明治大学特別講義(2008年度・第4回)[佐藤亜紀・特別招聘教授]

次月はD&D Campaign のセッションを優先させるため、おいらにとっては実質的に今年最後の講義になる。
詳細は後で記載予定。


<追記 2008/12/01〜>
[前回の訂正]
たしかフランスの教育の話で「我らが先祖ガリア人は…」と子供に暗唱させるという話は、さすがに現代では認識が改まっているとのこと。
高遠先生経由でフランスの方に確認されたとのこと。


[前置]
いつものように、他の方がテープ起こししたレポートを参照する前に、自分のノートを元に一体自分が講義において何を聞いていたのか何を考えていたのかを確認する作業から入る。
講義で佐藤亜紀さんの意図した内容をおいらが外していたとしても、それはそれでおいらが至らないだけである。他の方のレポートなり何なりで適宜修正すればよいと割り切る。


●総括すると
いきなりだが、この二年間に渡る講義の総括的な内容であった。
様々な方向からアプローチしていたテーマは、世界の絶対的な怪異性についてを浮上させるためのものであった(としては言い過ぎか。
それは人間が日々過ごしている当たり前の世界が揺るがされる事実なり問題であり、そういった事態に直面した人々はフィクションによる癒しによって何とか消化・昇華するしかない類のものだった。
確かに物語には受け入れがたいものを受け入れさせる“癒し”の力があるのであろう。しかしながら、それで事態が何も変わらないこともまた確か。
一体、このままでいいのだろうか?(たとえば小説はそういった役割だと割り切ってしまっていいものだろうか?) というのが講義全体を通して聴講生に突きつけられた課題であったように思える。
この日、「鈴木先生」(武富健治)の最新刊を電車内で読んでいたおいらは、こうした問題をクラス討議する場面を連想したが、それは本筋とは関係ない。
最後には、こうした視点から「歴史」を考えてみる>そしていつものロマの話へと収束していく。


