新宿ロフトプラスワン:岡田斗司夫のひとり夜話 第二回

とりあえずガンダム話が聞けたので個人的に満足。
にしても第三回、第四回は平日か。参加できるのか?


話は“我ら理屈民族”の集会といったあたりから入る。
事の善悪より何でそうなっているのか、物事のメカニズムに納得することを重要視する…それが理屈民族らしい。
理念はどちらかといえば希薄なので、一見してAlignmentがUnalignedとかNeutralに見られやすいかも。
どうでもいいが構造把握は己の心の平安を保つ有効な考え方じゃなかろうかと思うが。そんなこんな。

●フカダくんの話
岡田斗司夫、中学時代の話。
愛すべきアホのフカダくんは、法螺吹きであった。
岡田氏とその悪友とで、フカダくんの「また始まったよ…」という法螺を聞くのが当時の楽しみであった。
どうやら彼はいったん言葉にしてしまうと引けない性格のようで、どんどん風呂敷が大きくなっていくのであった。
たとえば「今度バイク競技に出ることなったんだ」と免許もないのに彼が話し出したとき、「どんな競技に出るんや?」という質問してみるに「ジャンプ競技だ」と答えてくる。賢明なる岡田斗司夫は昨日の晩視聴したスティーヴ・マックィーン大脱走」の影響だと看破するも、そこで「嘘や」などと無粋なツッコミはしないのであった。これが一体何CCのバイクに乗るのかという話に発展、あまり知識がないので「750CCか?(当時少年チャンピオンでは「ナナハンライダー」が連載していた)」と聞かれるに「そんなチャチなものやあらへん。5000CCや!」と無茶な発言に及ぶ。
エンジンの大きさ的に「どうやって乗るのか?」というツッコミには「エンジンに足を通す空間が空いてるのや」と返し、「そんなバイク誰が乗るねん!」という指摘には「スティーヴ・マックィーンや!」と返す始末。
とまあ、こうした少年であったらしい。
この法螺吹き少年はイジメの対象というかパシリ的な扱いを、不良的な方々から受けていたらしい。
ある日、フカダくんが岡田少年のグループと一緒にいるとき、「自分のバックには住吉会暴力団の予備軍・梅田会がついてる」とまたトンでもないことを言い出した。梅田会は暴力団下部組織として高校生中心で構成されてるガチな不良集団だと、もっともらしく風説に流布していたようだ。本当のところは分からない。さらに話を聞くに、フカダくんをイジメたりするヤツは目を付けられ、その梅田会に所属する四条畷高校の裏番の指示で消されてしまうらしい。井筒和幸「ガキ帝国」を視聴した影響か(もちっと時代が下るとBE-BOP-HIGHSCHOOLになるのだろうが)。
一時不仲に陥った岡田斗司夫も処刑宣告をされたことがあり、その死に様を聞いたところ「コンボイに轢かれて死ぬ」などと「どんな死に様だよ!」とツッコむことも忘れるくらいの、映画「コンボイ」を見てそのまま持ってきたこと丸わかりのリアクションだったという。いや素晴らしい。
このフカダくん。中学時代に伝説を残しており、それは仲間内で映画を撮って秋の文化祭で上映したときのことだ。
中学3年となったため、本当は夏前には撮影を終えるはずの作品であった。
ちなみに内容はカンフー映画で御多分に漏れず「燃えよドラゴン」に影響された7分ほどのものだったらしい(岡田氏は姉から借りた衣装で女装して村娘役。
フカダくんが主人公で破落戸の攻撃耐えに耐えて、ついに怒りを爆発させて師匠に禁じられたカンフー技で悪党を倒す場面。
実はヌンチャクを振り回すあたりがどうしてもうまくいかず、それというのもヌンチャクをちゃんと扱えるわけではないため、ちょっとずつ撮影してこれを繋いで一連の流れにするしかなかったからだ。
駄菓子屋で売っていた一番高価な本格的ヌンチャクを使っていたので、扱いをミスっただけで自らの背中や脇に打撃を加えることになり、そのたびにヌンチャク振り回し場面は中断を余儀なくされたのだ。シナリオには1分はヌンチャクを振り回すとあるのに、2秒で終わっては意味がない。
そこで夏から秋にかけてフカダくんは本当にちょっとずつちょっとずつ、ヌンチャクを振り回す映像をとりためては繋いでいったのだ。
その結果、文化祭で行われた上映会では、全校生徒が異様な興奮で何度も繰り返して鑑賞するという異常事態となったのである。
なんとなれば、彼のヌンチャク場面で展開されたその背景が衝撃的だったから。
四階建てのマンションはみるみる完成し、季節は移り変わり、木々は様変わりしていく…といった映像だったらしい。
シュールであることこの上ない。
しかも今と違って、パソコンもない、映像機器も8mmとかの世界である。その背景映像のインパクトは現代の簡易に編集映像を眺められる人々の比でなかったのは確かだ。
50歳をこえて35年振りくらいで同窓会に行った岡田斗司夫の言によれば、この偉業を皆覚えていたそうだ。ただしフカダくんの雄姿ではなく、背景の、たった1分ほどで季節が移り変わる様子が克明に記憶に残っていたのである。
中学時代、それはTorgの偉業達成が本当に実現可能な貴重な期間なのだということを、爆笑とともに再認識したのだった。


