明治大学特別講義(2009年度・第2回)[佐藤亜紀・特別招聘教授]

2009年度1回目の講義は出席せず(サボリとも言う)。
久々に明治大学まで出かけて、佐藤亜紀さんの講義を聴講する。
開始前にitoさん、終了後の食事会で佐藤哲也さんの話を聞き、さらには二次会に行かずに帰ろうとしたらThorn氏に誘われてS氏とともに神田古書店街散策という流れ。
@ワンダーでロジャー・ゼラズニイ"Changering"とかアンドレノートン"Witch World"シリーズがあって手が出そうになったが、昨今出費かさみすぎなので自重する。
そういや以前、月刊ペン社の妖精文庫を同じ神田古書店街で買ったのだった。発掘して読まねば(すっかり忘れていた。


さて講義の内容であるが。
簡単に言えば常人の枠内に留まらない表現の危険さについて、とでも言えばよいか。
キチガイになったからこうした表現が可能になった…という見方はできるが、キチガイになったからといって必ずしも先鋭的な表現を獲得できるとは限らない。それでもキチガイの極みである戦争なんぞをまともにその身に受けた人間が、何を如何様に表現せざるを得なくなるのかは、そうした作品群を眺めれば明らかではないか。指示代名詞が多いな。


★前段:ゴヤの話をする前に
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2009/01/post-7160.htmlWikipediaも参照のこと)
2009年1月に、プラド美術館マドリッド)は「巨人」がゴヤの作品でないことを発表。
軽くこの話題から講義は始まる。
前回(おいらは参加してない)、世界をどう認識しているかの違いが表現の違いということになり、作家にとってそう見えているからこそ作品のように描けるという話をしたらしい。
作家の見方が時代とズレれば当然ながら有効性は失う/作品は過去のものになっていく(普遍性とは?)…というところまで踏み込んでくれると俺的には面白い(そこらへんを視野に入れているようではあったが)。
ともかくゴヤの表現の変遷に着目して、ここらへんを語っていく。その前に様々な画家を引き合いに出して、前段を語る(前段だけで45分/持ち時間の半分かかった)。


<17Cの対比>
●ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)サビニの女の略奪(1633-34)(ルーヴル美術館)((ローマ人は男どものマッチョ王国であったので、子作りのためにサビニ若い女性を強奪して孕ませることに。1年後に女性を奪還しにきたサビニの人々であったが、すでにやられちゃったサビニの女子は、既にしてすべては遅きに失したと争いを止めに入る…という経緯らしい。))
ルーベンス(Pieter Paul Rubens, 1577 - 1640) マリー・ド・メディシスの生涯(1622-25)(ルーヴル美術館

<18Cの対比>
●=> アングル(Jean Auguste Dominique Ingres, 1780 - 1867)トルコ風呂(1862)(ルーヴル美術館
■=> ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)サルダナパールの死(1827年ルーヴル美術館

ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748 - 1825)ホラティウス兄弟の誓い(ルーヴル美術館

<19C>
ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826 - 1898) => マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)

いわゆる古典主義と浪漫主義は対立していたのか。
17C当時のアカデミーでは、絵の題材を重要視していただけで、古典主義と浪漫主義の描き方の相違は許容していたのではないか。
歴史・神話を題材とした絵画であれば、描き方は問わないという方針であったのではないか。
●古典主義:輪郭線くっきり、色彩豊か、空気は透明感
■浪漫主義:輪郭は色彩の濃淡でぼかされ、原色よりも光線の加減などで浮かび上がる場面としての色彩に統一され、空気はConcealmentが発生したかのようにくすんで見える
ここでいう古典とは、当時の人々が考えていたルネサンスラファエロなどのイタリア絵画を指す。
ニコラ・プッサンサビニの女の略奪、画面下の老婆はミケランジェロ最後の審判」からの影響が見える。


