岡田斗司夫の遺言6(最終回) 新宿ロフトプラスワン

遺言イベント、ついに終結。そして次回からは「寝言」イベントに。
この日は全体の総括といった趣でありました。とりあげたネタは没企画の残り(Wizard, UFO)と「トップをねらえ2」についてで、出涸らし感はあるものの岡田斗司夫節が最初から最後まで繰り広げられました。
没企画の話は当然ながら景気のいい内容ではないし、「トップ2」の話はもはや現在のGAINAX岡田斗司夫の立場の違いが明確化したがゆえに組むことができないといった状況で、個人的にはシンミリした締めくくりであったように思います。
ただ岡田斗司夫という人の在り方は非常にユニークで、おいらには嫌味なくほどよい感じの他者視点であると感じました。


●前半
差し入れされた鳩サブレー(缶)をもって壇上にあがる岡田斗司夫
シンプルな缶のデザインが気に入ったので、缶は持ち帰るけど中身は皆に分け与えるとの方針で、休憩時間に鳩サブレーを配っていた。おいらも1つもらって帰宅後に食した。
とりあえず例によって世間話から。
4月中旬に発売された「オタクはすでに死んでいる」のネットでの反応が面白い。書籍そのものについての反応、それに加えて他人のそうした反応を見ての又聞き反応が多数。
・前提として「(民族としての)オタクは既に存在しない」とし、
・この状況への対処方法として「幻にすがっても無駄なので(オタク共同体を)解散。個々人で好きなことをしましょう」で締め。
といった論旨で「オタクはすでに死んでいる」という本を出した。
であるからには「前提が間違っている」か「対処法が間違っている」と反駁するのが筋ではないか。
とくに前提を受け入れるなら、センチメンタルな懐古主義にしかならないのは明白。前提を拒否するならば口だけではなく「岡田斗司夫オタキング)の後継としてオピニオンリーダー、利益代表者となるべき」だという。
つまり現在のオタクとは何者であるのか体現し、その責任を引き受けるということか。
それがオタクの内ゲバのような有様を呈しているのは、なかなかにカッコわるいことである。
本田透東浩紀など、オタクをネタにしている人間は沈黙したまま。「おまえが代表者になれ」と言われるから、じーっと黙っている。まるでクラス委員の選出のようだ。
ある意味頭のいいヤツは問題の本質(カラクリ)が分かるので何も言わず、騒いでいるヤツは何も分かっていないから騒ぐのだとも。
ネット内での発言層の特徴でもあるのは結局のところ“(社会的な)責任をとる”という意志表示しない/できない点にあるであろう。「俺がやらなきゃ」「みんなのために」という態度で一貫して事に当たり責任を引き受ける…ということをしなければ、実社会での説得力は生まれない。それはネットでどんな素晴らしい意見を開陳したり論理を組立てたりしても、所詮は他人の意見に過ぎず自分の抱えている問題も包括して興味の対象とするような真摯な態度ありやなしや?という話なのだろう。
そう考えるならオタキング二代目襲名というのは、「今のオタクはかくあらん」という意思表示として有りなのではなかろうか。
こういったことをメディアで言わないのは、ロフトプラスワンが「卒業生と在校生による飲み会で、文化祭についての意見を言うOBといった立場が取れる」のに対し、メディアでは「在校生の文化祭にその場で口出しして嫌われる駄目OBになってしまう」から。
おおまかそんな意味合いのことを話してから、本題に入る。
まず繰り返しではあるが、1989年(1988-1989)の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮粼勤事件・M君事件)での衝撃を語る。
岡田斗司夫の見解に拠れば、たとえばロリコンと言ってはいてもオタクのそれは高度に精神的な遊戯としてのもので、実社会を震撼させる事件を起こすものではないとの油断があった。
ちょうど娘が生まれてその世話をしつつ、自分たちの作品づくりもあわせてしつつといった中で、率直にいって「宮粼勤が俺たちオタクの代表として事件を起こして捕まった」という感覚について考えざるを得なかった。
これは1995年地下鉄サリン事件(ちなみに1989年にはオウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件発生)で、オウム真理教・その構成員が何者であるかを調べてみたインテリ系の人間が、自分たちの中に類似性を認める様に似ている。
一応、近代法と前近代法の考え方にまで言及。
近代法…心の中でどんな妄想してもよいが行動によって実現した場合、法で裁く対象となる。あくまで行動制限が目的。
・前近代法…心の中に思い描いてもいけない。つまり宗教である。キリスト教だと懺悔というシステムでフォロー?