勝間和代×香山リカ
雑誌AERAが企画した対談ネタ。構造は以下。
勝間和代…いわゆるネオリベ? 勝ち組の論理と言われるが、選択の幅が豊かさ(by 樹教授"もやしもん")であり、それは経済的社会的な背景に支えられている。個人は自己投資を続けることで、誰もが“相対的に”豊かに強くなれる。過去の自分よりは…という意味合い。
香山リカ…勝間流の考え方、励ましが弱い立場の人間にストレスを与えている。弱いままで生きなければならない人の方が多いのだから、弱者に配慮した社会・環境であるべき。


こうした位置づけをしたとき、香山リカは弱者側に立ったときのデメリットを言わないので、いまいち信用できない。
岡田斗司夫に言わせれば「立場(精神科医?)と情緒で話を進めている」とのこと。正常な競争が行われない点についての言及がないのでは。


ここで自分の生き方から世に一言いいたくなる現象について。
つまり“自分にとって普遍的なことを、みんな(社会)に適用したくなる”傾向について話していく。
アインシュタインの統一場理論ではないが、世を生き抜くとか世の仕組みは結局こういう考え方で見ていくとよいだとか、自分なりのまとめを発表したくなるものだ。
根本は酒場で「俺に言わせりゃなあ…」と言っているのと変わりはないのだが。
勝間&香山も同じ括りで考えるに、香山:個人から社会に対するベクトルだし、勝間:社会から個人に対するベクトルというだけで、どっちが正しいとか良いとかいう問題でもない。
地球温暖化が悪いという前提は、その対策に奔走するのは実は助成金が出るという、つまり助成金を出す側の論理で動いているに過ぎなかったりするわけで、地球温暖化が何をもたらすのかメリット・デメリットを予測する方向では情報配信されない点に注意である。


話が横道にそれた。
で、一人夜話は「岡田斗司夫に言わせりゃ」という場なのであった。
それゆえ"The World According to Toshio Okada"というジョン・アーヴィングガープの世界」からもってきたタイトルが付いているのである。ここでようやく「一人夜話、はじめます」との開会宣言になるのであるが…長い前置きであった。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_World_According_to_Garp


<休憩, Q&A>
ウルトラQのカラー化:いろんな意味で期待している。要はいい感じで色彩がのっかればいいのだが、あまりにくっきり見え過ぎてしまって科特隊基地が明らかに掃除機のホースでつくられていると分かってしまうなんてーこともあったりして、似たような状況になると興醒めなので匙加減が重要。
ガンダムについて:後で述べるので省略。
・捉え方:20世紀的な考え方だが、単純化した岡田斗司夫の世界では「ライバル・仲間・客」という関係性で括られる。
・ライバル:今はみうらじゅん。彼は母集団の大きいネタを相手にしているがゆえに、岡田斗司夫が健闘しても勝てないであろうあたり、ちょうどよい。理屈民族を世間に浸透させても精々60万人。日本を1億2000万人口としたときの0.5%。基準としては人口の10%1200万で計算してたかしら。
エヴァ破:自分が見る必要はなかった。ガンダムと同じで本当に面白い(と思ってる)なら老舗タイトルはつけないだろう。風呂敷畳むより広げた方がよいのでは(とメモにある。とりあえずTV版で完結しているのを別のものとして提示されても、ぬるいわーとしか言えない。=> 宇宙戦艦ヤマトからこっち、アニメ業界はそんなのばかり。まあ正論ではあるか。“実は生きていた”が面白いのは「超人ロック」くらいだし? 後で話すガンダム話を聞くに付け、最初に組み上げられた物語こそが最も魅力的であろうと思ってしまう。
勝間和代のBlogや何やらを見てインスパイアされる。今は師匠?と呼んでいる。徹底的に他人の長所を真似ることで自分を伸ばすことができる。またどうしても譲れないものが見えるので、それが自分の個性だと気づくことができる。


