渋谷 cue702|辻真先・80歳傘寿未満、なお現役。アニメ&特撮人生大回顧#2

<前回:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20111212/p2
今回は渋谷のレンタル会議室cue702で開催。前回よりも早い19:00開始だったため、いろいろと時間のやり繰りに奔走した。
21:00頃終了して外に出てみると、水気を含んだ雪が結構な勢いで降っていた。


前回の続きということで、名古屋大空襲のあたりから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
1945年3/12, 3/19, 5/14の三回の大規模空襲について。例によって箇条書きで。
焼夷弾には、黄燐・油脂(ナパーム弾:粘着性があって消火が困難)・エレクトロの三種類がある。
●エレクトロ焼夷弾などは水の中でも燃える。防火水槽に焼夷弾がはまって幸運だったと思い中を覗いてみると燃えていて仰天した。しかも水槽が壊れてそのまま転がり出したので、ほとんど喜劇のような状況--転がりつつ燃える爆弾に追いかけられる--に遭遇した。
●米軍は3/12の空襲では焼夷弾を落としただけだった。次の3/19の空襲では最初に普通の爆弾を落としてきた。焼夷弾だと思った住民(男性)が消火活動をしようとして戸外に出たが普通の爆弾だったため一掃されてしまった。その後に焼夷弾を落としてきたため、消火にあたるべき大人の男性がいない。当時中学生だった辻真先さんが一番年上の男性で後は女性だけという状況に。
●仕方ないので陣頭指揮をとり、風呂の水、井戸水を使って消火につとめたがまさに焼け石に水。近くの川からのバケツリレーとなった。防空頭巾の紐が凍るような寒さだったらしいが、男一匹ガキ大将、川から水を汲む役どころをこなした。
●3回目の空襲では500kg爆弾(1トン爆弾?)を投下してきた。これは着弾するとクレーター状の跡を残した。その広さは、雨水がたまると中学生2、3人が水遊びできるくらいのものだった。名古屋にはプールがなかったために、後に重宝したのだとか。
●火災の延焼を辻さん宅で押しとどめたものの、さすがに家財道具は近くの林に避難していた。空襲後これを確認したところ、箪笥の中身がすっかり盗まれていて火災泥棒ならぬ空襲泥棒にあったことが分かる。しかし、こんな町全体が空襲されてる最中に冷静に泥棒していくとは…と、逆にみな感心してしまった。
地震の話。メモには1944年11月7日とあるが、これは東南海地震(1944/12/7)であろう。相当な被害が出た地震であったが、戦時中なので報道管制がしかれて情報が流れることはなかった。三重県の知事が津波の情報を得るために被災地に人を送ったところ、憲兵に捕まってスパイ扱いされ、知事自らが引き受けに赴いたらしい。災害復興の記事が新聞に小さく掲載されるも、なんで災害復興しているのか被災地以外の人々には分からなかったであろうとのこと。
●大人は本当に頼りにならなかった。辻さん宅の近所にあったビリヤード屋の親父は綿と芋をガメていて、空襲で燃えた綿とともに川に飛び込んだらしい。ビリヤード屋の焼け跡では焼き芋が大量に発掘され、みんなで食べたともいう。
●名古屋は戦闘機などの工場があったために狙われた。1944年時点で辻さんのような中学生が工場で零戦を組み立てていた。先の東南海地震で工場の地盤がゆるんで組み立てに支障をきたしたため、工場は三重に移転して1945年には女学生が組み立てていたというから凄まじい。当時は「ゼロセン」という呼称にはならなかった。「ゼロ」は敵性語ということで言葉にしたら殴られた。いうなれば「レイセン」である。
●トラックなどで物資輸送をするような時代ではなかった。牛や馬が動員されて運搬にあたっていた。空襲で焼けた牛のビフテキを食べる場面もあったとか。まさに「おいしくいただきました」の世界だ。
●映画の話。戦前に名古屋には映画館が96ほどあったのだとか。それが終戦時には焼け野原。本屋にしても映画にしても京都に出るしかなかった。
●10時間かけて東京の武蔵野館(新宿?/現在の建物の一代前)に「ガリバー旅行記」を見に行った。当時特急も急行もなく鈍行のみ。出勤時間帯にあたると混雑して大変だった。網棚で寝た?
