新宿 道楽亭|辻真先・80歳傘寿未満、なお現役。アニメ&特撮人生大回顧#5

<1回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20111212/p2> 新宿
<2回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20120123/p2> 渋谷
<3回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20120216/p2> 中野
<4回目:http://d.hatena.ne.jp/karakuriShino/20120313/p2> 渋谷
例によって箇条書き。
だいぶ過去分と重複する話が多いか。と学会でも同様に昔話をされているということでした。
巨人の星の話から。1話が実写+アニメで目を引いた。
●アニメ立ち上げ時は、スポンサー1社で1作品1年間面倒見てた。それゆえ1社の発言に左右された。
エイトマン丸美屋がスポンサーで、代表者のお爺さんが毎回やってきて視聴率20%台のときに「視聴率30%よろしく」とふりかけを豊田有恒や辻さんらに手渡してくれたという。視聴率30%になったら今度は「視聴率40%よろしく」とやってきたらしい。社内でアニメのスポンサーやるということに抵抗のある人たちを納得させるのは視聴率しかなかったのもあったのだろう。
巨人の星大塚製薬がスポンサー。冒頭会議の席上で「20%とります!」と宣言したものだから、後々嫌味を言われた。
日本テレビの勘違い大御所の話は前回も出たので割愛。「男どアホウ甲子園」の台詞を鶴の一声で標準語に修正したため視聴率ガタオチになったという話。また「巨人の星」の企画も1年間進まず、たまらずよみうりテレビに持っていったらたちまち実現したという話。
●1968-1970年でスポ根の原作モノをやっていた時期。梶原一騎との付き合い。梶原一騎は脚本家(辻さん)に「××のキャラをもうちょっとこうしてよ」などの注文を出すことはなかった。原作は原作、アニメはアニメで割り切っていた。
●原作の展開が早くて話のストックがあるなら別だが、タイガーマスクはそうではないので苦労した。間をもたせるため、試合と試合の間のエピソードを引っ張るしかなかった。
●試合相手のマスクマンの正体も原作より先に明かさざるを得なくなり、結局原作とTV版では正体が違うという展開となった。作品のラストも違うことに。
●逆に梶原一騎の方がTV版オリジナルの登場人物を使うことも?
キックの鬼(26話)には通して携わった。
巨人の星の第一回脚本は辻さんであるとの情報が出ているがそれは嘘。甲子園へのVサイン(33話)周辺を担当された。ここでは視聴率が一週で4%アップする(二週で8%?)という状況となった。
●当時阿佐ヶ谷にあった東京ムービーのビルの窓から、列車に乗った辻さんに大声で声がかけられた。興奮した相手の言っていることは分からなかったが、手の指で「4」を表現して視聴率4%アップを伝えたとか。
●ただし川崎のぼる梶原一騎の漫画「巨人の星」の表現にはかなわなかった(と思っている。コマの大きさを自在に変えられる漫画という媒体を駆使して叙情と緊張感を醸し出し、物語展開も主人公をギリギリまで追い詰める状況を演出した。例)翌日試合なのに食中毒かなにかで部員が倒れる、など。
●今はなき新宿西口の喫茶滝沢などで脚本を書いていた。石森(章太郎?)もよく来ていた。
●同じ脚本参加の伊上勝はこうした熱い原作作品に「調子狂うんだよなあ」と漏らしていた。伊上勝などはオリジナル作品が肌に合っていた。
●モンキーパンチの話。双葉社漫画アクション
辻真先原作の「ルパン三世」ということでムッシュ甲賀という作品を書いた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312183148
●辻さんの好きな漫画家で本を出す? これも双葉社か? >永井豪には断られたが、その他は原稿を描いてくれた。トリは上村一夫松本零士、真崎守、笠間しろう…など。[該当する雑誌は漫画アクションか? ちょっと見当たらなかった]