こうした中で1991年「オタクのビデオ」という作品をGAINAXは制作する。おいらは未見。
なんでも冒頭「マイティジャックのTシャツありますか?」との電話に応対後「まったくオタクはやだねえ」と店員が独白する場面から始まるのだとか。
この「マイティジャック〜」とゼネプロに何度も電話で問い合わせてきた話は実話で、その喋り方をそっくり再現すべく声優さんに細かい指示を出した…というのは余談であろう。
結局のところ1989年以降オタク内バッシング、内ゲバとでも言うべき現象が起きてきたというのが俯瞰した状況か。
サイバーコミックスを編集していた神田氏(今は2chの削除担当者で出世?したという話だが、業界内の立場としてそんなに上等とは思えないのだけど)なぞがオタク叩きを好んでするとか。
山賀博之などに見られる、自分も十分オタクであろうとのツッコミが入る人物が、自己批判というよりはたぶん自分への呪詛と気付かずにオタクという括りに罵声を浴びせたのではなかろうか、その有様は随分と奇妙である。流行の芸風といえばそれまでだが。
この「オタクのビデオ」の脚本も山賀博之であるのだが、脚本書いたと自分からは公言しないところがナニが小さいことよと揶揄したくもなるというもの。
この脚本、最初は普通にテニスなど嗜む男性だったのが、次第にオタク趣味に走り付き合ってた女性に振られるといった流れだったらしい。
岡田斗司夫の感覚からすれば「オタク趣味を理解せずに離れていく女性」など別れて当然といったツッコミを入れたら、山賀氏は「だからこの業界はいい女がいないんですよっ!」とキレまくって発言を。
そこから「ボーダー」(狩蕪麻礼&たなか亜希夫)の話に飛び、その中で語られている主人公たちの生き方には全然共感しないけど、彼らヒッピーが自分たちはヤッピーよりも自由でこっちの世界がいいぜって嘯くといった基本スタンスの中で「でも、いい女はあっち側にいるんだよな」と思わず口から出てしまう場面を引っ張ってくる。
しかしながらオタク男もオタク女も(敢えて腐女子という表現使わず)、そういった境界線向こうにいるイイ女やイイ男を憧憬と妬み嫉みをもって眺めつつも、自分たちのフィールドに入ってくると「なにか違う」と感じてしまうものなのだ。
手前勝手で複雑な気持ちであるが、率直なところには違いない。おいらなぞは断絶してあることの自然さを抱えて生きるのがオタクってもんなのかねぇ…などと斜に構えてしまうのだが。
ともあれ「オタクのビデオ」などという企画が通るということは、GAINAXはスポンサーの信用を得、ビデオオリジナルなら何でも制作できる立場にあったということだ。
ビデオ、LD、そして次に来るDVDなどを視野に入れて、GAINAXブランドの作品は時間をかければ採算の取れる商品と認識されていたのだ。
こうした恵まれた環境を手に入れたものの、「本当につくりたい作品とは?」といった悩みを抱え、しかもそれをこじらせていたのが現状であった。
とくに山賀博之は絶不調で「岡田さん、時代はトレンディーですよ!」と頓珍漢な発言から「一緒にヴェルファーレ行って踊りましょう!」とまで言い出す始末。
時代の流れと自分の描いてきたものを合体させて「機動戦艦ティラミス」だとか「機動戦艦ナタデココ」、「湾岸戦隊トレンディー」といった企画・アイデアの迷走っぷりを繰り広げるのである。
山賀博之に言わせれば「メカに美少女にSFを描いて、岡田さんや庵野は幸せなんでしょ!」ということになる。これに「うん、幸せ」と満面の笑顔で応える岡田斗司夫
「だけど赤井(孝美)はあまり幸せじゃないし、ボクは不幸ですよ!」と力説する。
でもさあ「まほろまてぃっく」つくった人にそんなこと言われてもなあ…と冷静なツッコミを入れる岡田斗司夫であった。2001年作品をもって1991年の低迷する山賀博之に突っ込むのもナンであるが。
山賀氏としてはホイチョイプロダクションのような位置取りを経由して、もっと普通・一般人を相手に商売できる会社にGAINAXをしたかったのだった。
オタク向けだけで終わりたくないという山賀氏の志向は、庵野秀明樋口真嗣のようにオタクであるがゆえに現場スタッフと意気投合して溶け込むタイプでなかったがゆえでもあった。
そういえばほとんど嫌がらせみたいに「湾岸戦隊トレンディー」のイメージボードを貞本義行が描いたものだ。
戦隊のコスチュームが「コンバトラーV」の制服で、胸のマークが「V」から「T」に変わっただけといった代物であった。
