対談で散々な思いをしてきたということから推し量るに「こんなことを俺に言わせるお前は何様だ!」という非常に苦い思いがあるからではないのか。
それにしても過激な発言をした対談も、書籍にするためにテープ起こしした後の校正が入ると、富野監督の発言は自らマイルドなものに置き換えられているというあたりどのように突っ込んだものか。井上喜久子17歳に「オイオイ」と突っ込むがごとく呆れツッコミが相応しい気もするが?
そしてようやく西崎義展との出会いの場面に戻ってくる。
その事務所は西崎義展のためだけの会社なので、非常に手狭な印象を受けた。
とくにスタッフが常駐しているわけではないのだが、その代わり秘書の人数が吃驚するほど多く、彼女たちが用事を言いつかったり西崎の世話をするとき、ホステスのように膝をついているのが印象的だった。
「会いたかったよ」
第一声がデスラー総統のごとく、岡田斗司夫と庵野秀明に向けられた。
確かに「ヤマトの諸君」と続けば、デスラー総統である。
しかし続いた言葉は仰天すべきものだった。
「口座番号を教えてくれたら明日には2000万振り込もう」
暗黙の役割分担として、作品内容に言及したら庵野、制作に関しての話題なら岡田という了解はあった。
どうやら話はビジネス方面というか金の話だ。
庵野秀明は自分の担当でないゆえクスクス笑って実に楽しんでいる風であった。岡田斗司夫はそういうわけにはいかない。
なので「2000万円くれるならもらうけど、これって仕事の報酬なんですかね? それとも西崎さんのポケットマネーから出た御祝儀でしょうか?」というアプローチをしてみる。
だが「2000万は2000万だよ」という禅問答のような回答だ。
そして「明日じゃなく、今日振り込もう」と言ってくる。
もはやどこぞの映画の一場面で、業界のドンに呼び出された弱小会社の役回りである。
これは西崎義展という人が古いタイプのプロデューサーで、「男の腹芸」とでも言うべき交渉事で長年様々な巨大プロジェクトをまとめてきたゆえの対応であった。
プロデューサーというより興行師のイメージなのだが、たとえば「リトルニモ」という作品の権利関係の話をしているはずが、傍で聞いている人間には女と車とゴルフの話をしているようにしか聞こえない。いや実際話の内容は「銀座のクラブのママと寝た」とか「ン千万の車を買った」とかで、そうした話はすべて盗賊言葉(Thiev's Cant)のごとく、虚々実々の駆け引きが為されている表向きの会話でしかないのであった。
少なくとも現代的な感覚を持った人間からすれば、魑魅魍魎という言葉が相応しい人種であることは間違いない。
こうした場面では相手を親分と認めて子分の役割を表明しなければ会話が成立しない。なにやらTORGのリアリティの相違を連想させるが、生きている世界が違う人間との会話は傍で聞いている分には最高に面白い。
西崎義展は「2000万は返さなくていい。俺が払いたいから払う。文句あるか。」と押してくる。
ここで岡田斗司夫は「(そこまで言うなら会社も楽になるし)2000万頂きます」と返したのだが、これはBAD Endingへのフラグが立つ選択であった。
アドベンチャーゲームであれば「2000万もらう? Yes/No」とあってYesだと好感度激減、Noだと好感度Upという図式であったのだ。
岡田斗司夫の反応に途端に興味を失くした西崎義展は、ここでおもむろに庵野秀明に向けて「ヤマトは君の好きにしていいよ」と矛先を変える。
「本当ですか!?」
庵野秀明の喜ばんこといかばかりか。そしてバカ正直で空気読まない対応も「Great!」としか表現しようがない。
たった今、岡田斗司夫が真っ正直な対応して話を逸らされたばかりではないか。だが、庵野秀明の庵野秀明たる素晴らしさはこの後の熱弁にある。
西崎義展が「やはりヤマトは創りたい人に任せるのが一番幸せなのだよ」などと浸った台詞を口にしてる前で、庵野秀明は自分の創りたいヤマトをぶち上げたのだ。