●10万円分のロケット花火
以前の話、愛国戦隊大日本でオリジナルの黒色火薬から特撮の爆発を自作していたあたりのネタの繰り返しかと思いきや。さにあらず。
硝酸カリウム、硫黄、黒炭を混合した黒色火薬を空き缶にたっぷり詰め込む。
点火プラグとして豆電球のガラスを切り取り、これまた黒色火薬を詰め込んでガムテープでぐるぐる巻きにしたものも埋め込む。定格1.5Vのところ12Vをかけることで起爆するのだ。
この空き缶を何度も踏むことで圧縮、爆薬とするのであった。
穴を掘って爆薬を埋め、上に色チョークを細かく砕いたものをかけておくと、爆発したときに爆煙に色がつくという技も習得した。
さらには庵野監督版「帰ってきたウルトラマン」の最後に画面レイアウトの関係で火球爆発が必要となり、様々な研究の結果ガソリンをビニール袋に入れて空気とシャッフルしたものを、埋める爆薬の上にのっけておくという荒技まで見出したとか。人間なんでも習熟すれば練度がむやみやたらと上昇していくというものである。
黒色火薬ブレンドにかけては近畿大学出身のクリマンが職人となった。くわえ煙草で調合するのは勘弁してほしかったが。
また爆薬の圧縮は阪大(大阪大学?)の神谷の右に出るものはいなかった。なにせ言われたら言われただけ、嫌とも言わずに火薬でいっぱいにふくらんだ空き缶を足で丹念に踏み続けてくれるのだから。
経験上、その圧縮は足踏み20-25回が適当だと思われた。ところがあるとき回数指示のないまま圧縮し続け、「40回までは数えてた」という恐ろしい場面もあったという。
無論、いつかは圧力に耐えかねて火薬は爆発し、至近距離にいる神谷くんが大怪我どころか生死の問題となるのは想像に難くない。そういった話なのである。
黒色火薬は調合した段階から空気中の酸素と結びついて自然発火するものであり、特撮用爆薬は鮮度が命でもあった。
と、ここまでは前にも話したネタである。


こういった無茶に触発されて、ガイナックス社員旅行で10万円分のロケット花火を飛ばそうという話につながるのである。
そもそもそういう無茶をしたことで色々な人が触発されて危険企画をぶち上げ、「俺もそれに負けてられない」と板野一郎板野サーカス!)なぞはバイクにロケット花火を水平発射する装置を取り付け、それをバイクを運転しながらハンディカメラで発射映像を撮影するなどという真似をしていたのだからたまらない。後発組の勢いに押されて忸怩たる思いを抱えたままではいられない、とか何とか。
そして問屋で仕入れてきたロケット花火は、なんと10000発にも及ぶものであった。
一発ずつ点火していくとするとどれくらい時間がかかるか。
導火線に火をつけて次に移るのを仮に5秒とした場合、50000秒かかる計算になり、つまりのべ14時間に渡ってロケット花火は打ち上げられ続けることになる。
アホか。
そんな夜を徹してロケット花火を打ち上げるのはキチガイの沙汰である。
社員旅行先は伊豆大島の海岸・砂浜で、ロケット花火の発射台の定番たる牛乳瓶だって10000本を集めるのは現実的ではあるまい。
そこで知恵を絞った結果、網網大作戦を誰かが思いつく。
1.8m四方の網を2枚買ってくる。網であるから格子状の隙間があり、その間隔は約3cmでここにロケット花火を差し込めばよいということになる。網の四方をコンクリートブロックなどで固定し、地上数センチに張り巡らす。さらにブロックを積んで間隔をおいて、下の網にかぶせるようにもう1枚の網を張る。これでロケット花火発射台の完成だ。
60*60=3600個の網目にロケット花火を直立して配置できる。
この仕組みが3セットあれば、10000発のロケット花火を狭い場所にセッティングすることができるのだった。
さらに10000発の点火システムについても一考した。
網の下の地面に20cmほど離して等間隔にドラゴン花火を設置し、これに点火することで上方に展開するロケット花火の導火線に間接的に着火しようというのだ。ちなみにドラゴン花火は270発ほど用意したとか。
ここまでの段取りを組むというのは、まるで史上最大の作戦で連合軍部隊を如何にノルマンディへ上陸させるのか物量・輸送の計画を練るに等しい下準備といった有様であった。