企画の中には眠田直氏の「もう1つの21世紀」といったネタもあった。
クレヨンしんちゃん・オトナ帝国の逆襲」に先んじること10年といった企画であったが、眠田直という人はスタッフやシステム込みで非常に実現性高い企画をまとめるものの、「いや俺たちもっと金あるからもう少し大きな企画やろうぜ」と声をかけたくなるような内容であるのが特徴だとか。
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」(2007年)※おいらは未見。これの逆といった趣で、オイルショックのなかった未来的な21世紀にあって、オイルショックを起こして不安定な21世紀を招来しようとする悪の組織?との戦いを描くといったものだったらしい。たぶんにスーパージェッターの装備にあるような麻痺銃+光線銃を携帯して、肯定的未来が否定的未来と戦うといった有様だ。
こうしたパラレルワールドものは筒井康隆「美藝公」を連想させる。日本が映画産業立国していく様を描いた作品である。
架空世界なのはいいが、あまりに複雑な物語はゲーム化するには邪魔なだけである。
ゲーム性と物語性というのは相反するものなのだ。
といった流れをおさえつつ、山賀博之の「Wizard」というゲーム企画を眺めてみる。
自らの一般的な嗜好とアニメに煮詰まったのでゲーム企画をやってみるかと視点を変えたのが功を奏したか、新潟に帰郷して二ヶ月経って上がってきたのが「Wizard」というシナリオだった。
岡田斗司夫には素直に面白いと思える内容であった。
企画立案前に山賀氏に「いいネタ(世界観)ありますか?」と聞かれたので、ラリー・ニーヴンの「魔法の国が消えてゆく」を薦めたところ、見事にその世界観を活かした内容をまとめてきたのだ。
もともとラリー・ニーヴン自体SFモノであるゆえ、そのFANTASY世界にも確固とした裏打ちがある。「魔法の国が消えてゆく」の世界では有史以前の地球を扱っており、そこでは有限の魔法資源(マナ)があふれていて、魔法を使うことで消費され枯渇していくという。
現代に魔法が存在しないのも、結局魔法時代にマナが完全に枯渇してしまったからだ。(マナある限り回転する独楽の魔法が最後というのは、ブラックホールっぽくて良さ気ではある)
ラリー・ニーヴンの世界は魅力的でシェアワールドということで多くの作家がその世界を借りて作品を描いているが、まあ二次創作ってことになろうか。最近では長谷川裕一マップス」のシェアワールド作品もそうだけど、権利云々を言う前に世界が開かれるってのを素直に喜んで享受したいよね。
いや「Wizard」の内容の話であった。
Wizardの世界でも魔法は有限な資源をもとに形成されるのである。ただこの世界での魔法はバンドを組んで音楽を奏でることで実現するものだったのだ。
この着眼点が非常に面白い。
ボーカル、ギター、ドラム、ベースなどが音楽として表現することで魔法を実現する。無論、詠唱担当たるボーカルは人気で、「バンドやろうぜ」の募集広告ではその他の担当を募集することになるのであるが。
そして魔法がバンドによって演奏されるライヴで行使されるからには、同じ魔法はひとつとしてないし、各自の技量と(魔法/音楽に対する)方向性が重要になるというのは、非常にドラマが作りやすいように思われる。
また世界には最大規模の魔法を扱う「魔法旅団」といった存在があり、彼らは魔法をオーケストラのように多人数で駆使、演奏するため、楽譜を用いる点が他の魔法楽団(バンド)とは違っていた。これは多人数で演奏するがゆえに魔法使いとしての個性や自由度を失う反面、強力な魔法が扱えるという設定だ。(「超人ロック」の同調攻撃を連想させる)
彼らは旅団全員を一体の竜の姿に変えて移動するような強力な魔法を使うものの、彼らの通過した後にはマナは一片たりとも残らないのであった。
こうした設定はイカ天(1989-1990, 三宅裕司いかすバンド天国)によって起きたバンドブーム+FANTASY(魔法モノ・オタク的な要素)の組み合わせで成立していて、組み合わせの妙ということで「まるでCLAMPみたい」と岡田斗司夫に言わしめたほどであった。
おいらはCLAMP好きじゃないけど。
それはそれとして、山賀博之であるからして「王立宇宙軍」のように緻密な魔法世界の中で、魔法で身を立てることを志した主人公が次第にステップアップしていく様を描いていく。