「ボクがやりたいヤマトは…最初のシリーズをそのままやりたいんです!」
端から端まで初代「宇宙戦艦ヤマト」の物語を、庵野秀明テーストで展開させる。そして絵柄は極限まで松本零士のもので行く。
これが彼のやりたいヤマトで、西崎義展相手に熱く語ったというから驚嘆した上に爆笑せざるを得ない。
当然、西崎義展は不機嫌となり、芝居がかった感じで「…違うな」と呟いたという。
「そう。宇宙の彼方からとてつもない悪がやってくる。これだな。」と続く。
この展開は一体どういうことなのか。
後に松本零士からカラクリのネタを教えてもらったという岡田斗司夫によれば、要は実作業のみガイナックスに発注して制作者の名前は監督・庵野秀明と銘打つものの、総監督として西崎ゆかりの大御所(たとえば舛田利雄)の名前を使うということだった。ある意味ゴーストライター扱いなのである。
既にシナリオのプロットもあり、これにそって実作業をこなす人間を探していたということなのだろう。
そういった意図がありつつも、口調はあくまで穏やかに、相手を宥める感じで浪漫を語るスタンスで接していたわけだ。親分子分の関係であれば、親分の思いを察して子分が子分に徹するという暗黙の了解でもって動くことになるのであろうが、そういう時代ではなかったし、作品の権利も保持できず好きな作品作りができないなら仕事を請ける道理もない岡田&庵野であった。
また、浪漫を語っているにもかかわらず、エゲツナイ話題(金・女の話)が割り込んで、結局2時間ウヤムヤな話し合いが過ぎていった。
中でも本田美奈子を自分がどんなにバックアップしてプロモートしたかなど最初は控えめに話していたものの、興奮した西崎に秘書が薬を飲ませる段になって目が点になった。なぜなら、薬は市販の錠剤とかではなく秤で量って当時は珍しかったエビアンで飲み下すアヤシイ粉末であり、嚥下した後の発言が大風呂敷を広げるというか、さっき話していた内容がより大きな話として繰り返されたからである。
しかも発言内容も怪しくなってくるというオマケ付き。「もう2000万払ったじゃないか!」などと言われる始末だ。
そしてアタッシュケースから手付金として200万の札束をポンと渡されたものの退席するときには秘書に回収されるに及んで、「これは西崎先生の気分を良くするためのコントなんだ。」と自らを納得させたのだ…という。
1970年代にはアニメの企画にも関わらず「宇宙戦艦ヤマト」という普通に考えたら通らないような企画を通した西崎義展である。地球が滅亡の危機に瀕しているという設定もさることながら主役メカがヤマトでしかも軍艦色ベースの配色というスポンサーに受け入れ難い点を通した上で、なおかつ空前のヒットさせた全盛期の西崎義展であればきっと別の出会いとなっていたのであろう。この西崎義展・後期型では如何ともしようがなかった。
しかし全盛期の西崎義展は金があった。
表現としても現実としても、脱税していることを忘れるくらい金があったというのだ。
税務署の査察で脱税を指摘されても、あまりに金があるから払っていないということが認識できずに怒り出したほどだ。
他にもたとえば「ヤマト」関連のキャラクター商品は通常サンプルとして必ず制作会社に送付されるわけだが、これがざっと200万点ほどもあったという。
これだけの数になると格納しておく倉庫代を維持するだけで月に100万以上の金が飛んでいく。仕方ないのでよみうりテレビ主催のファン感謝祭を後楽園球場で行ったときに、サンプルを袋詰めにしたものを参加者に無料で配布したという。
また西崎義展の時代は異常に会議が多かった。
誰かが何か素晴らしい設定を思いついたときには、必ず会議招集して関係者を集めたのだ。
これは誰か1人が思いついたことを会議を通して決めたことにすれば、その権利が最終的にプロデューサーに帰属するためだ。
