考える、感じる、のアウトソーシング

たぶんだけど、佐藤亜紀さんの文芸評論家への苛立ちという現象の対象軸にあるのが、岡田斗司夫氏の現状分析であるような気がする。
集合知による個人の思考や感覚のアウトソーシングといった流れがまるでニュータイプだと表現してたけど、それって結局サイクランなんじゃなかろうか。
デュマレストであるには大変な世の中ってことなのかしらん。