●細部の話
佐藤亜紀さんの高校時代の話
小学校では筒井康隆にはまっていたりして、中学時代には以下のような書籍にも手を出していたらしい。一言で括るなら文学少女というイメージである。
クロソウスキー/Pierre Klossowskiの「我が隣人サド/Sade Mon Prochain」
http://www.sademania.com/today6.html
当時おばさんの家に下宿していて、月々の生活費を自分で管理していた。
当然ながら誰もが若いときには一度はやる「垂涎のアイテム」(このときは函装の澁澤龍彦全集)に生活費をつぎ込むというAccidentが勃発したのだという。
財布の中は10円玉が一枚。
おばさんの家で電話を借りて実家にお金の無心をするなど、後で説教されるのは目に見えている。そこで10円玉を学校の公衆電話に投入して実家に連絡をつけることになった。
家人が受話器を取り上げてこれから自分の苦境を訴えようとしたまさにそのとき、何の脈絡もなく背後から手が伸びてきて電話が切られたのだ。
振り向くと、それまで話したこともない隣のクラスの長身(175cmくらい?)の女生徒が立っていて「…なんちゃって」と呟いたという。最悪のタイミングでの悪戯、まさに青天の霹靂。
このときの佐藤亜紀さんの心情たるや「あり得ない」という心持であったろう。世界の絶対的な怪異性を突きつけられた瞬間だ。
制御されて当たり前に動いていた世界が唐突に関係性を断ち切ったがごとく人を突き放す場面がある。
カフカ的といってもいいこの感覚は、欧州というか練れた文明に住まう人にとっては自明なものだと佐藤亜紀さんは思っていた。
(なお、結局下宿の電話を使って実家と連絡を取り、金欠状態を解消したとのこと。事の顛末が知れ、大正生まれのおばさんに怒られるも、書籍代に費やしたと話したら幾分は理解を得られたらしい。)
・横道
たとえば夏目漱石。留学生としてやってはいけないことをすべてやっている。異なる環境で自らの精神を追い詰めていったようなもの。1)正規ルートを通らずに留学している(異なる環境に馴染む余裕をもたない)。2)下宿先で問題が起きると、田舎へ田舎へと移っていく。この2点だけでも最悪な選択だ。
たとえばパリ留学時代の話。図書館での閲覧順番待ちにおける暗黙の了解(掟)について。観察するに、アメリカの学生は暗黙の了解が少なく社交的であるのが当たり前の世界に属している。ゆえにフランスのラウンジがないような下宿で孤独に勉強する環境に耐えられない場面も出てくる。閲覧のために並んでいて、ちょっとしたことで列を離れると最後尾に回されることを理不尽と感じるかどうか。「トイレに行く」という理由で5分離れるならば順番は確保されたままだが、15分離れると最後尾行きだというローカルルールをどう受け止めるか。こうした積み重ねに、中には適応に失敗して精神を病んだりする例というのは少なからずある。あまりに理不尽だという苦情が寄せられたからか、いつからか仏語英語で暗黙の了解が明文化されて掲示されたのだそうだ。
他には筒井康隆「それだけは言ってはいけない」とか。つまずいたときの感覚。制御も把握もできない。途方にくれる。茫然自失。
・同時に多人数が「絶対的怪異性」に晒される場合あり
これが911であった。笑うしかない。あまりにバカバカしいからというのが半分。残りの半分は?
心のブレーカーが落ちたがゆえ。心理的な防衛メカニズム。
よく非現実的な>ハリウッド映画的な…と表現されるが、前フリがないから本来的な意味では使われていない。荒唐無稽なという意味でとっても、あまりにも酷いことが現実として迫ってきただけなので、用法としてはおかしい?
ビルの火災を逃れるために自ら飛び降りた人たちを撮影した「Falling Man」について。
当局の見解では「飛び降りた人などいない」というもの。まさに「中の人などいない!」並みにスバラシイ回答だ。
会ってくれるという遺族に撮影した映像を見せたところ、遺族曰く「覚悟の死だったのでしょう」と語る。物語による合理化だ。
あまりに強烈な現実は、我々が共通して持っている世界観を根底から揺るがすゆえ、公的にはなかったことになったり、個人レベルでは理由や物語あるものとして受け入れられることに。
ただ強烈な現実をつきつけられた瞬間の人間は、個性を剥奪された表情のない顔となり、世界の卓袱台返しになす術もない。
人間が世界に陵辱されたとでもいうべき理不尽な事態、人は「否定する」か「目を背ける」ことでしか己を守れない。
名前をつけ意味を与え、人間世界を築いてきたことの否定。文脈が剥奪されているので、虚構による精神安定をはかるのもやむを得ない。
ある意味宗教である。災厄に対して荒ぶる神を鎮めようと儀式を行うがごとく。
・原爆の話
原爆の写真は子供の頃のトラウマに容易になり得る。「はだしのゲン」は「デビルマン」とともに子供心に酷いイメージを植えつけたよな。
佐藤亜紀さんによれば、原爆の効果を確認するためにアメリカが原爆投下数日後に何度か航空写真を撮っているという。
これを見ると、横倒しになった市電が数日後には脇に寄せられ、さらには撤去されていることが分かる。ここまで酷い状況であっても、現場にいる人が人間らしい営みの中で街を復旧しようとしている様に救いを見出したとか。
おいらはもうちょっと暗い連想をしていて、当時の人々は放射能のことを知らなかったから、原爆投下直後に現地に赴き被爆しつつも救助だとか生活再建に従事したのではないかと思うのである。
で、よく「国民国家が戦争する場合、非戦闘員は存在しない」という話があるが、これは論理としては実に正しい。だけど、当事者としては到底納得できるものではない。
原爆を投下されるという未曾有の体験をした日本は、個人は生きていくために物語を必要とし、占領下の日本政府も公然とアメリカを非難することもできずに政治的な対応を必要とした。
そういった諸々の事情の結果、「あやまちは二度と繰り返しませんから」という言葉になって落ち着く。
歴史が視点の違いによって如何様にも変わり得るのは御存知の通り。
ただ歴史の事実というのは、トラウマ的な状況の積み重ね、世界の怪異性を突きつけられる連続と考えると、直視しては生きていけない狂って当然の出来事の履歴だということにならないか?
・歴史の話
復習。
>歴史…なされたことの総体。事実の集積。
>「歴史」…過去の事実に何らかの意味づけをしたもの。ある文脈に当てはめたり、そのために切り出してきたり、再配置されたもの。
よく「歴史とは物語である」との言葉が流通しているが、佐藤亜紀さん的にはNG Wordである。
ものを知らなさすぎというか、単純化しすぎなのである。短絡極まりない。
少なくとも歴史というからには事実関係を争えるもので、歴史学的手順(一次資料による裏づけなど?)で自らの見解を実証し得るはずだ。
よく文献・記録も主観によって書かれている(たとえば歴史を記録するほどのインテリが、文字も書けない人々の気持ちなど分かるのかといった指摘)ので、証跡になり得ないという指摘があるが、そんな阿呆なことがあるものか。
フェミニストやポストコロニアリズム(この辺よく分からん)などを掲げている人の文章も、事実関係をおさえないで論を展開するからヨタとしては面白いという結論にしかならない。
・ちょっと横道
先の指摘に対する引用として、ルロアラデュリをもってくる。
非常に面白いので一読するよう薦められたけど、日本語版って出てるのだろうか?
それはともかく、内容は1300年代前半の南仏のピレネー山奥のとある村に異端の嫌疑がかかり、村人全員がしょっ引かれて審問されたときの記録である。
つまり彼らの告白は、当時の人々がどのように暮らしていたかの記録にもなっているのだ。そして村の建物は防犯・防諜性に問題があり、脚立や踏み台を持って目的の家の軒下に陣取り、庇を頭で押し上げると家の中が丸見えという構造だったのだ。
ゆえに村人は誰がどのような暮らしているのか知っており、つまり誰がどの女と寝たとか、恋人が異端カタリ派の要人と会っていたなどということが筒抜けになっているということに。
村はとある兄弟が牛耳っており、兄は代官、弟は司祭で、トゥールーズには渡りをつけていたが、政治的な流れでパミエの司教座から異端審問がやってきたのだとか。
このような記録を丹念に読むと、記録した人間云々の理由で実証性を失っているとは到底思えない。いやそれとは別に、無茶苦茶面白そうではあるのだが。