まずは己の魔法楽団を設立することから始まり、様々な試練の後にとある国の中枢に食い込むまでの話を積み上げる。ここで主人公に転機が訪れる。
それは自分の魔法で何でもできると確信していた主人公が、子供の「お母さんを助けて」という言葉からとある現実に直面したことから始まる。
子供の願いは伝染病で隔離された地域にいる死を待つだけの女性を救うというものであった。魔法は所詮幻術であり、動かしがたい運命を変えるほどの力があるわけではない。
ここで主人公を戦隊モノのレッドとするならニヒルなブルーといった立ち位置にいる楽団内の仲間が「魔法ではないが対処する手段はある。この手段をとっていいのかどうか分からんが」と声をかける。
それは科学的なアプローチであり、伝染病地域における衛生状態の回復といった地道な対応であった。湯と包帯と隔離と公衆衛生など。
主人公はこの手段を採用するものの、結局は子供の母親含めほとんどの人間は死に、隔離地域を開放したことによって動揺した人々の不安は増大し、魔法が幻術に過ぎないとの一面が明らかになってしまった。
そんな中、魔法旅団が攻めてくる…といった展開であった。
こんな壮大にして雄大な物語に惹き付けられたものの、岡田斗司夫山賀博之に思わず聞いたものだ。
「これゲームの企画だよね。どんなゲームにするつもり?」「アドベンチャーゲームだけど」「…」(ちょっと絶句?)
いや映画にするならまだしも、小説にするには派手すぎるし、ゲームにするには複雑だ。仕方ないので赤井孝美とともに、いくつかの分岐はあるものの山賀博之のシナリオ通りに物語が展開するようゲーム用シナリオとして膨らませるという作業をすることに。
この話は主人公のエピソードを順序良く読ませることで成り立ってもいるので、途中で全然違う分岐で別ルートというわけにもいかなかったのだ。
それでも魅力的なシナリオだし、魔法を逃避の手段として使っていない点、魔法実現のための詠唱をバンドによる音楽表現に結びつけた点、捨てるには惜しかった。
今だと「鋼の錬金術師」を一捻りしたような味付けも施せよう。
クライマックスで「魔法旅団」と一戦交えた後、ラリー・ニーヴンに倣って「かくして魔法は枯渇して」という展開にするものの、疫病時に対応したような科学的・合理的なアプローチがあるから…という希望と、魔法の名残として音楽が残ったという実に美しいエンディングが展望できるではないか。
そう、ほんの少し残った魔法が後押ししている真の音楽は、それゆえに人の心を動かすのだ云々。
ここまでイメージが広がった企画であったが、なんと山賀博之が自分から駄目出しをしてしまう。PC Gameというジャンル自体に暗雲が垂れ込めた状況になってきたがためというのもあろうけど、ともかく企画が出てはポシャリといったGAINAXスランプ時代を象徴するような流れであった。
赤井孝美岡田斗司夫も企画立案者が降りてしまってはいかんともしがたい。このまま皆のテンションは落ちて、かくして企画は立ち消えになった。
岡田斗司夫曰く「この話は差し上げますので、何か成果物にまとめられるならまとめてもらって構いません」とのこと。
[追記]
魔法が幻でしかない(現実のせっぱ詰まった問題には無力)といった点については、アニメ制作者の立場と照応している。
アニメ作品を鑑賞して「勇気をもらった」とか「元気が出た」という感想がよく紹介されるが、逆に言えば「勇気」や「元気」しか与えることが出来ないものなのだ。
[追記2]
そして音楽が残った…というのは山賀博之脚本にはなかった話で、今回の遺言用のレジュメをつくっているときに岡田斗司夫が思いついたものだと後で訂正が入る。
もともとの話では主人公は実家に戻って農業をやるのだとか。随分と地味なエンディングだったのだな。


次のネタは「ベル銀伝」となる。
Five Star Stories(永野護)がこんなに面白いのになんでブレイクしないのか、というのが発起点だというが…それは永野護なんだから仕方がないと思うのだがそれはともかく。
いろいろ考えて銀河英雄伝説(田中芳樹)をベースにベルサイユのばら(池田理代子)を、まるで(トップガン+エースをねらえ)で「トップをねらえ!」ができたようにMIXすることで企画を立ち上げた。
ここでマリー・アントワネットオーストリアから輿入れしてくるとき透明な馬車でやってきた故事にならい、透明な宇宙戦艦というアイデアを出したという。