かくして社員旅行は決行され、日暮れゆく浜辺で花火のセッティングを完璧にとりおこない、いざ本番ということに。
社員旅行参加者30名が両手に火の付いた花火を持ち、10名ずつの班に分かれてロケット花火発射場に臨む。そしてまずはドラゴン花火に火を付ける作業を開始したのであった。
最初それほどうまくいかず、のろのろと時間ばかりが過ぎていくようであった。が、次第に外周にあるロケット花火が点火して勢いよく炎を噴出しだす。
ここで思わぬ展開に。
上方に花火を放射状に噴き上げるはずのドラゴン花火であったが、すぐ上に網が広がっているので花火が横方向に展開され、あっという間に網の中心方向に炎が広がりすべてのドラゴン花火が点火されることになったのだ。すると網の下方はドラゴン花火の明かりと煙が充満し、さらには目論見どおりロケット花火の導火線に着火、これを発射し出す。
一斉に10000発のロケット花火が飛翔をはじめ、あたりは光と煙に満ち溢れ、発射に伴う風きり音が轟き渡り、大量の飛翔物によって周囲の空気が中心に向けて流れ込み、皆風圧に驚嘆したものだ。あたりは夜になっていたが、なぜか地面が一番明るく、光の柱が天空に向かってのびているという幻想的な現実の刺激的な光景の只中にいることに、参加者全員が宗教的体験のような恍惚感と高揚感に満たされていたのだ…という。この間わずか数分。のべ14時間のはずがわずか数分で10000発を撃ちつくす。蕩尽といった言葉が思い浮かぶほど。参加者全員がトリップするほどのシロモノであった。
岡田斗司夫曰く「ちょっとでも仲の良い男女がこの場にいたら、絶対この後性交してしまうであろう」とのこと。
それは人間の根源的な何かを揺るがす過剰な祝祭であったのかもしれず。いやこうした試みもたまには必要であったりなかったり。


<休憩, Q&A>
・何で皆エヴァについて聞きたがるか…この場に客としてきている人間もたぶんに同業者が多い。Blogなぞやっているのも同様。それぞれの想定顧客が興味を持つようなことを質問にしているのではないか。
・21世紀の関係性はプロとアマの差が融解している現状を鑑み、「客・ライバル・仲間」の関係性では括れない。(敢えて言うなら、ときに客、ときにライバル、ときに仲間ということか)
香山リカ<癒される/生きていけない>, 勝間和代<頑張る/疲れる>それぞれの考え方は機能が違う。現実的にはこのバランスでしかない。
香山リカが御菓子なら、勝間和代カロリーメイト
・雑誌などではすぐに香山リカ×勝間和代という対立構造にしてしまう。(攻め受け構造にしてしまうのも同じか(笑)
・「理屈を守れ」とメモがあるけど、先の地球温暖化の考え方のように前提ありきでは理屈を守っていないと見なしている。


●いよいよガンダム
事の発端は、勝間和代が客層をオタク男性にまで広げてきたことによる。
その新刊のオビには「貴方も人生のモビルスーツを手に入れてください」とある。
これはもともとTargetとしていた自己投資によって積極人生を楽しむという考えを受け入れやすい女性購買層が飽和したため、たぶん編集の方針もあって潜在的にマッチングするであろう次の男性層を狙っての一手だと思われる。編集の方針としてはこれ以上ないくらい正しいものだ。
しかしながら、岡田斗司夫は自分の見方からすれば、我々はモビルスーツを手に入れてはいけないのだと指摘する。
ガンダムを入手して自己実現するのはお門違いと書くと角が立つので、考え方の違いということになろうか。まあ、そういったマクラなのである。


そもそも機動戦士ガンダムとは如何なる話であったのか。
岡田は簡潔にまとめる。


ジオンが攻めてきた。
父がつくったロボット・ガンダムで迎え撃て!
ついにジオンを倒したぞ。万歳。
このプロットが秀逸なのは、それまでのロボットアニメと何ら変わるところはないところにある。マジンガーZゲッターロボも似たようなシンプルさを持っている(というか置換可能でさえある。
シンプルなプロットはTVシリーズを考えた場合、老若男女視聴者がどのような状態にあろうとも興味を惹けるというメリットがある。敷居が実は低いのだ。
この点最近の作品だと「コード・ギアス」なぞは複雑で、駄目のダメダメであろう。まあ横道だ。
それではガンダムが過去の作品と違う点は何か。

