中野 J'sコート |辻真先・80歳傘寿未満、なお現役。アニメ&特撮人生大回顧#3

<1回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20111212/p2
<2回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20120123/p2
1回目が新宿、2回目が渋谷、3回目が中野。
2回目は帰り道が雪で翌日積もった。3回目も雪だがぱらぱらと。


例によって箇条書き。
手塚治虫を原作にすえての「不思議な少年」をNHKでやったとき、辻さんの上司は「なんでも好きにやってください」と言っていたが、NHKの会長が報道あがりの堅物になったため、刃物持たない運動などで作品に規制がかかった。
●南条範夫さんの作品も剣をもって戦っていたため急遽柔道の達人という設定に変更して対応したが、暴力を振るうとは何事かというツッコミが入り、あまりのことに南条氏は怒りだし喧嘩別れとなったとか。
●こうしてみると今も昔も表現規制で延々と同じこと繰り返してるよなあ。
手塚治虫はめったに愚痴を言わない人だったが、「なんでも好きにやってください」といった人間が「暴力場面はダメ。爆発場面もちょっと」というに及んで「好きにやってって言ったじゃないか」という意味合いのことを漏らしたらしい。
●それでもチャンバラやりたかった辻さんは、御家騒動かなにかで悪代官と御姫様がタイムスリップして現代でチャンバラするという設定で1本作品をつくっている。
●当時は生放送なので、やってしまえば後戻りはなかったし当然編集されることもなかった。
●チャンバラ場面に「刃物をもたないように」という看板を立てかけるというエクスキューズは一応した。でも怒られた。
●映像的な試みはいろいろと挑戦した。
●「時間よ止まれ!」と主人公の少年が叫ぶと時間が止まる設定だった。時間停止の表現は、役者が不動になることで実現した。しかし風によってなびく髪の毛などはどうしようもなかった。
●ちょうどワイプという技術が導入されたときで、画面左右を別の場面として設定して中央に電柱を配置してワイプ線を誤魔化していた。
●ボールなどを投げたときに「時間よ止まれ!」といった場面では、ボールの写真を止め絵として挿入することで時間停止を表現した。
●四次元空間を主人公の少年がストップモーション風に動く場面では、NHK屋上に敷設された大きなタイルをエレベーターの昇降装置の上から俯瞰で撮影し、西日を浴びて影が長くのびた少年がゆっくり歩くことで雰囲気たっぷりの映像に仕上がった…らしい。*1
●チャンバラのロケの話。東武東上線沿線の公園?で、辻さんともう一人で撮影した。しかし子供たちが「映画のロケだ!」*2と群がったため、急遽彼らを近くの団地で走らせて、団地の上の階からこれを撮影した。
●この子供たちが走る場面は、作中でタイムスリップしてチャンバラをしている二人を見物に駆けつける子供たちといった設定で使われた。
●当時は放映中(生放送)に次の場面のアイデアが出て、それを即興的に実行してカメラがそれを捉えるというスリリングな撮影をしていた。
●長屋の場面を撮らなければならないとき、手塚治虫が畳半畳くらいの紙に今で言う場面設定を絵ですらすらと描いたのには助かった。どこに何があるのか図示するという手法、設定資料のはしりだよなあ。
●基本、撮影はすべてゲリラ撮影。なぜなら金がなかったから。
●用意したポスターなどをお店の壁面に貼って撮影。撮影後、これをはがして証拠隠滅。素知らぬ顔で去っていくなど日常茶飯事。