●フィルムに字幕をつける技術がなかったので、「ガリバー旅行記」の冒頭に「あらすじ」が日本語で提示され、以後は字幕無し英会話による作品が上映され、ちんぷんかんぷんであったという。それでも映像表現によるギャグでは笑えた。モノクロでなく色彩画面が現れただけで客は感心の声を漏らしたものだ。現在のすれっからしの視聴者とは違う。
●辻さんの世代は最後の旧制中学だったため、中学5年生まであった。これが進駐軍によって6・3・3制に変わり男女共学となったために、端境期の面白い(当人にとっては激動の)体験をしている。
●辻さんの場合、中学5年生までが旧制中学。これが新制高校3年に編入してから大学へ…という流れになった。男女共学ということで、県立のいいとこのお嬢さんばかり通ってる高校と合併するのかと思いきや、シャッフルされてあまりおつむのよろしくない見目麗しくない女学校の方々と一緒になったらしい。
●女性と目をあわせただけで殴るような教育をしてきた教師側は大変。とくに全員処女ではないかと思われる女学校教師の方は想像にあまりある。それでも進駐軍には逆らえず、性教育をやらされるのである。
●男女共学を強制された教師たちは、非常に抵抗があったため、校舎のフロアごとに男女を分けて授業することにした。1Fは男子クラス、2Fは女子クラス…というように。しかしその実態を知った進駐軍は怒って「ちゃんと男女を同じクラスに配置して授業すること」を厳命した。そのままでは男女併学だというのである。
●校庭で男女が並んで整列する場面でも、辻さんはじめちょっとHな男連中(失礼!)二、三人はすぐに整列した。女生徒側も艶っぽくて開放的な女生徒が二、三人が並ぶ。残りは集団でウジウジしていたという。そこに進駐軍ジープがたまたま通りかかったら、呆れたことにすぐに男女とも整列したのだとか。日本人は追いも若きも右へならえなんだと強く感じた。
名古屋大学に進学したら、当然ながら名古屋が焼け野原なので、建物らしきものがある豊川?まで通学する羽目に。おかげでそれまで映画少年だったのに、帰宅時に映画館に寄ることができなくなってしまった。平日映画を見ることができなくなったので、辻さんが映画に詳しいのは1950年までという話である。
NHKで働いていたとき、月間残業は200時間だったとか。タイムレコーダーの退勤を押した後すぐに出勤を押すという忙しさ。時間がないので、帰れない・寝れない・食べれないの三重苦。蚤・虱・いんきんたむしは一通り経験した。
NHKは当時内幸町にあった。
●睡眠時間では丸二日徹夜すると三日目は意識が保てないことが分かる。食事時間を削る方向でいくと、夜中にようやく食事ができるようになるが当然店は開いていない。進駐軍用の六本木の店くらいしか開いていない。おでんの屋台で一週間食事をしていたら、最後には栄養失調で倒れた。
●そもそも夜に店が開いたままで食事ができるようになるのは、テレビが浸透してから。テレビ放送は昭和28年(1953年)にNHK日本テレビが東京で放送開始してからが歴史のはじまりみたいなもの。当時は文化の序列的にテレビは最下層という有様であった。ラジオの方が格上なので「視聴者」ではなく「聴視者」と言わなければ眉をひそめられたし、放送関係者だったら殴られていた。
●呼称も「テレビ」では通じず「テレビジョン」であった。
●当時は個人情報保護などという縛りはないので、テレビの契約者一覧が実名で公表されていた。それによると初期のテレビの契約者は全体で800名ほど。採算とれるわけがない。世田谷区は6人も契約者がいた。徳川夢声とかの名があったとか? 世田谷・杉並は富裕層がいて練馬になると落ちる(俺、練馬。
●文化の格としては「歌舞伎>新派(新劇)>>>>>ラジオ>>>>テレビ」という構造。
●辻さんはNHKで制作進行を担当。といっても初期立ち上げの業界にあっては何でも屋であった。
NHKのタオルと菓子折りを持参して、家具店を巡って「いやあいい家具が揃ってますね。私はNHKの者ですが今度(無料で)これを貸していただけませんかね。テレビで使いたいんですよ」などということまでやっていたらしい。一般の方の反応はNHKの人と聞くとアナウンサーという認識をしていたようだ。