ロボット→モビルスーツと呼称
メカ→兵器
熱血系主人公→引きこもり系主人公
軍人中心:いきなり主人公が軍人では世間的な風当たりが強いので、軍人になっていくお話
敵であるジオンが独立を要求して戦争を仕掛けてくる
岡田斗司夫が指摘する機動戦士ガンダムの素晴らしさ、とくにガンダムの名を冠する他の作品との違いは、そのドラマ性にあるのだという。
個人的には無重力空間の描かれ方(ホワイトベース艦内での人の動きを思い起こして欲しい)が秀逸だというのは誰しも納得できるところであろう。
一方で地球圏でのスペースノイドの反応なども実にらしい描かれ方をしている。
そういったマニアックな細部はともかく、描かれている物事に多層な意味づけがなされている点に注目するなら、モビルスーツとしてのガンダムとは如何なるものとして描かれているか。
それはスーパーパワーの象徴であり、それだけでなく超常なる力の祝福と呪いを物語の中で示している。
アムロにとっては能力と人格の問題であり、権力と個人の問題でもある。
兵器が優れているとして認められず、人殺しとしての能力しか求められず、認められたいだけの人柄を備えた大人は敵として殺さざるを得ず、共感して互いに受け入れられる心持の相手さえ手にかける。これほど壮絶な生き方があろうか。とくに恋心を抱く相手は、憧れてたマチルダさん、心を許したハモンさん、分かり合えたララァと、すべてその結末は気が狂わんばかりのものであった。
こうした中でアムロが戦う理由というのは、物語が進むにつれて深く静かに沈んでいく印象だ。
主人公アムロのドラマとして見た場合、(岡田斗司夫の脳内に存在する黒澤明を凌駕する偉大なる)富野監督の意図が明確になるのだ。
ガンダムは一言で言うなら「少年が青年になる物語」なのである。決してオトナになる話ではないのだ。
富野監督の領分とは少年が心に傷を引き受けることで悩める青年になるところまでで、そこから先あるべき大人になる流れは範疇ではないのである。
こうした考え方は1960-1970年代にかけての青春像で、悩める青年なぞない方がよいと標榜している現代日本には疎い人物像だとしている。
単純に富野監督の描くドラマが「少年>青年」の推移だと割り切るなら、ザンボット3、トリトンガンダムという作品はテーマを貫いた作品だと言える。
とくにトリトンなどは、自分が少年ゆえの純粋さで敵だと思っていたポセンイドン族を絶滅させることで、取り返しの付かない事実を抱えて生きていくというところで終わるのである。そして青年から大人への話は決して描かれないのである。それは各自が解決せねばならぬ、そして多くが敗れるであろうゆえ落とし所を覚悟する話になるからであろう。


描かれている内容別に、岡田斗司夫機動戦士ガンダムを3つの流れにまとめる。
最初は1話「ガンダム大地に立つ」から12話「ジオンの脅威」までの序盤で、“アムロガンダム”との関係に焦点が当たっている。
言ってみれば、スーパーメカで自己実現(この表現、なんとかならんか)というあたり。
メカの中に引きこもる少年として登場したアムロは諸々あって、軍人としてイセリナという見も知らぬ女性から恋人の仇として狙われるも返り討ちにするだけでなく、仲間とともに彼女を即席の墓穴に埋葬する場面を淡々とこなすまで深みにはまる。
粗筋なぞはこの際省くとして、この前半では12話のシャアの有名な場面についてもどういった演出意図で描かれているかを分析する。
以前にも指摘したことだが、酒場でシャアが一人でギレンの映像を眺めて「ぼうやだからさ」とつぶやくあのシーンのことだ。
ここではガルマに対する上から目線な発言かと思いきや、もっと複雑な思いをかみしめてガルマのための本当の弔いをしているものと捉えている。それは肉親であるギレンが弟の死を政治的に利用している映像と対比されているのだ。
ガルマが姉上に対するシスコンであるなら、シャアは妹であるセイラに対するシスコンで、物事の表裏であろうとのこと。とくにセイラには色々と自分の複雑な思いをカミングアウトするものの理解されず「兄は鬼子です」などとまで言われてしまう。本当は仇討ちのために青春を犠牲にするほど家族に思い入れのあるシャアは、それゆえに屈折せざるを得ない。
そして彼がカッコよい台詞を吐くときは、情けない現実を誤魔化しているものとして描かれている。
最初に「若さゆえの過ち…」と独白するのは、若くして戦功をあげ巡洋艦の艦長にもなっているにもかかわらず立場や実績でさえ人を動かすには足らないという現実の苦さをあくまでスタイリッシュに表現しているに過ぎない。実態は年上の部下になめられただけとも言えるのだ。


