明治大学公開講座(佐藤亜紀 特別招聘教授)2010年度第二回

●昼飯

●食後の珈琲

●講義の教室

●もうすぐ読み終わる



●自転車で行こう・2
今日は川越街道を東に走り、池袋を経て春日通りを行き、東京ドームを回りこんで水道橋から神保町に達する道行き。
陸上自衛隊練馬駐屯地(第一師団?)を横目に見ると結構なトラックが並んでいたり。あちこち眺めながらゆっくり走る。
割りと順調であったが、Bromptonの足回りが以前よりちょい重めな気がするのは気のせいか。
あとトップスピードで40kmくらい出せないと、やはり車道を走り続けるのは無理あるな。下りじゃないと20kmちょいしか出せないので邪魔なこと夥しい。
それと前回の神楽坂や九段下から上への坂に比べれば、今回の道程は割りとアップダウンおさえめ。帰りも飯田橋から江戸川橋に抜ける道にしたら、比較的楽であった。


●前回の復習
とある出来事があったとして、現場にいた人間の誰しもが出来事の同じ面を見ているわけではない。
同じ面から見ていてさえ、その人の立ち位置によっては別の受け止め方がされるゆえ、出来事を正確に伝えることは難しい。
>だから歴史の実体などない、というのは飛躍しすぎか。
村上春樹アンダーグラウンド」のように、起こった事件「オウムのサリン事件」についての関係者の証言を収集するというのは、事件を浮き彫りにするひとつのやり方であろう。何が起きたのかを語る個人個人の言葉は、語りのネットワークを構成してあるイメージを形作る。それは読み手に出来事に対する認識を喚起する。
職業作家(引き合いに出した例では恩田陸だったか)は、こうした証言を最終的に強引に御話にしてしまうあたり微妙だ。
ともあれ、事件を語る言説のネットワーク、これによって実体を推測することで認識が成り立っているのだとして、とある瞬間に「これは違う」とか「もっと奥深いものが秘められている」と感じることがある。つまり通常使われている言葉や語り方、認識の仕方が問われる場面だ。伝えるべき重要な部分が欠落している感覚か。
その極端な事例ということで、以前にも紹介したゴヤの話へと繋げる。


ゴヤの話
●サン・イシードロの草原

●サン・イシードロの巡礼

上の2つの絵の相違について。
同じ巡礼の場面を描いているにも関わらず*1、若いときに描いた上の絵は当時の規範にのっとった精緻で上品な絵面であるのに、晩年に描かれたという同じ場面の絵面は情念をキャンバスに叩きつけたかのような平面的な人々の有様であった。
この差はいったいどこから来るのか。
ここで脇道。
巡礼というのがいかなるものか。
南欧キリスト教会がどういった位置づけにあるのかも含めて。宗教属性が強くて濃い。
教会は願掛けするための場所。
願い:子供を授けてください。>願いがかなう:感謝の気持ちで聖地への巡礼。
ヴェネツィアは観光都市であると同時に漁師たちの街。当然ながら時化たときは命にかかわる。
サンマルコ広場近くに絵馬が奉納されている。水に落ちてマリア様に導かれて助かった様子など。
佐藤亜紀さんが聖地ファティマ(ポルトガル)を仕事で訪れたときの話。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E
野宿モノといった様子の人々が皆同じ方向へ向かう異様な光景を目にする。これが巡礼。
同地で彼らが門をくぐって教会堂に向かって大理石が敷かれた道をいざりはじめたのに、同行したカメラマンが目を丸くする。
膝にサポーターするのは巡礼的にはオッケーだそうだ。
宗教的な行動の不気味さ、それは人々の精神的な煮詰まり具合が異様な光景を形作るから、か。
情念を描くといった表現においては、「サン・イシードロの草原」よりは「サン・イシードロの巡礼」が適当であろう。
●5/2

●5/3

有名な5/2と5/3の絵。
前にも話したが、その描き方は極端に違う。なぜそういった表現になったのか。
5/2 マドリードの暴動。スペイン全土でゲリラ戦。 5/3 捕まって処刑される場面。
ルーベンス風を踏襲した当時の定石に従った絵画。対するに平面化されキャラ化した*2人々の絵。銃殺する側も妙に整然と描かれる。
<不明点>
ゴヤが「サン・イシードロの草原」で描いた人々をヴェネツィアの?ティエブロ?の影響下にある可愛い絵と言っていた。ティエブロ?