手塚治虫原作の不思議の少年の話。最初は手塚治虫と打ち合わせしていたが、そのうち電話になり、最後は「何を止める」(時間停止場面をどこにもってくる)という会話だけになった。
●海辺で海の時間を止めたときの話し合いで、手塚治虫は漫画で海がコロイド状(ゼリー状というのが正しいか?)になっている描写をしたが、映像版では場面転換で済ました。主人公の少年は水着でTV局を走り回る羽目になり気の毒なことをした。
●小説版「どろろ」を書いたときの話。1年もつと思って書き出した作品であったが、映像は半年で打ち切り。なにせ失われた体の部位を探索する話だからそのスジからクレームが入るのは当然か。加えてどろろが少女だとは思わずノベライズしていたから、非常に困ったことに。とにかく無理やり終わらせた。
手塚治虫は昔から作品も読んでいてどう動かせばいいか検討がついた。梶原一騎には遠慮があった。ただし梶原一騎作品の脚本で、注文・苦情が来た覚えはない。
●ラブ・ポジション ハレー伝説(1985年)の話。よく分からん。
出崎統ガンバの冒険」は出版社が原作者に話を通さず東京ムービーに(映像化)権利を売ってしまったためにできた。一方で辻さんが文章を書き、絵は東映動画の方が担当、原作者の斎藤惇夫の許可もとって読売新聞日曜版で「冒険者たち」の連載をしていた。これはアニメ化まで視野に入れた仕事であった。だが「ガンバの冒険」がはじまってしまったため、企画そのものが打ち切りといった形で終結した。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~megasan/gambasite/maegaki8.htm
●「ガンバの冒険」がつまらないならともかく出色の出来だったため、原作者と意気投合して作品に賭ける意気込みは負けないものがあっただけに(悔しく)残念な結果となった。
●マンション業界(その歴史)についても辻さんは博識であった。中野ブロードウエイの頃からか。住友系がよいとの話。
小池一夫「白地に黒く死の丸染めて」(少年キング1970年)の話。小池一夫は字が綺麗であった。師匠は山手樹一郎
小池一夫の原作は、ポイントとなる点ではどのような絵を描くかの指定が入っていた。
※おいらは「小池一夫伝説」(大西祥平洋泉社)を読んでいたのに、ここらへんの話を掘り下げる質問できなかったなあ。
●「サザエさん」の話。初期はスポンサーが東芝一社だったため、発言は強かった。家電製品に新製品が出ると、サザエさんの家に置くことを要求してきた。
●制作側もプロデューサーが頑固だったため、まずエアコンを置くことはサザエさんの世界にあわないので拒否。家電製品の刷新については、いつの間にか炊飯器や洗濯機、扇風機が新しくなっているという演出で対応した。
●以前あまりに同じ場所でロケするので、辻さんが平山亨にその点を指摘したところ(たぶん特撮番組)「俺たちは歌舞伎や落語・講談をやってるんだ。誰でも知っている話を如何に芸としてみせるかを仕事としているんだ」と返されたという。時間は限られているしロケ現場なんてのはお約束のうちではないか、ということらしい。
●似たようなエピソードで、富野喜幸は「1つずつ積み上げていってドラマとしてみせる」といった意味合いのことを言っていたという。
●会場に辻さんが「こんぱるさん」と呼びかけていた女性がいた。金春智子さん(脚本家)ではなかったか。
●今回トークイベント初参加の男性は、東大で映画をやっていたが今は会社員。結婚時の仲人が平山亨氏だったとか。
双葉社「少年アクション」(1975-1976)の話。手塚治虫を巻頭に据えると編集長が言っていたので、辻さんはやめた方がよいと助言したが聞き入れられず、結局創刊号に原稿が間に合わなかったとか。石川賢「魔獣戦線」と日野日出志が参加してたことが特徴の雑誌であった。
http://www.asahi-net.or.jp/~wx5h-ktb/kenfo/maju1.html
●少年アクションの売り文句が「土曜日に出る週刊(漫画)誌」。しかし金曜日には書店配布しているであろうから土曜日にする意味はなかった。本屋に迷惑かけただけではないかとの指摘。