※ルロアラデュリ
http://mb-soft.com/believe/tjxt/religion.htm
http://mb-soft.com/believe/tjhm/inquisit.htm

※Montaillou was one of the last bastions of the Albigensian heresy and as the local bishop, Fournier launched an extensive inquisition.
http://en.wikipedia.org/wiki/Montaillou
※In 1317 he was made bishop of Pamiers.
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Benedict_XII


・歴史の話に戻る
全部まとめて括弧付きの話ではあるが。
聖書が当時家一軒分の値段がしたとか。歴史教科書をつくる会とかの教科書にあった「ミケランジェロより凄い運慶・快慶」という表現にどれだけ西欧劣等感が強いんだと思ったりとか。
ともかく「歴史」がトラウマの記録だとするなら、必然的に「落としどころ」というものが必要。
怪異を鎮める、祭るといった色合いが濃くなる。
しかしながら、あまりにトラウマが過ぎると民族や国家ぐるみで記憶喪失(なかったことにしよう!)という方向に動くらしい。
その代表的なものが英国ということになる。
宗教的な歴史(カトリックvsプロテスタント)を抱えていながら、信じられないような対応をとることがある。
佐藤亜紀さん的には「The Lord of the Rings」はやはりNG作品ということになる。ともかく異なる種族が共存するような状況というのがまずあり得ない。
あんたらの国はReligionの相違だけであんなに血みどろになったじゃないか。忘れたのかい? というわけ。
またルワンダ虐殺を引き合いに出し、Humanの本質たる線引きされたときの恐ろしいまでの認識の変容について語る。
あれはベルギー人だかがルワンダにやってきたときに、人々を背の高いものと低いものに分けたとこから始まる。背の高いものは狩猟民族で優秀、低いものは農耕民族で劣等、とそれまでルワンダの人々としてあったところに一本の線を引いた。すると互いの集団に対する敵意が芽生えたのだという。
異なるRaceを自覚した集団は相争い、殺し合うところまで行くのだ。民族自決なぞ夢幻に過ぎない。
たびたび出てくるアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)地方は、独仏国境でWikipediaアルザス)からの引用が(たぶん)適当だ。


1648年 - 三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国(ドイツ)からフランスに割譲される。
1870年 - 普仏戦争において、フランス敗北により隣接するロレーヌと併せてドイツに返還される。
1919年 - ヴェルサイユ条約によりフランスが占領する。
1940年 - 第二次世界大戦のフランス降伏により再びドイツに返還される。
1945年 - ドイツの降伏によりフランスに再度占領。以後フランス領土として現在に至る。
こうした複雑な境界にあって、住民の支配層はドイツ寄りだったりフランス寄りだったり、不和の構造を抱え込んでるに過ぎないとも言える。
・最後に
メッテルニヒの回想録にネイ元帥がたびたび登場するのは、どうやらドイツ語に達者だったからのようで、それはもともと宿屋の息子でいくつかの言語を使い分ける文化的な層にも所属していたからではないか。
そうした文化的な所属は個人の運命を特徴付け、影響を与える。
一方で文化そのものが政治的な問題に巻き込まれてしまう場合もあり、イデッシュ語の研究がウクライナでは盛んであったが、ソ連が崩壊してウクライナが独自の文化を確立しようとする動きの中ではイディッシュ語は重荷でしかないのであった。
※イデッシュ語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
そもそもウクライナ出身のロシア文学者というのは多数おり、それを今更ウクライナ文学者とすべきなのであろうか。
まとめ。
「歴史」とは受け入れがたい運命を自覚的に(確信犯的に)「こうだ」とする人の訴えてくるものであろう。そこから弾かれた人がいったいどうなってしまったのかは、無論語られることはない。
たとえば二次大戦の強制収容所から無事帰還した人々がある日突然命を絶つという事件が問題になったことがあった。
彼らを調べてみるに、信じられないほどPositiveな人々だったということが明らかになった。Negativeな人間は収容所時代にたいがい死んでるか精神を病んでいる、ということなのだろう。
しかも彼らは収容所体験を「自らが試される貴重な体験だった」とまで言っているのだ。これもまた合理化なのか。
結局のところ「歴史」はある意味物語なのであろう。ナチドイツに迫害されたユダヤ人はそのように「歴史」を語る。
だがロマは語らない。
ただ「運が悪かったから」と返すのみである。そこに物語はない。これが彼らの怪異性への対応となる。
●講義後
今年最後ということで、最後までいる。
お茶>食事>スタバという流れ。


語り得ぬことには沈黙せねばならない…。