C.M.B

加藤元浩のコミック「C.M.B」はミステリである。
著者の「Q.E.D」という作品と骨組みは同じで、義理堅い女子高生+才気溢れるが常識や心の機微に疎い天才肌の少年という組み合わせ、物語は謎が提示されてから決め文句が間にはさまって解決編に流れるという、その構造は一緒であろう。
Q.E.D」が20巻以上出版されているのに対して「C.M.B」は「ロケットマン」の後に登場する作品なのでようやく2巻が出たばかり。
ここまで構造が一緒に見える作品を、なぜ後追いで展開せねばならなかったのか。
それはつまり「C.M.B」と「Q.E.D」の差異のどこに注目して楽しむべきなのか、といった点が問題となろう。
思うに「Q.E.D」は確かにミステリを指向しているが、「C.M.B」はミステリが体現するあらゆるものを受け止める、そういった諦観の入った前向きさにヒントがあるのではなかろうか。換言すれば主人公の少年の立ち位置である。
Q.E.D」の決め文句はまさに「Q.E.D」であり、ミステリは謎があってそれを解くことが大切だと言っているようだ。主人公はMIT出身の天才少年で、ヒロインの事件に巻き込まれることが多い。構造的にミステリであり、ミステリはまた構造的ではある。
一方「C.M.B」に関しては、謎の解決のためにまず入館料を要求され、入館料を払う約束をすると「“驚異の部屋”*1を御案内いたします」と誘われる。これは主人公が博物館の館長という立場にあるからだ。
また「驚異の部屋」で連想するのは「ハプスブルク家の珍宝蒐集室」であり「ルドルフ2世」だ。実際、平凡社から同名の書籍が出版されていて*2、私の本棚にもある。
ではその意味するところは?
「驚異の部屋」での言葉を引用すれば「16, 17世紀の精神的ならびに文化的位相を現代(文中は20世紀となっている)の人々に明確に理解していただくには、絵画室よりも美術=驚異蒐集室の方がより適っているでしょう。そもそも美術=驚異蒐集室の本来の意図は、宇宙の鏡、つまりは世界における自然および人間の行為の鏡たることにあったのです」とある。
「C.M.B」2巻の巻末で少年が「美しいものを見たければ美術館に行けばいい。でも僕の博物館は生も死も飲み込む」と言うように、ミステリの海を自由自在に泳いできた著者がたどり着いた結果として博物館=驚異蒐集室といったアイデアを提示している。そう考えてもいいのではなかろうか。
これはミステリを前提とした確信的なFantasyを予感させるのである。


どちらにしても、作品はコミックである。
どのような定義付けも「アリ」であって「なし」でもある。
単純に「Q.E.D」と「ロケットマン」を微妙に融合した形で、つまり裏で大きな物語を動かしつつ、個々の物語はミステリの形態をとるのやもしれず、それは先の展開でのお楽しみだ。
なので、今現在の楽しみをここに記しておこう、といった次第。

*1:Wunderkammer

*2:Die Kunst-und Wunderkammern der Habsburger/Elisabeth Scheieher.