双葉社の思い出。辻さんが原稿届けに行ったら労働争議中で会社に入れなかった。窓ガラスには「社長やめろ」との貼紙が。
●「サザエさん」はマイナスイメージの話はつくらない。今年は台風被害で〜などという話題は盛り込まない。時事ネタを使わない。それゆえ今でも通用する。
●「サザエさん」のような日常が維持されている世界の方がよっぽど嘘。ガンダムの世界の方がよほどリアルであろう。描かれるものを選択し、変化も最小限におさえる。たとえばカツオは携帯を真っ先に使いそうなのに、サザエさん一家以外にしかそうした変化は及ばない。携帯やゲーム機器の類はカツオの友人たちまでとの線引き。
●「類型ではなく典型をつくれ」との教え。単なる物まねではなく作品として黄金パターン足り得るものを構築せよとの意味か。
●劇場作品ではなくTVのような年52回作品としてだと、制作者・視聴者・作品そのものも育っていける。そういった強みはある。
●今現在の「サザエさん」は原作でやっていた幽霊ネタなどは採用されない。作品にする前のスクリーニングではねられる。それだけターゲットが明確となっている上に土俵が狭くなっている。
●長期作品だと、作品を支えている土俵を堅持してその中でテーストを変えずに頑張るしかない。
●作品に投入するネタの線引きは、つまるところ視聴者が決めている。
●戦後すぐの「サザエさん」(漫画版?)では停電ネタが多かった。実際停電が多かったので問題なく受け入れられた。TVでは東芝がスポンサーだったため、トラックが電柱に激突して町内が停電になるなどの理由づけが必要であった。
●今は複数スポンサーなので、一社からの強引な要求というものはなくなった。
●「サザエさん」の脚本を書くとき、ネタを漫画から抽出した。当時パソコンなどないから手作り。7000-8000あるネタを人物やエピソードで分類し、使えるネタのみ抽出したところ2000ほどになった。
●しかしTVの脚本ではネタの消費速度はかなり早かった。エイプリルフール回を5年も担当するとさすがにネタが尽きたとか。
イクラちゃんの名付け親は雪室俊一?(原作では名前なし
雪室俊一はアッコちゃんの呪文も考え出している。「テクマクマヤコン
●辻さんもファンタジー作品を世に出そうとしたことがある。タイトルは「竜の住む国」? アニメックのラポート社から。しかしいざ制作のとき、やはりアラレちゃんのノベライズにしてくれと言われたとか。ラノベでファンタジーが隆盛となる以前の話だったので、そこで書いていたらまた違った展開になっていたかも。
●辻さんが脚本を書く場所はたいがい喫茶店で提出先の近くであった。昔はプロダクションが強かったから、東映などは大泉学園近辺とかになるのだが、そのうち製作会社が強くなり、それは新宿とかに事務所があるのでそちらに移った。さらにTV局が強くなるとそちらで、最後はクライアントが強くなったから銀座とかで書いていた。東京の西から東に喫茶店を渡り歩いたことになる。
●とにかくスポンサーの縛りは大変でトラブルもたくさんあった。そうしたとき近親憎悪というか、同じアニメ制作の仲間同士で因縁が発生してしまうのであった。
●創刊もせずに創刊準備号で潰れる雑誌などもザラであった。ならば半年もった少年アクションは頑張ったのでは(笑。
●「サザエさん」は視聴習慣を主婦などにつけたのが勝因。ちびまる子ちゃんも一緒か。
鮎川哲也賞受賞者の作品について。主人公がアニオタなのだが、引用作品が併記されていないので元ネタが埋もれてわからない。とらドラにしても逢坂大河ならともかく、川嶋亜美を引いてきてもすぐには分からない。授賞式で著者にすべて教えてもらうつもり。
●アナゴさんやってよ(若本規夫)とか。
●生放送は自分で放送が見れない。その上、うまくいったと思ってもすぐに次の仕事にかからなければならなかった。その点、アニメの仕事は打ち上げする時間があってよかった。
井上敏樹伊上勝の息子)の話?(コナンで脚本書いてその後来なくなってしまった)
ジャングル大帝は結局最高視聴率24%。30%いかなかったので、続くジャングル大帝 進めレオ!は26話しか制作できなかった。