これが「ガラスの艦隊」(2006年・GONZO)で採用されていて「俺のアイデアがぁ〜」状態に陥る(素人・玄人問わずにこういう話はよくあることだろうけど)。
いや何がやりたかったかというと、ガンダムボトムズが戦争をハードに描く方向、すなわち兵器や戦術を細かく描く流れに行ってしまったのに対し、NHK大河ドラマ独眼竜政宗とか?)のように人間味溢れる武将を描くことで、大人(というより家族?)で視聴できるロボットアニメ(戦争アニメ)を実現しようと画策したものだった。
ところがこうしたアイデアを、庵野秀明はパロディだと思って真面目に聞いてくれないといった状態であったのだ。
ここらへん詳しくは話さなかったが、かなり意思疎通ギクシャクしていたのじゃなかろうか。


で、前半最後の話題は「UFO」という企画だ。
事の発端は北久保弘之から「俺は押井守になりたいんです!」とファミレスで相談を持ちかけられたことによる。
つまり、普段は何かといって仕事せずにのらりくらりと怠けていて、それで機会あっていざ仕事が来るとやっちゃいけないことを思う存分やってしまい、仕事が干されても気にせずほとぼりがさめた頃にバンダイあたりから2、3億でまた作品を要求されるような、好き勝手な生き方できる立場になりたい…ということだ(なんじゃそりゃ)。
その場でおごってくれるという約束を取り付け、押井守エミュレーターを起動させた岡田斗司夫は30分だけこの件について考えてみた。
押井守作品の特徴は「わけがわからない」ということ。
すなわち視聴者が勝手に考えてくれるような構造になっているわけだ。そして回答のない謎を与えるのなんか実に押井守らしいと言える。
たぶんに「新世紀エヴァンゲリオン」は庵野秀明押井守の文脈を取り入れた結果として眺めてみると興味深い。
なんでも押井守は机に「キリスト教シンボル辞典」を常備していて、なにかネタがあると関連性を確認するためかよく参照しているのだという。
その話の構造は「天使のたまご」でもそうだが、A>B>Cと進むと裏A>裏B>裏Cとなって最初に戻るような構造性を有している、とか。(ちょっとピンとこない)
そして設定は底が見えない、つまりはハッキリしないものであれば良い。
ということで舞台は1969年の大阪万博直前をチョイスする。
主人公はUFO目撃やUFO存在の揉み消し屋なることをやっている。UFOは発掘されたり墜落したりして人々の目に触れる。これを現地に赴き証拠を隠滅するのが仕事だ。
島本和彦無謀キャプテン」で“オトナになると宇宙人はいないことになっているのだ!”と諭されたように、この世界ではUFOは存在しないことになっている。
揉み消しの仕事をする主人公らは、仕事が終わると思想調査を受けてたった今UFOが存在する証拠を処分したにも関わらず、「UFOなど存在しません」とか「そんなものあり得ません」と答えることになる。
まるでPARANOIA(「市民、幸福は義務です!」)のようだ。
物語は、たとえば公衆電話に10円玉を投入したりしているにも関わらず電話を切ったときに一瞬テレホンカードが吐き出される場面が挿入された後に10円玉のお釣りを受け取るなど、現実の裏に別の現実(1993年・この企画を考えていた当時)が透けて見えるような展開を見せる。なぜそうなのかは物語では当然明らかにされない。
そして次第に綻びが大きくなっていく現実を描き、それとともに主人公はUFOを目撃することが頻繁になっていき、最後には恋人と「私の兄さんはUFOにさらわれたのよ」「UFOなんて存在しない」「信じて。UFOはいるのよ」「いやいるわけがない」といった押し問答の末、恋人があたかも内側から本性をあらわすかのように反転するとUFOとなって飛び去り、主人公は拘束されて連れて行かれる。なんか「未来世紀ブラジル」のような、そこで終りかよ!と叫ぶしかない状況で話が終了する。
押井守っぽいだろぉ〜」「押井守っぽいですねぇ〜」などという会話が交わされてみたり。
結局、風呂敷の畳み方を予感させた時点で打ち切るように終わらせるというのも、ひとつのやり方なのであろう。星野之宣ブルーシティー」のごとく(そういや月末に作品集が出るな。この作品子供心にドキドキしながら読んでた記憶があるぞ。


●後半
前半の「Wizard」のオチ(そして音楽が残った)は、岡田斗司夫が半年前に思いついたものであるとの訂正が入る。
世間の話題と自分の描きたいもののすり合わせといった観点から作品づくりをすること、また「Wizard」の場合は企画そのものより制作方法込みで継承することが大切? このへんメモがあやふや。