マンガノゲンバで画家・山口晃池上遼一の絵、それもロングショットについて話していたが、それはどのような距離からでも登場人物の顔かたちの凹凸だけでも誰かが判断できるその画力であったのだが。
同様に(?)フランドル派の特徴として、巨大のキャンバスに荒く色を塗りつけることで、部分では雑な塗り方にしか見えないものを遠目には一幅の絵画として成立させる技術を持っていたことが指摘される。
とりあえず古典主義も浪漫主義も互いに影響を与えつつ並存したと考える。
それはそれとして。
まずドラクロワの視点を考える。
絵は画面上のオッサン(アッシリア王・サルダナバール)が反乱者に追い詰められて妾どもを殺させている場面だという。ドラクロワはこういった場面が考えられる限り酷い場面として題材としたのではないか。そういった意味では健全か。ドラクロワは保守的な人間だったらしい。「保守的な人間はヤバい。保守的であるにはそれ相応の理由がある」画家の視点はアッシリア王にあってまだ分かりやすい。
アングルはまた別格。
82歳になって描いた「トルコ風呂」は世界女体コレクションというもの。引用元となる名作から裸婦をかき集めて、丸い覗き穴から見ているという絵を描いた。業の深さが知れよう。


佐藤亜紀さんは18Cの絵画研究の道に進もうとしたときに、大学院の教授だかに止められたのだそうだ。「女の子には無理」だから。
つまり、アングルのこの絵なぞもそうだが、西洋の18C貴顕淑女…いや貴顕どもは、西洋式春画やその手の彫像などの個人コレクター(流通するわけがない!)でもあったのだ。
邸宅の一室にカーテン下げてスケベな絵を設置しておき、淑女の皆さんを集めたPartyの余興などでこういった作品を見せて反応を楽しむという習慣があったとか。
老齢の婦人なぞは勃起男根付き彫像なんぞを見せられて流石に「眼福でした」*1などと返したとか。
こうした門外不出なエロ絵画を研究のために見せてくれと、日本からうら若き女性がやってくるなどというシチュエーションに、教授としても責任が負えないというか何というか微妙なものがあったのだろう。


それはともかく。
アングルは以前取り上げているが、この人の危うさは“己が美しいと思っているものなら、どれだけ歪めても構わない”と思っていることだ。表現の根本はそこにある。
アングルの弟子は「俺の方が師匠よりもうまく描ける」と、その危うさを受け継がなかったがゆえに平凡だった…とも言える。
アングルの考え方を敷衍するなら、それは20Cの抽象絵画に行き着く。そしてアングルの考え方を端的に示すのは…実は松本零士(の描く女性)なんじゃないかっておいらは思う。*2
一方、絵画に政治的な意味合いを付与したということで、ダヴィッドも登場する。
彼の「ホラティウス兄弟の誓い」はアカデミー出品作品として前評判が高く、その状況から搬入を一日遅らせている。鑑賞者はこれを“なにやら検閲を受けて搬入が遅れたらしい”と捉えて、評価にバイアスがかかったというのだ。
あとはギュスターヴ・モローの話とか。彼はガチガチに保守的で、アカデミーでも学生に「戸外で自由に絵画を描かせてくれ」という要望を鼻で笑って却下したらしい。自分では“色彩の解放”としか言い様がない、フォルムのない習作を何枚も描いていたようだ。だが、そうした自分の絵も学生の毒になるといって、自宅に学生がやってくるようなときにはすべて目に付かないところに退避しておいたとか。
結局のところ、原色(固有色)>補色を使う>>>どんな色を塗ってもよい:フォービズム(野獣派)「まるで野獣のようだ」と保守派は却下 という流れ。
ドラクロワはまだ理解の内、だけどアングルは境界線を越えていたのではないか。
つまり“世界に対する信頼感のなさ”(これは多分現在の我々の気分と一緒ではあるだろう)があるゆえ、踏み越えることに抵抗がないのだ。
まさにおいらがGhaeleに誘われればそのままどこまで行ってしまっても構わないと思っているがごとく!(嘘?