●愛川欣也が扮する運転手が後催眠によって運転中に眠ってしまい、助手席の主人公の少年(12歳)が運転を代わるという場面も撮影している。これは並走する車の上から車のフレームで運転席が隠れるように移動撮影しているが、それは当然子供が運転するのはマズイからで…でも少年は運転できたらしい。
●当時のドラマ制作にはSF作家が協力しているが、彼らは脚本の書き方を知らず、脚本家はSFのことを知らず。辻さんのように両方に通じている作家は貴重であった。
●SF作家集団ではエイトマン平井和正の名がまず挙がる。しかし彼は脚本家が「縮小光線によって小さくした仏像を盗み出す」というプロットの脚本を書いてきた作家に「君は質量保存の法則を知らないのか。この仏像は小さくなっても質量は変わらんのだから、仏像は盗人のポケットを破って大地にめり込むぞ」と指摘したらしい(笑。
●SF作家集団は皆若く熱気に溢れていて真面目であった。
平井和正豊田有恒半村良広瀬正筒井康隆眉村卓小松左京…。
鉄腕アトムはフジテレビ、エイトマンは“ドラマの”TBS。日本テレビは上層部というかトップに勘違いな人がいたため鳴かず飛ばず
●男どアホウ!甲子園の有名なエピソード。その人物は、登場人物の関西弁を無理やり標準語に変更させて聴視者から総スカンを食らったとか。
●後に「巨人の星」のアニメも日本テレビ系列で放映されるものの、そのトップがいたために制作はスムーズにはいかなかった。そのためよみうりテレビに話をもっていって制作にこぎつけたとか。
●TBSはテレビ制作スタッフを映画のスタッフの延長と考えて遇した。つまりどこか旅館を借り受けてのカンヅメスタイルだ。
辻真先さんの言では、豊田有恒さんの評価が高かったな。読み手としても書き手としても。
●SF作家集団はTBSの螺旋階段下の物置みたいな四畳半くらいのスペース、通称:漫画ルームに集ってエイトマンなどのネタ出しをしていた。
●全員でネタ出しというかグループディスカッションというかブレーンストーミングした後、良いアイデアが出るとその発案者が脚本を書く。その後、監督?のカワシマちゃんがコンテを切るという流れだった。
●あるとき半村良がアイデアを出したので脚本を書かねばならぬことになったがついに書けず。表紙にタイトルだけあって中身は白紙という状態で逃げたことがあったらしい。結局その尻拭いは平井和正がしたようだ。
●ともかく彼らは若くて勉強家で大真面目でSFの看板背負って熱かった。一度、平井和正豊田有恒が殴りあいに及んだこともあったという。
豊田有恒については以下を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E6%9C%89%E6%81%92
群馬出身。御三家の武蔵高校から東大理2(医学)をけって慶応医学部へ。留年が続き放校。その後、武蔵大学経済学部入学・卒業。*3
辻さんが知り合った頃は大学生だったが、東洋文学に造詣深かったとか。
山田風太郎の話。信玄忍法帖に出てくる「忍法時よどみ」が印象深かった。甲賀忍法帖薬師寺天膳の死んでもまた蘇る忍法に最も感心した。
http://www.ne.jp/asahi/toshiya/cult/ninpouchou/story1.htm
●宇宙少年ソランのときに、豊田有恒が「(山田風太郎の)忍法をやろう」と言っていたそうだ。これにより様々な超能力のアイデアが投入されたようだ。
●また当時大岡山にいた柴野拓美小隅黎)も参加している。