次の括りは13話「再会、母よ…」から34話「宿命の出会い」までか。ここでは“アムロと大人”との関係を描いているとする。
ここでのアムロの追い詰められ方は無茶苦茶厳しいものだ。
まず母親だが、技術者である父とともにサイド7で生活していたため疎遠であろうことは想像できるものの、結局決別の台詞を浴びることで本当に切れる。
次にランバ・ラルという初めて本音でぶつかり合えた大人が登場するものの、相手を認めるがゆえに痛いところを突かれても受け止めるしかないし生き方にも縛りが入る。最後には戦いの中で死んでしまう。
自分が所属している連邦軍の大人の無責任な様や形式ばった融通のきかない対応を目撃し、それどころか裏切りに満ちた高官(エルラン中将!)の所業に晒される。
彷徨う少年の絶望はますます深くなっていく。
トドメは父親で、酸素欠乏症から技術者として生きていくことができなくなり落ちぶれている。
いくら酸素欠乏症という前提があったとしても、自分が設計に携わった兵器への思い入れのみ残っているのは相当酷い話だ。
つまりは搭乗者たるアムロにそれに乗って華々しく戦って死んで来いと言っているようなものである。相手が病人だけにマトモに向き合うことさえ不可能という絵面は、よくぞここまで追い込むものだと舌を巻く。
ここで全43話のタイトルの中でも最も浪漫的な響きを持つ「宿命の出会い」という回で、ララァという少女との出会いが描かれる。
彼女との出会いが救いになるかというとさにあらず。
最初の出会いで互いを100%分かり合うという、この作品では本当に珍しい齟齬が含まれない場面となっているが、「実は彼女はシャアの恋人だった!」という次の邂逅はまさに“そりゃないよ”という声が聞こえてきそうなほど底意地の悪いものを感じるのであった。なにせアムロの車がぬかるみに嵌って困っていたところ、100%分かり合える稀有な存在だと思った少女があろうことか永遠のライバルたるシャアとともに車で通りかかるのだ。その様子を見れば二人の関係は明らかで、その衝撃に呆けているあいだにシャアはアムロの車を牽引してぬかるみから引っ張り出した挙句「敵の士官を前にして緊張するのは分かるが、せめて礼くらいは言って欲しいものだな」と気を使われる。視聴者までが居たたまれない有様だ。
時系列の確認はとってないが、こうした出来事があったからこそこの後のコンスコン隊の12機のリックドムがわずか3分もたたずに全滅…というお話の流れにアムロの心の内を、その凄まじい戦闘機械としての背景を見てしまうのである。まるで好きな娘が別の男のもの…というままならぬ現実に仕事に打ち込むしかないサラリーマンのような。
ともかくここで浮かび上がってくるのは、帰る場所がないという理由でアムロが戦っている事実。追い詰められてどうしようもなく戦うというのは世の真理らしい。止まり木がなければ飛び続けるしかないということなのか。D&D冒険者だってベースキャンプや様々なセーフティポイントを構築するのに。物語が進むにつれて心を落ち着ける場所もなく、ただ戦うことに特化していく様は、悲愴ではあるが視聴者からすれば削ぎ落とされ純化していくようで高揚せざるを得ない。戦闘能力が完全開花する次の話の流れを予感させる。
にもかかわらず、サイド6内の人々にホワイトベースの戦いが他人事として実況放送される場面が視聴者の前にまるで自分たちが皮肉られ責められでもしているかのように居心地悪く突きつけられて終わるのだ。なんて構成なんだ。