プロデューサーが強かった時代のハリウッドでは同様のことが行われており、プロデューサーは大君(タイクーン)と呼ばれて栄華を誇り、その集中した権力と財力でもってスターたる映画俳優を手厚く保護していたのだ。階層上、現場監督・脚本家などはその下に位置していて、「風とともに去りぬ」の時代などはこうした構造で動いていた。
無論、対照的にヨーロッパは映像作家による作品作りが為されて体制への反動が作家主義として興るのであるが。
そうした視点でみればヒッチコックも作家性ありということに(もともとはイギリスの人であるが。
まとめると
・やりたいことをやれない。
・権利が制作者に帰属しない。
これは作家主義の反対であるプロデューサー主義であり
・現代では許されない
・ハリウッドの黄金時代を築いたものの時代遅れ
ということで、西崎義展としては正しい判断なのかもしれないが、こうした仕事を請けることはあり得ないし、無理だった。
追記として。
庵野秀明がやりたい「宇宙戦艦ヤマト」というのは、「新世紀エヴァンゲリオン」を「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として描きなおす作業に共通点があるという。
初代「宇宙戦艦ヤマト」の物語ラインどころかコンテまで同じにしたいという要望を持っていたようだが、それでいて庵野秀明らしさを込めて再現する予定だったようだ。
それはそれで凄いリスペクトの仕方であろう。
でもたぶん「なぜそういった作り方が面白いのか/必要なのか」理解できないと思うので、庵野秀明の思考を誰かうまく説明してくれないかと個人的には思う。
おいらでは好きが高じて「帰ってきたウルトラマン」を自ら演じてしまったその延長線上としか表現できない。
問題提起として。
大風呂敷を広げる西崎義展。
クスリ*2の助けや口がすべらないと大風呂敷を広げられない西崎義展。
これは表裏一体である。
富野監督にも通じる二面性。
中年〜老年における幼児性。支離滅裂な有様。なぜゆえに?
●鍋にもう具は残っていない
だいたいメインとなる具は語ってしまったので、後はもう繰言とか戯言を好き勝手に言うので、ここまで岡田斗司夫に付き合った人間は諦めて聞くべしとの沙汰あり。
とりあえずジブリのプロデューサー鈴木敏夫と岡田斗司夫は、似て非なるものであるとの話。
鈴木敏夫の方が「悪」である。悪は強く、善は弱い。これが実情か。
「弱いけど正しい」ということを世に訴えるのは文学者の役目で、一時代前は「弱いものを描く」という視点が大切だった。
20世紀に入ったあたり(大正から昭和・1912年-, 1926年-)では文学者は尊敬すべき存在であった。
これが20世紀後半の社会、すなわち民主主義の名の元で、多数派・画一化・管理下というキーワードに象徴されるような時代になるとどうなるか。
まず民主主義の悪は国民にあるとする。
政治家や官僚に責任をとれというのは筋違い。
言ってみれば民主主義というシステムは、言い訳を許さないシステムだとする。精々が愚痴・文句を言う自由があるくらい。
こうした社会では「システムに組み込まれない様」を描くことが重要になる。
ゆえに児童ポルノであるやら暴力表現であるやら、社会の枠組みから外れた描写が意味をなした。
岡田斗司夫の実感としては、21世紀の現在この認識も変わりつつあるのではないかとのこと。ここらは前回も言及した過剰表現の飽和状態なので秩序なりカウンター的な施策が必要という立場。
全体状況から、システム生成期には理想というあるべき姿を描くことが大切だし、システム完成期にはそのシステム内からはみ出したコリン・ウィルソン「アウトサイダー」のようなその中ではまともに生きられない人を描くことが大切。
システム崩壊期には生成期に通じる次なる理想を模索する姿勢が大切だとしている。
こういう考え方をしてしまう自分自身、世界に対する責任などに拘泥してしまうがゆえに、岡田斗司夫は自分を「弱い」と判断している。