10分ほど休憩後、続く。
●SF作家集団の中でも、広瀬正は浮いていた印象があるとか。あとは山野浩一? なんでだろう。
虫プロが脚本家に支払っていた稿料(給料?)は5万円。手塚治虫は最初7万と言っていたが周囲が止めた。ちなみに相場は2万円。
エイトマンの作品の権利は平井和正にあった。そのためTBSはこの作品を早めに終わらせて、版権ビジネスを展開したかった。
●辻さんも脚本を書いたが、作中で登場人物が札束吸引器を使うといった場面について、平井和正から裏設定はどうなっているのか問いただされた。その機械はどこの国が発明したのか、どれくらいの予算が費やされたのか、詳細な設定を求められたのであった。
●作家たちの囲い込みも当然行われていた。辻さんたちは講談社の接待を受けて「小学館には書かないでくれ」と頼まれた。しかし「買収を受けて約束を反故にする」というのが正しい生き方だと説く。接待はありがたく受ける。その上で自分のやりたいように仕事はする。まったくもって素晴らしい。
●辻さんは作家側の権利関係の担当もしていた。東映がまんが祭りなどで作品を使いまわしたときに作家側に利益が配分されないのはおかしいといった話をしたりしたため、東映からの仕事を干されたことも。
エイトマン26話「地球ゼロアワー」の話。豊田有恒脚本。「アマルコ共和国のミサイル基地でICBMの爆発事故が発生、100メガトンの核弾頭を搭載したICBMが誤って発射されてしまう。迎撃ミサイルの網を潜り抜け、進路を東京に定めたICBMの到着時間が迫る! 谷博士とエイトマンの孤独な迎撃計画が始まる。」という話。
●これはジーン・ケリー踊る大紐育(on the town)」同様、時間制限もの。画面隅にミサイル到着までの残り時間が表示され、それは番組進行とともに緊張感を高める仕掛け。
エイトマンはミサイル迎撃のための光線銃を用意するため、刑務所に入っている女マッドサイエンティストを脱獄させ、日銀の金庫に眠っている宝石を強奪しなければならない羽目に。説明している時間がないので強引にそれらを揃えるという展開。
ソノシートの話。おいらも小さいころ怪獣の声が収録されたソノシート何度か聞いたけど、これが結構売れたらしい。辻さんがソノシートに収まる5分の脚本をいろいろ書いたとか。
朝日ソノラマの隣の喫茶店にいると担当者がやってきて仕事を依頼してくる。「締切は?」と聞くと「今」と返されたり。実際、その場で書き上げるまで、担当者は喫茶店の横の席で待っているのであった。
談話室滝沢などを利用。中にはそうした濃ゆい客ばかりで潰れてしまった喫茶店もあるとか。
虫プロで辻さんが脚本書くと、りんたろう他6人の人間からボロクソにツッコミが入ったらしい。その代わり、絵コンテがあがると今度は辻さんが好き勝手言えたらしい。こういった切磋琢磨?は他ではなかった。
●おはよう子供ショー(NET)にも参加していた。役者の脚本家も身過ぎ世過ぎのために参加しているところがあり、自由にやれたのが良かった。
●再びオバQとあの花の幽霊の話。幽霊という認識の線引きはどうすべきか。適当。ケースバイケース。
●昭和20年代後半に「河童の河太郎」という4コマテレビマンガが放映されていた。作家から4枚の紙に描かれた4コマ漫画を受け取り、これを段ボールの裏打ちをつけてパタン台という台にセット。一枚ずつコマ絵を表示するところを撮影するというものだ。
●このパタン台にセットする段ボール裏に猥画を落書きしていて、さらにたまたま表裏逆に絵をセットしたために、猥画がテレビ画像に表示されてしまったこともあるとか。それを隠すためにカメラに人間の手が映ってしまった。
●だけど、このときのテレビ契約者は全国で800人ほど。誰も見ていないのでクレームもなかった。
●蝋燭喫茶という言葉もあった。日が暮れると照明が蝋燭だったというのもあるが、どうやら恋人喫茶というか男女がムフフなことをする場でもあったようだ。
●昭和20年代というのはセロテープやマジックインキが登場した時代。セロテープの前はホチキスだけだったとか。
大塚康生の言うとおり、動かないアニメはアニメじゃない。だけど、辻さんが手がけたアニメは動かなかった(予算や技術の関係で。
オバQが画面外に移動する表現も、オバQを画面外に出して、移動を示す流線をささっと描くだけ。それでもオバQ東京ムービーが野心的に日本で日常ギャグアニメをと狙ってヒットした。
NHKがアニメ用のカメラを導入したというので見学に行った。たぶん稟議は別の理由で通したはず。それというのも導入してもずっとお蔵入りだったから。
●このカメラが日の目を見るのは、「未来少年コナン」のときまで待たねばならなかった。


今回もここらへんで時間切れ。次回はいよいよ辻真先さん80歳にならんかなという3月予定。
それはそれとして。
今回は中野の路地を抜けたところにある会場で、中野駅周辺にいろんな店があって興味をそそられた。次回もここならいろいろと探検してみたいな。

*1:当然ながらおいらは「不思議な少年」を鑑賞したことはない。

*2:当時は聴視者が少なかったのでテレビのロケという認識はなかった。

*3:学部違うけどおいらの先輩じゃないか。