NHKの建物は入口をはいると左側に郵便局があって、対象構造で反対側に35坪くらいの事務室があった。これをTV局のスタジオとして使っていた。しかしスタジオはもともと事務室だったため中央に柱があり、セットを組むときはほとほと困ったという。定番は竹などで覆って隠すというもの。
●そんなスタジオでトニー谷忠臣蔵なども撮影した。現在と違って生放送ということを考えると苦労がしのばれる。
●ただセットを組むときも、柱にかかっていた標準時計を覆うことはできなかった。なぜなら、最後に時報を告げるために時計を映す必要があり、カメラは最後に時計を捉えることになっていたからだ。無論、こういった苦肉の策ともいえる演出は、後にテロップを表示するなどの手法に置き換わっていくのだが。
●初期のカメラは撮影対象に熱線を浴びせるがごとく、落語家の羽織を燃やしたり(!)、奏者のトランペットを加熱したりしたらしい。すぐに最新型の機器が導入されたようだが、東芝東京芝浦電気)はよく壊れたとか。ちなみにSONYはまだなく東京通信工業株式会社だった。都市伝説として、壊れた東芝のカメラはピースの潰した箱をはさむと動くようになるとか、高いところに設置されたサブモニター(演者にテレビの画面状況を伝えるもの)を深夜に覗き込むと合わせ鏡の理屈で凶事が起きるとか、あったらしい。
●言ってみれば過渡期であった。テレビという業界立ち上げ時の喧騒の中にいた。映像を志す者は映画業界を目指した。にもかかわらずテレビに携わったのは、名古屋には撮影所がなかったのと、卒業時にたまたまNHKが募集をかけていたからで、2000人応募者の中でテレビを志望したのは辻氏だけだったという。辻さん自身は映像も好きだったが、紙芝居の脚本が書きたかっただけと語る。このときまでにテレビを見た経験は、テレビの実験放送で平仮名文字が写っている静止画像を街頭(松坂屋?)で眺めただけ。
●1954年(昭和29年)に名大を卒業してNHKに入社。このとき入社したのは男性5人に女性1人。女性は労働基準法で22時以降働けない時代であった。あまりの業務多忙に1人は配転していった。
●人員はあちこちから集められて番組が制作された。大道具・小道具の中で揉まれて業界の符牒を覚え、そういった符牒知らずに番組に参加する役者やスタッフにあらかじめ説明したりなどした。
●様々なセットを組んだが、上から糸で釣るタイプの人形劇は大変だった。演者が上に乗っても大丈夫なように頑丈に出来ているから。ともかく重くて難儀した。
●また、スタジオの構造を知らない若いバレーダンサーの娘が、向こうから見えないガラス越しに着替えをするなど漫画のようなハプニングも起きたらしい。
●その後スタジオも拡張されて、A〜Cスタまで揃って時代劇を展開できるようになってはいた。だが相変わらず生放送なので、話の筋に沿ってどんな画面を展開すべきか判断し、その通りの撮影するのに必要なカメラの動きや役者の移動やセットの場所を準備しなければならなかった。実際、セットには江戸城の大広間・磔の刑場・一揆の場面すべてが組まれていたりする。江戸城の大広間などは、役者を映す>役者が膝でにじり寄る姿を背後から捉える>服装同じで別の役者が同じことをしている場面に繋げる>その間に最初の役者は次のセットに駆け込む>殿様のいる上座を映す>平伏する役者に戻す、といった工夫によって大広間の空間、その広がりを演出していたのだ。放送しながら編集しつつ、その指示を出し続けるという離れ業だ。
●10代の岩下志麻の写真なんて初めて見た。
NHKの帯ドラマ「バス通り裏」の話。十朱幸代がメインで、彼女の同級生役が映画に引き抜かれたことで、急遽女学生役をアサインしなければならないことに。役者アルバムを繰ってピックアップしたのが岩下志麻だったらしい。
テンポラリーで依頼して一週間は女学生役をやってもらうことになったが、以後の予定については未定であった。ところが、岩下志麻の方から役柄の質問などを受け、彼女の両親も業界の人間であることがわかり、レギュラーとなっていったようだ。
辻真先さんは独身だったため、撮影で親よりも長くともにいる出演者に気軽にいろんなことに誘われた。