「プリンセスメーカー」は作れても「ときめきメモリアル」は作れない…と表現しているが、俗な言い方するなら「そこまで媚びられない」*3ということなのかも。
クリエイターの考え方として
・表現するもの:世の不都合はないものとして割り切る。もしくは割り切る振りをする。
・政治をなすもの:世の不都合を大人として処理する。
といった二面性をどのようにバランスとってやっていくかが問題。
糸井重里や鈴木敏夫は割り切りが強くて岡田斗司夫からすると嫌悪感を抱いてしまう。これが自分の中の青臭さというか中途半端さである。
だが、鈴木敏夫は宮崎駿と組むことで役割分担をすることでうまく機能する。
宮崎駿が「ボクのアニメは一回だけ見てくれればいい。その後子供たちは自然の中で遊んで欲しいのだ」という正論・綺麗事を、「はいはい。じゃあ、それを実現するために映画にしてDVDにして金曜ロードショーでも放映してガッポリ稼ぎましょう」と鈴木敏夫が汚れ役を引き受けて売り方を考えるのだ。
これは他人の作品だからこそ引き受けられるという話でもある。
一方でこのような相棒を得られなかったと思われるクリエイター・富野監督であったり、プロデューサー・西崎義展においては、強烈な二面性として人格破綻者のように立ち表れてくるのではないか。
要するに「儲けたい」とか「いい思いしたい」という悪魔的欲求担当を誰か他人が肩代わりする、もっといえば自分の中の矛盾を誰かが一手に引き受けてくれる状況でなければ、クリエイターは歪にならざるを得ないのでは。
一般的なビジネスの現場でも
・クライアントに頭を下げる「お客様は神様です」的な面
・経営者としてCostとServiceの品質を両天秤にかけるシビアな面
役員と社員の立場のような面はある。
そして善良なる人間は弱いのだが、悪になれないのでズルくなっていく。
岡田斗司夫が尾崎豊>エヴァ>ひぐらし…というラインを嫌っているのも、社会の一部を犠牲にすることで得られる面白さは、現時点の世界に悪影響しか与えないと考えているから。
「校舎の窓ガラスを割るような(厨な)歌を歌う尾崎豊なんか駄目だよ」という話をとある女性にしたら、本気で殴られたというがはてさて。
一応、「トップをねらえ!」においては、この作品からストレートに感化される人間はいないであろうとの読みがある。それは作り手が捻って描いているから。注:個人的には制作者の照れが込められている作品はまだ安全な気がする。
社会にまで影響を与えないであろうと。
このあたりでだいたい持ち時間が尽きた感じで、あとは流れるように。
混乱時代のガイナックス未発表企画・樋口真嗣「Green Nazis(グリーン・ナチス)」というのもあった。
環境保護のため人類皆殺しというテーマを引っさげて企画が上がってきたとき、庵野秀明は「しびれるーーーーーっ!」と叫んだとか。
ちょうど「不思議の海のナディア」が終了した後で、作中で悪の組織「ネオ・アトランティス」が構造矛盾を抱えていたので、納得できる悪の組織を模索していた頃でもあった。
まだまだ細かいネタはあるのだけれど時間も押し迫って、次回どうするかを伝えなければならない状況であったのだが、富野監督を真似て「次回のことは言わないでーーーっ!」とおどける岡田斗司夫であった。
それはともかく。
ナディアのラストについては、キャラクタを愛する男である庵野秀明は概ね満足していたようだが、樋口真嗣や貞本義行はまた別の考えを持っていた。
とくに貞本義行はマンガ家であり、毎回作品作りとしてネームを切る作業をしているがゆえ、ということは読み手の視線や心の動きをあらかじめシミュレートして構造的に捉えているということになる。
この構造矛盾については眉をしかめるのであった。つまり納得できる悪の組織について考え続けることになる。(これが後に「世界征服は可能か?」という著作に繋がってくる?)