ディズニーランドを例に、制作者の在り方を説明する。
客はディズニーランドに耽溺するためにミッキーの存在を信じて構わないが、裏方たるスタッフはミッキーを客に信じてもらうために根回しだとか説得だとか、具体的名行為で夢のようなものを形作らねばならない。
で、「トップをねらえ2」の話になる。
岡田斗司夫は1話のみ視聴した段階で、佐藤店長を通して鶴巻(和哉)監督から作品の落としどころについての助言(正確には“岡田さんの意見を聞いてみたい”だったか)求められる。
作品は4話まで完成しているものの部外者が視聴できるわけもなく、1話しか見てない状態で5、6話の話の落としどころについてコメントしなければならないのだった。聞くだに無茶な話だ。
だがグラタンをおごってもらったので、90分は「トップ2」のことに集中することにしたという。
鶴巻監督は「トップ」の継承作品としての「トップ2」という意識があったので、既に基本路線については口を差し挟みようがない段階でありながら、こうした場を求めたのではなかろうか。
けれども岡田斗司夫が1話を見た感想は「宇宙フリクリなんじゃないの?」という素っ気無いもの。
フリクリ自体がエヴァをこじらせたとしか思えないような作品だったし、トップ2の話の構成が視聴者の前におおまかな世界観を提示して生活なり何なりの描写を積み上げつつ話を展開していくものではなく、エヴァウテナのように世界の謎の吸引力で最後まで引っ張るタイプの話であった。大きな疑問符を抱かせたまま物語の流れに視聴者を引き込むには、それなりの見せ方が要求される。
岡田斗司夫の見るところ「SFが弱く不条理が強い」という印象であった。
いくら謎で引っ張るとはいえ、リアリティの積み上げが圧倒的に足りない印象であったのだ。
おいらもトップ2は未見なので詳細はWikipedia参照なのだが、まずトップレスという超常の力を持つ若者が宇宙怪獣と戦っているという状況があるようだ。
このトップレスは無から有を生むほどの力を持っており、想像力を駆使して不可能を可能にするという話らしい。このカラクリは明らかになるのか尋ねたところ、4話で明らかになるとの回答(この回に庵野秀明がからんでいる?。
しかも彼らの能力は宇宙怪獣を引き寄せている原因でもあるという。
「とにかくアイデアを出してくれ」「正統的な続編としたい」「作品に足りないものは何か」といった要望を聞き、岡田斗司夫は真面目に考えた。
そもそも宇宙怪獣を設定したのは圧倒的な抗いようがないモノに対する状況が欲しかったからだ。
怪獣は生存本能のみで動いており、銀河を次々とブラックホールにしているのは、宇宙全体をワームホール化して別の宇宙へと旅立つ“渡り”を意図しているからだ。
宇宙がビックバン(膨張)からいつかジャイアントクエンチ(縮退)に移り滅びてしまう前に別の宇宙へ移動しなければならない。
やってることは何やら長谷川裕一「MAPS」に登場する伝承族の生け贄砲を連想させるものがあるが、まあよし。
で、この宇宙怪獣は本来は非常に小さい生物で、“渡り”のため恒星をブラックホール化するのに相応しい姿すなわち巨大化したことにして、小さい状態で人間に寄生すると宿主にトップレス部隊のような能力に目覚めさせるという設定にしてみた。エヴァA10神経のように(別にペルソナでも構わない)、少年少女であるがゆえに超常の力を発揮できることとし、自分の中の制御すべき怪物と位置づける。オタクの在り方としての暗喩(メタファー)にもなっている。我が身の内に宿る力を暴走させれば反社会的な事件を起こすし、力を殺すことがひょっとすると大人になるということなのかもしれない。
こんな流れはどうかと思うところを語った岡田斗司夫であったが、気がつくと鶴巻監督の表情は暗い。
結局のところ鶴巻監督もオタク否定派とでも言おうか、岡田斗司夫の思いは汲めないという話であった。世界観があわないのだ。
岡田斗司夫にしてみれば、オタクという想定視聴者を否定することは、それだけでモノをつくる資格がないということになるのだが。否定するなら金を取るのはおかしいし、少なくとも厳しい意見を提示するのであれば前提として愛なりExcuseがなければ醜態をさらすだけの不毛な話になる。それは美意識が許さない。
ともかく岡田斗司夫は「トップ2」のプロットをさらに提示する。