さらに物語は35話「ソロモン攻略戦」から43話「脱出」の最後の段階へと向かう。
ここではついに“アムロと戦争”が描かれる。
ソロモン攻略戦以降の流れは、太平洋戦争の日本と同じく抵抗拠点をひとつずつ潰されてジオン公国が次第に追い詰められていく様相を呈している。
ではジオンという敵は何か。
連邦に圧迫されて戦争によってこれを打開しようとした、ある意味アムロと同じ立場の人々なのである(連邦が大人に置換されるだけ。
独立国家を宣言して戦争を遂行するということは、まさに少年のような国家に他ならず、これに連邦はソロモン攻略戦でソーラーシステムの照準をスペースゲートに設定したように(逃げ道を潰してでも徹底的に敵を掃討する意図が見える)抵抗勢力を根絶やしにする殲滅戦をもって追い込んでいくのだ。それは少年にとっての大人たちの不条理さ、残酷さの比ではない。
国が国を徹底的に叩くときのそれは、たやすく原水爆の使用を含む数多くの虐殺を連想させる。
そんな状況の中、ガンダムにはマグネットコーティングが施され、アムロニュータイプとして開花して、戦士として異常な能力を発揮する。
視聴者はその圧倒的な能力と絶大なる戦果に高揚し、アムロの心中がどれほどの寂寞を抱えているのかを忘れる。
白兵突撃しか残されていない日本兵の潜む洞窟を次々と焼き払う、米軍の火炎放射部隊のような一方的な状況…といっても想像が及ばない。
そもそも最終防衛ラインで戦闘しているということは既に敗北しているということなのだ。
旧日本軍の場合は沖縄で(個人的には絶対防衛線だったサイパンだと思うが)、ジオンがア・バオア・クーで戦闘している時点で戦争は負けている。後はどう講和するかしかないのである。
そして住民を疎開させてのコロニーレーザーは、政治面からすれば完全に失策でしかない。
軍人国家の弱点はどこまでも戦争を継続してしまうところで、なぜなら物事の解決手段が軍事力によっているからで、政治が機能しないとどうなるかという視点が織り込まれている。
それはそれとして、ついに戦場でアムロララァと戦うことになる。
ここでメカ+少年とメカ+少女を戦わせるクライマックスは、富野監督のモチーフであるとの指摘が。
おいらがすぐに思い出したのはキングゲイナーだったけど、Zガンダムフォウ・ムラサメとかを指していたのだろうか。
しかし、ここでの戦いは男女三角関係を背景に持っているだけに単なる戦闘とは趣を異にしている。
100%分かり合えるはずの人間同士が戦うのは、ララァ側にとってみれば初めて自分を見出してくれ、さらには男女の関係にもあったシャアとの結びつきの強さにあっただろう。そのシャアに対してララァがノーマルスーツを着用してくれと願い出るも却下される擦れ違いに注目する。シャアにとっては自分の面子というか生き方を守る方がララァよりも大事であったのだ。そう見てくるとララァは死ぬべくして死んだように見える。ララァが強引にシャアを庇いにきたのは、彼がノーマルスーツを着ていないため、機体への僅かな損傷でも致命的になると知っていたからではないか。そしてあくまでシャアの側に立つララァを見るに、そこにいるだけで完全に分かり合えることよりも、分かり合えずとも人間関係を築き肉体関係まで持ってしまった相手との結びつきに動かしようがないリアルがある、ということなのだろう。
ララァが死んだときの反応で、シャアはようやく自分の感情を爆発させ、本音を見せる点が興味深い。
この場面でお話は「次週に続く」でもよいところ、ソーラーレイの使用場面につなげる畳みかけの凄さは他の作品の構成が凡庸に見えるほど。
先ほどまでの壮絶な個人戦闘から帰還したアムロに、比較にならない大量破壊と死を感じさせて終わるのだ。


そして最終話に向けて、アムロは滅び行く若者の国・ジオン公国にトドメを刺すために戦場を駆ける。
ニュータイプは誰かと分かり合うための可能性を秘めながら、死と破壊を撒き散らすために兵士として戦場にある。
そこはもはや悲惨な戦場であった。
アムロはシャアと戦うのだが、割って入ってきて撃墜されるのはジオンの少年兵であり、その姿は1年前の自分の姿と同じなのである。
自分はたまたまガンダムを手に入れ、何とか生き残ってニュータイプとして覚醒したがゆえにこの場にいるが、ほんのちょっと流れが違ったら学徒動員から戦場で命を散らしていたであろう。つまり自らの手で1年なり数ヶ月前の自分を殺しているようなものなのだ。
一方、シャアにしても「モビルスーツの性能の差で勝ったということを忘れるな」という台詞を吐きながら、いまやジオングというスーパーメカがなければニュータイプには対抗できない現実がある。昔他人に向けて放った言葉が自分に向かって返ってくるという遣り切れなさの中で、引き裂かれたプライドとともにそれでも意地をもって戦うしかないのだ。
シャアの最期はこうして丹念に物語を追ってみると、どうしてああいう行動に出たのかがよく分かる。
国家が滅びるときにその代表は生き残らねばならない。というのも最後に残るのは国としてのプライドだけであり、戦後処理する代表が少なくとも残っていないとそれさえ失われ好き勝手にされてしまうからだ。キシリアはそれゆえア・バオア・クーからの脱出を図る。これにシャアは彼女の座乗する巡洋艦艦橋の至近から素顔をさらしてバズーカを放つのだ。そのときの台詞はついにガルマへの思いが語られるというものであった。
死んだガルマはシャアが自ら殺し続けた青春そのものであり、多感な時代をともに過ごしたかけがえのない人物であり、ひょっとしたら別の人生を歩めたかもしれない可能性でもあった。そのガルマへの手向けとして姉キシリアを殺すことは、シャアなりのケジメというだけでなく、自分は同様に愛する妹と同じ場に身を置くことはできないとしている。たとえそれが死後の世界であってもガルマとキシリアは共にあるが、自分の落としどころはそれさえも相応しくないと思っているのである。
ガルマへの弔い、初心であるザビ家への復讐、そしてすべてを精算するための行動であるがゆえに自らの生死は問わないのだ。すなわちそれは今まで描いてきた戦場リアリズムの延長で、シャアはここで死なねばならない。
ひるがえるにアムロの最後は、ついにコアファイターの中で一人ぼっちで一番最初のメカに囲まれた引きこもりの少年として戦場を漂うことになる。
とことん追い込まれ続けてそれでも戦い続けた果てなので、脱力するのは当然である。
ここに至ってようやくニュータイプという共感能力が誰かのためになる、すなわち自分が救われる夢のような場面が描かれる。
言葉を介さずに分かり合う…のは、映画制作に携わる人間のひとつの理想だと説明する。安彦良和はじめスタッフに反対されたニュータイプという考え方については、岡田斗司夫はあくまで富野監督側に立つということだ。
「The ORIGIN」で安彦良和ニュータイプを織り込んだ展開にしているらしく、「(当時あれだけ反対したのだから)ニュータイプ抜きでやらなきゃ嘘だろう」とぼやく。
ともかくここまで積み上げてきた話がリアルを保ったままファンタジーな世界を支えるがごとく、ホワイトベースのクルーと通じ合ったアムロは最後の最後、この一瞬だけすべてを忘れて皆を助け助けられて仲間のもとに帰っていく。