★後段:ゴヤの話

ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes, 1746 - 1828)
 反乱、1808年5月2日
 マドリード、1808年5月3日 
 【黒い絵】我が子を食らうサトゥルヌス (1820 - 1823)
佐藤亜紀さんがプラド美術館の「黒い絵」の展示が地下にあって、ゴヤの絵の展示の流れがあざとすぎるのであまり好きではないという話をされていた。が、確かにこいつは原爆並みに強烈なものがある。
我が子を食らうサトゥルヌスの股間には勃起した男根があって、後から塗り込められていたというに、その強迫観念というか表現への衝動はまさに狂気であったのかもしれず。
要するに何でこうなっちゃうの? という素朴な疑問なのだ。
カルロス4世の家族とか見ると普通に思えるが、スペイン王室もいい加減阿呆で、ナポレオンによる介入後、息子二人を賓客待遇でタレイランが引き取ったのだそうだが。どちらも文盲で教育・教養・躾すべて放っておかれたらしく、ビー玉遊びし出すとかあって、笑えばいいのか絶望すればいいのか。いやはや。
で、ゴヤの絵であるが。
ナポレオン・スペイン戦役時、1808年5月2日に反乱を起こしたときの絵と1808年5月3日それが失敗したときの絵を見比べる。
前者はまだルーベンス風でモニュメント的な、つまりトラウマをリハビリする意味合いが込められている。しかし後者は反モニュメント的で無名の兵士が無名の人を殺しているものでしかない。
描き方は粗雑といっていいほどシンプルで、よく見ると人々の頭身が縮んでいる(5頭身くらい?)のが分かる。佐藤亜紀さん曰く「ドラえもん」だとか。そしてインパクトは強く、明らかにリハビリ前の生々しさを描いてしまっている。
ナポレオンのスペイン戦役:スペイン側はスペイン戦争は、ゲリラ戦の嚆矢であろう。
色仕掛けでおびき寄せられた兵士が惨殺されるなどということが起きると、次に何が来るかはもう必然なのだ。
虐殺・略奪・強姦・精神崩壊(略奪した物資を抱えて行軍中に、急に落伍したかと思うと「疲れた」といって自殺してしまう兵士も出る)、これらを誘発する条件というのは歴史的に明らかだ。
●補給の悪い軍隊
●???(聞き取れなかった。どなたか捕捉プリーズ!)[追記]ゲリラ・パルチザンが跳梁跋扈する状態
そして軍隊は現地調達が原則ゆえ、部隊が現地に駐屯するだけで敵には大ダメージを与えるものなのである。
食料が不足、税収は上がらず。そして軍隊の士気が下がれば治安悪化どころではない騒ぎに。


版画集『戦争の惨禍』(1810)を参照しつつ。
どんどんゴヤの描くものが悲惨で訳の分からぬ強烈なものになっていく。果てには、木に引っかかった人間のバラバラ死体だとか、犬の死体の口から人間がはき出されていく理解不能な絵にもなっていく。
佐藤亜紀さん曰く「世界を牛乳を沸かしている状態で、油膜一枚上に世界すべての表現が乗っかっているのだとしたならば、ゴヤは世界の裏側(すなわちグラグラに煮立った牛乳の側)に堕ちてしまっている」と。
戦争の悲惨は、実にたやすく人間を世界から転げ落ちさせる。


最後にオットー・ディクス(Otto Dix, 1891-1965)を引用。
1914年の一時大戦に従軍後、美術学校に入ってヤバい絵を描くようになる。印象としては水木しげるか?
版画で木に死体が引っかかっている場面だとか。たしか写真で似たようなものがあって、そのタイトルは「戦場のバレー」だったとか。
こうした表現をせざるを得ない人間の作品は…
・解釈を拒む(表現せざるを得ないのは分かるが、凄いけど糞の役にも立たない)
・リハビリにならない。(ThornさんはWFRG的に「癒されるぅ〜」と言っていたが)
カリカチュアとして描かざるを得ない(恐怖)
そして人間がこの状態(塹壕)から還ってくる困難さは想像にあまりある。
また、ここまで描いてもなお届かないのが現実でもある。これは悲惨を通り越して喜劇でしかないよなあ。
あとナチに退廃芸術と迫害されたはずだが、戦中どうやって生き残ったのかは不明。


これら戦争をTriggerとして発現した表現となる。
ゆえに「どこまで狂う気がありますか?」という問いも発せられるというもの。そしてとことん狂気を得たからといって、作品が永続性なり創造性なり得られる保証はどこにもない。
では、薄皮一枚の背後にグツグツと煮えたぎったものが垣間見える、そういった立ち位置から離れた表現とは? といったあたりで時間が来たのでお開き。
残り3回でどう落着させるのか、佐藤亜紀さん本人も首を傾げていた。


●メモ
佐藤哲也さんはシャーロット・ランプリング好き。「フォックストロット(1975)」がお薦めらしい。

*1:講義でどう言っていたか度忘れした。講義録を参照されたし。

*2:メモには「何かを模写する形態からの解放」と書いてあるのだけど、どういった文脈か忘れてしまったので、松本零士への繋がりでお茶を濁す