オタク is dead.

昨日のまとめ。
どのように記したものか、いい考えも思い浮かばないので思いつくままに羅列する。


少なくとも、岡田斗司夫の考えるオタクという概念は死んだ。
結論からいけばそういうことらしい。
TV「アキバ王選手権」でオタクとして勝ち残った人間が、岡田氏の考えるオタクから外れていた点。
TV「NHK 真剣10代しゃべり場」で声優オタクを認めて欲しいと声を上げる専門学校生の回の収録での違和感。*1
これらの出来事が氏の考えをまとめる端緒となったという。
では、氏の考えるオタクの定義とは?
ここでまず一般的なオタクの定義として、「Wikipedia」と「はてな」からそれぞれ引用する。
差別用語「おたく」として始まった言葉が「オタク」となり、現代の一般流布に至るまでの流れが結構詳細に記載されている。
さらに、個人的にはどうでもいい業界人のオタク定義を引っ張ってくる。
森川喜一郎森川嘉一郎「オタクは駄目な志向を持つ」
斉藤環「オタクは2次元に欲情する」
浪漫の欠片もない定義というか、面白く扱うために定義してみました的に感じるのは、まあ気のせいだろう。
一面の真実を捉えているとはいえ、いまやそのような定義で納得できるものではない。
このような論の展開は、ササキバラゴウ氏の「マンガの定義は不可能」といった文章をすぐさま想起させる。
段階を踏んで岡田氏は自分の定義をようやく告げる。
「自分が好きなものを自分で決める。それを貫くだけの知性と精神力を備えた“強い”人間」という驚異の定義だ。
なぜ驚異か?
それはまるで平野耕太「進め!聖学電脳研究部」の部長交代試験での定義そのものだからだ!


オタクの世代とは以下のようになっている。
0)50代以上:オタクという概念発生以前。
1)40代:オタク第一世代。1983年中森明夫がオタクと呼んだ対象集団。TV世代。SF世代。宇宙戦艦ヤマトStarWars
2)30代:オタク第二世代。1980年代末〜1995年の暗黒時代を奮闘した集団。オウムサリン事件・宮崎事件を経てエヴァで衝撃を受ける。
3)20代:オタク?世代。メディア混在。新旧作品混在。Net完備。すべての作品が相対位置にあるので、好きなもののみ鑑賞する傾向。
第一世代の特徴として、岡田氏は「貴族主義」をあげている。
これは「求道精神」「ノブリス・オブリージュ」「他人と違う趣味に誇りを持っている」「一般とは違う趣味なのは当たり前」という。
オタクが取り扱う専門分野はあくまで「趣味」というスタンス。
第二世代の特徴は、「エリート主義」だという。
これは「努力してエリートへの道を目指そう」が基本っぽい。「一般人もオタクになれるのだから教育せねば」「努力して勝ち組になろう」「アカデミズムと相性がよく、貴族主義とは相容れない」など。
オタクが取り扱う専門分野は「社会のツール(?)」というスタンス。
第三世代の特徴は「個人主義」だという。
個人の逃避場所としてよく機能する。アイデンティティ、すなわち自分を説明するものとしての“なにか”になってしまった。
個人を説明する何かは包括する概念では括れない。つまり共同幻想を持ち得ない。後には快楽幻想のみ残ったのではないか。
オタクが取り扱う専門分野は「私(アイデンティティであるから)」というスタンス。


男女間の違い。
一般的に女性の方が社会的な生き物。
JUNE(栗本薫ほか)>Boys Loveの流れまでは視野に入っていなかった。
が、男女間のオタクの違いの説明としては、包括した考えを受容できる男性、アイデンティティに結びつくがゆえに差異を指摘せざるを得ない女性といった話。


休憩時間になされた「吾は如何にして宮崎吾朗を好もしく思うようになりしか」という岡田斗司夫氏の語りがまさに絶品。
天才・宮崎駿の行動に爆笑し、アーシュラ・K・ル=グウィンを演じる岡田氏の演技に吹き出し、事の顛末に興じることができた。
流石だ。
ゲド戦記はともかく、宮崎吾朗は応援する」との結論で〆。


最終的にオタクという概念は泡沫のように生まれて消えたという判断なのだろう。岡田氏の考えていたオタク文化はSF同様に解体してしまった…という。SF作品やオタクな作品がなくなったわけではなく、それを受け止める土壌が確実に変質した…という言い方ができるかもしれない。
たしかEmpire of the Middle Ageというゲームで、宗教は改宗によって帰属させ、民族は同化政策によって屈服させるという身も蓋もないデザインがなされていたが、文化として捉えたとき、確かに絶滅はあり得る。
文化を守るのは本当に難しいからだ。
たとえば幼少時の風景を守ろうとして、道路や空港やダム建設を食い止めることに人生を捧げることを想像してほしい。
以上を表現して、「インディアンの子孫はいるけどインディアンはもういない」まさに至言である。
アーミッシュとか、在日朝鮮の方のように、他者との間に強固な障壁を築かない限り、その精神は死ぬといった意味だったのだ。
これが何を引き起こすのか。
もはや誰も代弁者はいない。後は自分で自分を切り盛りしていくしかない、といった指摘。
自分の好きなことは自分で守らねばならないし、誰かが伝えてくれるわけでも伝えられるわけでもない。
よってプチクリという概念にたどり着いたのだという告白。


私は単純だけどかなり厄介な人間なので、最後の場面で感動はしたものの、自分の考えをまとめることができなくなってしまった。
岡田斗司夫氏の考えを受け取ったものの、保留といった形で心の中に置きっ放しにしている状態だ。
どこかでこういった概念は輪廻転生すると呑気に思っているからかもしれない。もしくは諦観しているのか。
どちらにせよ、この日分かったことは「岡田斗司夫は熱い論客である」ということ。それで十分じゃないか。駄目?


「文化の担い手たるの矜持を持って普及につとめ、若き担い手を発掘・教育し、世の流れに消ゆる脆弱なる分野から脱却して後世に想いをつなぐべし」
[追記]05-26
ttp://d.hatena.ne.jp/kasindou/20060524#p1
より詳細なレポート。
どちらにしても上記は私のフィルターを通した文章であり、岡田氏の意図する「文化的な同族意識の希薄化」という問題意識に対して、何ほども寄与しているわけではない…のかも。よーわからーん。
[追記2]
リンク先のコメント、もっとよくわからーん。

*1:こちらは私も視聴した。視聴したときは何で支離滅裂な話をしているのだろうと思った。