ガンダムの構成に一本意志が通っている点が、この最後の場面にも適用されている。
もはや戻ったところで苦難しか待っていない場所へ、死に体となったガンダムコアファイターを乗り捨てて、すなわち“モビルスーツを脱ぎ捨てて”帰ってゆくのだ。万能の象徴であるスーパーロボット(敢えて使用)の祝福からも呪いからも解放されて、少年から青年となって、様々な不協和音はあるにせよ今この瞬間は心をひとつにしている仲間のもとへ。
コアファイターが少年の万能感などの象徴だったガンダムの最後のパーツだったとするなら、このときアムロは青年となったことを暗示している。これこそ通過儀礼(Initiation)というものだろう。
そして最後に壊れたコアファイターが宇宙の彼方に消えていく映像では、ガンダムの中心パーツであるコアファイターは作品の中心である富野監督のメッセージに変わっている。
すなわち、作品を視聴する少年は青年になり、自分はできなかったしどうすればいいかも分からないが、いつかカッコイイ大人になって欲しいというメッセージだ。
少年はコアファイターを捨てるアムロのようなものであり、自分が製作しているアニメというのは壊れたコアファイターのようなものであるけど、そうした作品をしぶとく作り続けるのさといったクリエイター魂を受け取るのだ。それが劇場版でシャア生存の可能性を残す描写をはさんだりして「熱烈なファンこそがクリエイターを殺す」といった有様に。


こういった解釈に基づくがゆえに、「人生のモビルスーツを手に入れる」ということはまさに中二病を発症するに等しい。
我々はすでにモビルスーツを手放して生きてゆくことを選択しているはずではないか…ということだ。ここで最初に提示した勝間和代の新書のオビに戻るのであった。
延々と語られてその発起点に戻ってくるという話法に、思わず爆笑してしまいましたよ。


●その他
・作品とコンテンツの差。「自分にとっての〜」が自由に共有できるのが理想的な状況。味噌汁のように、基本的なレシピはあるけど家庭ごとのそれぞれの味がある状態が望ましい。コンテンツは製品管理の意味合いが強すぎる。
お台場ガンダムが何に似ているか。鎌倉の大仏である。とりあえず行って写メを撮る。見上げる人々。宗教化している。門前町と見比べても分かるように、グッズを売って同人誌(ISBNコードのついていない釈迦や如来の本)売ってる点も同じ。違いは“御利益(ごりやく)”があるかないか。すなわち行為が目的化するような雰囲気そのもの。
・ディズニーランドの宗教度もかなりのもの。幸せになるために行く>行くことが幸せ。東京(千葉)に行ったらディズニーランドに行こう、恋人ができたら〜。ディズニーランドが「マジック」と呼称しているものは御利益。
・ロックカップル、ビリケンなども後付けの御利益もの。もしくは仕掛け人がいるのに乗っかっている。とくに理由なくやって当たり前の雰囲気を持つものは宗教。
・御利益の中身は人間の三大欲望(健康・金・モテ)に訴えている。ガンダムもこれにからむような何かが登場した途端、急速に宗教化するはず。
・ちなみに岡田斗司夫は小乗ガンダム小乗仏教のもじり)なので、ガンダムを考える修行が解脱への道となる。みんなは大乗ガンダムでぬるくやっても大丈夫。
・宗教は行動をしばる。そこに理由はない。行くところまで行くと行動原理しかない。


以上、なかなかに楽しい時間でした。
ガンダム話は時間延長して大阪のものより長く語ったとのこと。
この年になって、熱い「機動戦士ガンダム」の新解釈を聞けるとは思わなかった。
各場面で引き合いに出していたのはロマンアルバムからの記事だろうか。記録全集のものじゃないような感じだったが。当時のアニメックのレイアウトっぽかったけどなあ。