※湘南の海岸にある旧校舎のような建物に泊まった時の思い出。夜中に岩下志麻に起こされて何かと思ったら怖いので一緒に便所に行ってほしいとのこと。十朱幸代、岩下志麻がトイレで用をたしているとき、外でその音を聞いていたとか。
※辻さんの家に遊びに来た?岩下志麻がカーテンを選んでくれたとか。
※何度も海に遊びに行ったそうだけど、ついに岩下志麻が水着姿を披露することはなかった。
岩下志麻のスチール写真。田園調布の家で勝手に撮影したものだとか。ゲリラ撮影にも程がある。
●十朱幸代はかなり天然であった。平気で相手の役者に「次の台詞なんだっけ?」と聞いたとか。本番中ではなかったと思いたい。
●辻さんの脚本・演出の話。
脚本を書かないかと言われて承諾してみると、締め切りは翌日の18時頃。なぜなら役者はすべて決まっていてその時間から本読みが始まるから。
当時はコピーなどないので脚本はガリ版刷りである。その時間を考慮すると翌日昼には台本が上がっていないといけない計算に。
起用された役者の顔ぶれからどういった傾向の話にまとめなければならないかを判断、適当な物語として提示しなければならない。時間を確認する暇も惜しいので、目の前に時計を置いて長針・短針・秒針の動きと相談して原稿を書き進めた。
●そんな修羅場であったが、一番困ったのは役者が来ないこと。ギリギリに来た場合は謝る暇もあればこそ、とにかく「すぐに入ってあわせてくれ」という展開に。あとは代役をたてるくらいか。
お手上げなのはカメラの故障。これはごまかせない。
通常ドラマなら3台。そうでなければ2台で撮影している。複数カメラによる撮影が封じられたときの最後の手段は、床をゆっくり舐めて視聴者が「おや?」と疑問に思ったところで、素早く撮影対象にカメラを振るという技であった。
●辻さんは最初音楽系の番組を担当していたが、妙に台詞が多い番組にしてしまうため、ドラマの方に移って行った(移らされた?)ようだ。
手塚治虫原作の「ふしぎな少年」の話。
NHKも児童局と辻さんのいる部署は犬猿の仲。よくいえば切磋琢磨。なので、ひょっこりひょうたん島井上ひさしと一緒に仕事することはなかった。残念。
しかし手塚治虫は、手塚の方も辻さんがかなり作品を読み込んでいることに心動かされたか、NHKに出向いて作品づくりに加わるという話になった。
深夜0時に待ち合わせたのだが、きっかり1時間遅れてきたのだそうだ。
そこで「ふしぎな少年」のアイデアをまとめて上に話を通そうとしたのだが、SF概念が一般に理解されていない御時勢だったので「時間停止」を説明するので半年かかったとか。
●結局放映時間帯を児童局の企画と「ふしぎな少年」の企画がコンペすることになった。結果「ふしぎな少年」の企画が通るのだが、それは「なんだかわからんので次が見たくなった」という理由によるものだった。辻さんは「輪るピングドラム」を引き合いに出していた。
NHKを辞めた理由。
※誰もが映像が好きだからここにいるわけではないということに気付いた。みんな帰りたいし休みたいのに、ひとり仕事に邁進するのは周囲に恨まれると指摘される。
※所帯を大きくなると、上から人がやってくる。この上の人間の対応もしなければならない。やってられん。
(映像に)興味ないのに威張りたい頭でっかちの人間が組織に食い込んでくる。
結局名古屋に転勤を命じられたのを機にNHKを辞めた。当時民放で脚本書きのバイトをしていたが、名古屋ではそれもすぐにバレてしまうという問題もあった。狭い世界だ。
しかし、転勤を命じられたのを蹴って会社を辞めるということは、フリーになったからといって当然その会社から仕事が出るものではない点、迂闊であった。
虫プロエイケンの時代。
ここらで時間切れ。
虫プロ時代の写真。近所の駄菓子屋さんがお菓子販売に来てそのまま写っている。10代や20代の若者が外で食事とる暇もなく働いているので、駄菓子屋さんが訪問販売にきていてすっかり仲良くなってしまったのだ。ほとんどスタッフのような顔をして写っている。
エイケン時代の写真。名前聞いたことあるような面子ばかり。半村良なぞは洒脱な服装で明らかに他の面子と違う空気をまとっていた。
ともかく次回はNHKを辞めた後、ということになるのか。