ともかく外見を精緻に描き出すという定石とは別の描き方、別のものを表現しているとしか思えない。


●表現はどう変わり得るのか
表現によって包み込もうとした中身(実体)が違ってしまった。
写実という方法論、目に見えるものを描くことの限界。
ある時代における美術・音楽・文学に共通する傾向について語ることは非常に難しい。扱っているMaterialが違うと、思考や方法論も違う。
とある音楽家の表現について文章で表現しようとしても音楽家には理解されない。
ここらへん研究課題としては絶対納得のいくものにはならぬため不毛。
あえて言葉にするなら、世界を把握する方法論が似ているということに。
以前の講義のゴヤについての部分参照。
http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20090613
版画集「戦争の惨禍」は正気度が下がるので見たくないとは、佐藤亜紀さんの談。SANチェックですな。
あまりに通りのよい解釈をするなら、ナポレオン戦役を通して人間が何をし得る存在なのか強烈な印象を受けたため、アカデミックな表現では描けない世界を描かざるを得ないところに来てしまった。


個人的にここで「その表現(生き方)は駄目です〜」と心底つぶやくちよちゃん(あずまんが大王)の絵面が脳裏に浮かぶ。



横道だ。
ヴォルテールの話。啓蒙主義の啓蒙(then Enlightenment)とは自らの内なる光に照らし出されて世を照らすという意味?
ヴォルテールは頭のキレるヤナオヤジ。
啓蒙哲学などと言われているが、実際には株にも精通した世知に長けた人間。
カンディードで取り上げられているように、リスボン地震による惨禍(地形から津波にも襲われて大変な有様に)で人生観が変わった。
「人が機械人形のようだ! ひゃっはー」とメモにはある(笑。
カンディード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89
そうした悲惨な現実にも関わらず、(どこにも慰めは見出せない)だからこそ最後は「我々は自分の畑を耕さねばならぬ」と結ぶ。
Wikiには「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑は耕さなければなりません(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)。」とある。


構造的には、突然使い慣れた表現が無効化する瞬間がやってくる。
対応としては
・それでも今までのやり方を通す。ギャップを抱えつつも。
・新しい表現に変える。
となる。
無論、世の流れは<刷新>せざるを得ないといった流れではあろう。
●マネ「皇帝マクシミリアンの処刑」

ゴヤの表現を継承しているのはマネ「皇帝マクシミリアンの処刑」
人間に厚みがなく、影らしい影でなく、リアリティを表現する気はない。立体的ではない。
ミメーシス(模倣?)の崩壊。
写真の登場により絵画の写実という方向性への影響もあるのかもしれないが、
・形を真似ることをやめる
・固有色を表現することをやめる
といった方向に向かうことになる。
こうした場合、旧来の視点からなされた質問に新しい表現は屁理屈のごとき回答しか返せない。
質問「このハンカチは何色?(オリーヴ色)」
回答「影の部分は黒に見えるし光があたっているところは…」
かみ合わないこと夥しい。
絵画は点描の流れ、印象派からキュービズム(形態)、フォービズム(色彩)を経て現代抽象絵画と変遷していく。


こうした表現を意識的に「壊してやる!」と息巻いてもただの“イタい人”になるだけ。
表現には壊れる必然があるゆえ壊れるのだ。
それはすなわち見えている世界が一変するという言葉が当てはまるようなその人の視点ということになろうか。
現在、今までの表現があちこちで齟齬をきたしているのは、実感している世界の在り方とそれを表現するやり方に明らかにギャップがあるから。
また笙野頼子を評価する言葉を持たないのもそのせいであろう。明らかに旧来の表現を操る人々は扱いかねる存在だ。


笙野頼子

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

刷新された表現を語る言葉がなければ、笙野頼子は語れない。
文芸春秋大野晋(おおのすすむ:国語学者 1919-2008)が「最近の若者は物事をちゃんと書けていない。それは物事をちゃんと見てないからだ」と指摘していたことがあった。
これはこれで旧来の表現に属する知恵者として正しい指摘であろう。
逆説的に若者は見ているものが違う上にそれを表現する術を模索しているがゆえにきっちりは書けるものではないという見方もできる。
ただ昔の批評家などはきっちり新しい表現に対して悪口ではあっても的を突いた言葉を与えている。たとえばフォービズム、野獣のようなという言葉で。