我々の宇宙は結局宇宙怪獣によって滅びることになる。しかし、怪獣がワームホールを抜けて“渡り”を開始したときに、ヒロインであるノノも一緒にその流れに乗ることに成功する。
ワームホールに突入することで因果地平を抜け、光速に縛られなくなったため原因があって結果があるのでなく結果が先にあって原因が後に生じるような世界へと到達する。そういった場において、すべての原因がノノに集約されて彼女があらゆる可能性を受け入れることで今までの出来事が承認されるという段取りだ。内省的な方向で「いいの、それとも悪いの?」というところまで突き詰めるなら、持って行き方としては中心人物に委ねて開放した後、制作者側はやることやったので後は視聴者側の物語だよというメッセージを送り、最後には夢を見せなくては話がおさまらんだろうと説く。
すなわち銀河ハイウェイとでもいうべく可能性がいくつも生じ、その中には「トップ」のラストであるノリコ&お姉様が地球にたどり着くエンディングも当然ありなのであった。
岡田斗司夫的には「これで行ける!」と思い、わずかグラタンをおごられただけで、しかも90分でここまで大きな絵を描いたことに興奮したものだった。
だが、佐藤店長は気まずい感じで言葉を濁す始末。これが今のGAINAX岡田斗司夫の対話の限界ということなのだった。立脚点が違いすぎる。
たとえばオタクを外部的なものに依存して最終的に卒業するものと捉えるか、オタクを自分の中で処理すべき共存していくものと捉えるか。
さらに「トップ2」の話をまとめる。
宇宙怪獣が寄生することで人類は老化しにくくなっている。それは人を増やし文明を発達させることを誘導しているからであった。
ノノは因果地平の彼方で自分が人間になることを選択することもできた。だけどこの宇宙がこのままである世界を選択したのだ。
無から有を生み出すトップレスの能力は、これまたアニメというものに照応している。
性犯罪の原因がアニメでないと言い張ることは可能だけれども、言い切ることができないのがツライところ。
表現者が倫理を語らないのは危険。自由のみ標榜すると誰も責任を取らないような状況になってしまう。
結局、宇宙怪獣との共存を「トップ2」にもってきたのは、我々はDemonishな欲求と共存せざるを得ないというテーマに結びつくがゆえ。
最後に鶴巻監督が否定的なのはオタク業界にどっぷりつかっているためなのではと推察。「トップ2」の最終話を見たものの、それはそれで楽しめたが、(方向性の)ズレたスケールアップになっていなかったか。率直に「残念だ」と感想を述べていた。
こうした断層があると一緒にモノは作れない。


こうして「トップ2」の話も終わり、ついに「岡田斗司夫の遺言」イベントは終了したのであった。


以前、和美さん(元妻)と武田氏(だったか?)とともにピザを食い散らかしたことがある。
食後の机上の状態を見て、それが明日をも知れぬヤクザの刹那的な食事風景を連想させるものがあった。
岡田斗司夫が選択した人生というのはまさにそういった後先よりも己の才覚で今を生きるものであり、伴侶を得て血縁による後継者をもうけるよりも己の考え方や価値観を伝播させることにより快感・充実感を見出すものであった。
生き方と作品が完全にシンクロするタイプのクリエイター、ミーム(文化的遺伝子・意伝子)の命じるままに生きる伝道師でもあったろう。
こうしたヤクザな業界というか人生というのは、世の中に必要とされなくなったら消えていくべき生き方でもある。
岡田斗司夫
・財産
・知力
・体力
どれかのパラメータが要求水準を割ったら自殺するのが落としどころとして正しいのではないかと指摘する。現在、知力の低下を実感している(ゆえに「遺言」のようなイベントをした。
そして「65歳で(自分の人生を)妥協しません?」と皆に呼びかける。
※無論、これは自殺を推奨しているわけでも本人がこれを実行する約束をしているわけでもなく、資源に限りあり人口ピラミッドが崩れつつある現状で即効性がある極端な手段という意味合い、かつ芸人などヤクザな職業人として生きる心意気の表出といったものではあろう。


●質疑応答など
・65歳で死ぬという心持について、心中は複雑だが「それが美学だ」とする岡田斗司夫と「それはカッコよくない」とする質問者のあいだで、ちょっと押し問答っぽいやりとり。本質的には「自分をコントロールしたい願望」「(世の中の)役に立つという確信」に岡田斗司夫は拘泥している。
・こうした考え方が福本伸行の「アカギ」だったかに通じるものがあるとの指摘?