逆に本当に格好いい正義とは何かという話もある。
関係ないが山賀博之は宮崎駿を仮想敵とすることで作品内のモチーフを散りばめた。
たとえば「青きウル」は「紅の豚」の真逆で構成されたもの。青<>赤だし、狼<>豚である。
ナウシカに対しては「王立宇宙軍」の中で「結局、ナウシカってリイクニじゃねーの」という描き方をしている。
その他の面については、映画「Street of Fire」に求めている…らしい。
おいらは未見だが岡田斗司夫による「Street of Fire」という作品の説明が酷くて面白かった。
曰く、スタッフの知能指数40くらいしかないような作品なのにカッコイイパーツがてんこ盛り。
ヒロインのダイアン・レインはズベ公だし、監督はアル中だし、まさに馬鹿なアメ公が制作したような作品(にしても酷い言われようだな)だとか。
この物語の粗筋、歌姫がさらわれてバイク乗りが救出に向かうといったあたり、「蒼きウル」のネタもととなっている?
話は「Green Nazis」に戻って。
民主主義が誰かを悪とすることができないシステムだとするなら勧善懲悪は成立しない。
ならば逆転の発想で環境保存を目的とするエコロジーな悪、地球を守る悪の組織を考えたものだ。
ただし、これに対抗する正義の味方を考えつかず、企画はStopしてしまう。
「エコロジー」の反対は「ヒューマニズム(人間中心主義)」ということになる。
物語を走らせた結果、次世代に問題を先送りという結末にするあたりしか思いつかなかった。
ただこれは非常に問題のあるオチではある。
あと岡田斗司夫が考えた企画として「死後の世界が攻めてくる」というものがあった。
人は死んだらどこに行くのかという素朴な疑問から始まった話で、月に死後の世界があり生者を取り込もうと狙ってくるのだ。
だがどう考えても生者に勝ち目がない上、オウムのポア理論とかぶる考え方になっていったため、やはり企画はStopする。
ただイメージとしては前田真宏が気に入って、「こんなイメージですかね」と世界観を達者な一枚絵に起こしたりした。
結局「不思議の海のナディア」のDVDをツタヤで借りてきたものの、「ナディア」メインの話はできなかった。
次回はこの「ナディア」とか、ガイナックス取締役の給与が20-30万から一気に450万円に引き上げられた狂乱の時代の話をする予定。
月給450万円なんて歌舞伎町のおねーさんでもあるまいに…何でそのような事態となったか、それがどのような影響を当人に与えたか、つまるところオチがあるのか。
といったあたりで終了。
[宿題]
Blogに「遺言」のレポートを上げるときの注意点としては、テープ起こし厳禁というのがある。
たぶん複数の人間がそれぞれの主観でレポートを上げることで、その差違をも楽しもうという意図があるのだと思う。
おいらは友人とつるんでイベントに参加したり内容について話し合ったりなぞしないので、内容のいい加減さと主観による極端さはかなり酷い気もする。
それはそれとして、今回は「クリエイターの二面性」を説明するときには書き手たる自分の二面性に触れるという宿題があったのであった。
うーむ。
社会生活において相応しいロールプレイができないのがおいらの特徴な気もするので、実は普通の人ほど二面性を持ってないじゃないかしら。
立脚点は駄目な方向にずれてると思うけど。
[追記]
「岡田斗司夫の遺言」という形ではなく、「まんが道」ならぬ「アニメ道」というComicで提示した方が面白いのかも? 無理があるか。
*1:たぶんにGame User(男性)がPC Game内の少女と如何様なやりとりを経れば、実感としてGame内の少女を受け入れることができるのか。そういった視点じゃないかと思われ。個人的には上述の「同級生」(Elf)の構築したシステムの方が、「ときメモ」や「プリメ」よりも面白かった。登場する女の子自身がそれぞれ物語を内包していてそれに関わってもいいし関わらなくても時間は過ぎていく…というあたりをうまくパッケージにしてた印象がある。
*2:岡田斗司夫が業界通の辻君と話したところ、「それは麻薬ですね」と返された。「漢方っぽかったけど」と答えると「未発見の麻薬ですね」とさらに返される。まあ、ヤバい薬には違いない。後に覚醒剤・大麻・麻薬及び向精神薬で引っかかっているので。
*3:商業的な負け惜しみも含めて?