笙野頼子を分析するのは相当大変な話になるが、「母の発達」はまあとっつきやすい方か。
著者の問題意識の移り変わりから、いくつかの時期に分類できるわけだが、あまり意味はないのでここでは取り上げない。
iPadにいろいろ格納しようとしたようだが、引用があまりに多すぎて断念?)
ただ笙野頼子の見えている世界というのは、生れ落ちたときから世界に対する違和感をずっと抱えていたではないかと推察。
たとえば911などの事件があって見方が変わるというものではなかった模様。
そして、もし世界がそのように見えるなら、そのまま表現するしかないと腹を括っているのではないか。一般の在り方、世界の捉え方が違う。
佐藤亜紀さんのポイントとしては、表現の刷新に真面目に取り組み、自分の問題として世界を語りなおす点を指摘している。
ここから「トンデモかもしれないが」という但し書きは付くものの、笙野頼子のやっていることやろうとしていることを何とか説明してみる。


おいらは笙野頼子を読んでないので、又聞きを何とか言葉にして書き付けるだけ。
笙野頼子は表現を刷新してみせるだけでなく、実際にに世界を書き換えるほどの表現を突きつけてくるというのだ。
「母の発達」はいってみればフェミニストが「母娘の関係は互いに強迫観念を植え付けてストレスになるので解放すべき」という論調でいっかな当事者たちが解放されないのにも関わらず、表現だけで解放してしまう浄化作用を備えている。それは言霊であり魔術といった類に属する表現なのである。
※おいらは京極夏彦の憑き物おとしを連想した。
作中でやってることは、まず魔法陣によって自分の防護領域を確保すべく母の死体がある状況から地縁・血縁をすべてきり飛ばす。
その上で母という言葉を自在に変容させるように揺さぶり、言葉のイメージを解体していく、というのだ。
母親で想起されるものはすべて取り上げ、あらゆる要素を再配置して、よくない部分については「潰す」とか「除去する」といった作業に及ぶ。
そうした過程で母親も喜ぶ。つまり母娘の関係性の呪いを解くことで、母親もそのまた母親からの呪縛から解放されるがゆえに喜ぶのであろう。


初見で佐藤亜紀さんは笙野頼子とだけは喧嘩しないようにしようと思ったのだそうだ。
なぜなら、いざ喧嘩となったら呪殺されるであろうから。それだけの力を持った表現を備えていると見たから。
だけど再読後、笙野頼子の扱う表現はどこまでも白い、白魔術なので自分が真に邪悪でなければそのような羽目には陥らないと再考したらしい。
実に興味深い。
佐藤亜紀さんはアリステア・クローリーといってたが、アレイスター・クローリーか? が、マクベスの魔女の台詞*3は、実際に作動する魔術(言霊)であると言っていたそうだが、それはそうに違いないと思わせるものであった。
あとワルキューレブリュンヒルデを炎で囲む場面?ロキの登場する場面の音楽?(ここらへんよく聞き取れなかった)


言葉が世界を書き換える。
これはまさに魔術だ。
笙野頼子「母の発達」は、問題を指摘して「さあ変わりましょう」といったありきたりの言葉ではもたらし得なかったものをもたらす。
重要なのは「言葉の魔術性:表現が受け入れられる(浸透する)ことで変わっていく世界」にある。→表現が変わるべき必然がある点と、表現によって世界が変わっていく点、実に微妙な匙加減な気もする。現実に作用する(ように見える)表現の恐ろしさってのもあるか。
さらにイザナギイザナミの神話へのアプローチ?黄泉比良坂を下って死んだ奥さんに会いに行く話?>先取りしている。(ここもよく聞き取れなかった)
結論というか、話のオチとしては、一家に一冊笙野頼子の本があれば魔除けになる、と。


●帰宅の途上で
椎名町近辺ですれ違った眼鏡かけた女子高生が可愛かったなあ。
自然な地味さがポイントなんだな。
こんなちょっとした出来事でまだまだ何とかなるような気がしてくるから不思議だ。とりあえず画伯登場イベントよりは花があってよろしい。
そんなこんな。

*1:どちらの絵画も一部を参照しているに過ぎない。上の「サン・イシードロの草原」は人々の向こうに左右に河が流れ、その川を越えて街が描かれている。参照してるのは巡礼の人々が行儀よく休んでいる手前の様子。

*2:たぶんとある側面を強調するあまり残りの面が極端に抜け落ちた人物像といった意味合い。

*3:「きれいは汚い、汚いはきれい」というやつ。