・娘相手の論戦が一番困難。言い負かされる可能性大。事前に考えておけば何とかなる。
・劇場版ナディアは結局視聴しなかったけど、一生「ガッカリだ」と言われることは覚悟せねばならない。GAINAXは7000万で請けて5000万で丸投げしたのだが、それを請けてくれる会社がなくて結局グループTACに戻して処理したほどの状況だったのだ。それでも足りず、他所で劇場版ナディアを制作している間にGAINAXでは別の稼ぐための作品を作らざるを得なかった。ゆえに劇場版ナディアのようなハズレ作品にお金を払ったとしてもお布施だと思って欲しい。業界に投資したお金は回りまわって苦境にあるアニメーターだとか関連会社だとかを育て、いつか視聴者に恩返しするような作品をつくるやもしれず。ここらへんどう言っても言い訳なのだが、最終的には大きな愛で包み込む以外ないかも。
・「1万円でアイデア考えます」という仕事を岡田斗司夫は一時期していて、今でも継続しているものもあるようだが、中でもゲーム会社からの相談でシステムはいいものができるがシナリオがイマイチでどうしたらいいかという話があった。これに日本人にあったブレーンストーミング方法を紹介している。参加者が面白そうなアイデアを紙に書き、それを隣の人に回す。用紙が回ってきたら、書かれているアイデアをいかにしたら面白くなるか追記してさらに隣に回す。これを一巡すると人数分のネタがそろうという仕組み。議論しつつアイデアを醸成していくのが苦手な日本人向けか。
・宗教の話。立教大学で神学を学ぶ学生相手に「聖書を信じているのか?」と聞いたときのこと。表層的な受け答えだけでなく、ちょっと突っ込んだ答え、さらに突っ込んだ答えと三段階に渡って説明される。
GAINAXを辞めるときに「そんな無責任な!」という反応をされたという。これはWikipediaにある記述(会社を辞めるように迫った結果…)とはちょっと違うか。
・売上もかなりあったワンフェス海洋堂に引継ぎ、ゼネプロも解散してGAINAXに吸収合併するという、会社のリストラを断行している。


岡田斗司夫は1992年にGAINAXを退社して、二年間の空白期間を経て1994年に東大の非常勤講師になっている。そして1995年に「ぼくたちの洗脳社会」を出版している。
私はたぶん1996年あたりに出向先の早稲田にある保険会社でプログラムを組んでいて、昼休みに早稲田大学近くの本屋で「あれ? GAINAXの人が面白そうな本を出してる」(そのくらいの認識だったのだ)と手に取り購入したはず。
まさか2000年に始めてロフトプラスワンオタクアミーゴスを見たり、2007年-2008年の「遺言」イベントに見に行くようになるとは。


●正確なイベント内容については…
http://room666.blog49.fc2.com/blog-entry-1293.html
イベントの再現性は参照先の「端倉れんげ草」さんのBlogが良さ気ですね。
よくここまで再現できるなあ。
おいらは自分目線の印象レベルで書いてるからなあ。まあ、いいか。