岡田斗司夫の「遺言」番外編 ロフトプラスワン

●前段
または岡田斗司夫の寝言シリーズ開幕。レジュメは1枚のみ。
岡田斗司夫は子供の頃、毎日「大人になったら何をしようか」ということを考えるような子供であった。
あと一ヶ月で50歳になる現在でもそれは変わらず、一年の内の三分の一はそんなことを考えているのだとか。
言い換えれば「将来何をしようか」という計画ばかり立てていることになる。
今まではそれで身を立てたり食い扶持を得たりといった要素も考慮していたが、ことここに至っては「好きなこと」をしてもいいのではないかと思っている。
遺言シリーズも完結したし、余生というのはこんなものなのかもしれない。
で、現在やりたいことは「遺言」のようなイベントを東京ドームで(!)盛大に執り行いたいと。なんじゃそりゃ。
自分のトークライブをキャパ数万人規模の会場でやってみたいというのだから驚く。とくにロフトのスタッフに不満があるわけではないので、斎藤さんが仕切ってオーロラビジョンに貧乏くさい(笑)ロフトの宣伝映像を流して構わない。
それはそれで無茶な話じゃなかろうか。
よく目標に対して階段(中途目標)を設定しろという話はあるが、前段として何をすればいいのか見えてこない。
宗教団体とかネズミ講のごとく、コアなファンにパー券を売らせるような図式しか思い浮かばない。実際、東京ドームを満杯にするようなArtistには10000人ほどの固定ファンがいて、その布教活動でやっていってる面がある。
何でも岡田斗司夫が以前SONYの人間にインディーズからCDデビューさせようとするバンドについて話を聞いたところ「ライブハウスで50-60人固定客がつくようならデビューできる」ということであった。
インディーズのバンドにとってこれはかなり難しいみたいだ。
SONYの人の試算では、50-60人の固定客で全国発売のアルバムが5000-10000枚はけるのだそうだ。(今は流通形態が様々なので、あくまで参考数値)
だいたいにして音楽をやっている人間は同じ曲をリフレインさせてるだけで儲けるのだからズルい。トークライブは他の場所で語った話をしようものなら「それGYAOで聞きましたよ。他の話をしてください」と突っ込まれてしまう。
(無論ここらへんはあくまで冗談であろう。)
岡田斗司夫がやりたいことを職業として考えるなら、「モノカキ芸人」といったあたりになるか。先達には“みうらじゅん”とか“山田五郎”とか。いや年齢を考えるなら全然先輩ではないのだが。
山田五郎はだいたいタメ年。みうらじゅんも53かそこらなのでは?)
こういった目標に対する中間点が見えない状況を、庵野秀明らと話しているときは「バラン星が見えないですねぇ」と表現していたものだ。
宇宙戦艦ヤマトで地球からイスカンダルまでの道程の中間地点(?)に出てくる星、バラン星を会話で使うとは…。そして冥王星までの道のりさえ見通せないのに地球を発進しては、企画を進行させてはいかんということになる。
岡田斗司夫としては30000-50000人相手に話したいだけで、コアな客にパー券売らせたいわけではないのだと。
●アキバ通り魔事件*1
http://critic5.exblog.jp/8775803/ (前提としてこういった意見を私は読んでいた)
「遺言」のときのように系統だった話にはならない。
一応、「遺言」のときは、プロデュース論としても聞けたし、クリエイター論としての切り口もあった。オタク論として話が展開されることもあった。
だが今回は「寝言」なので、適当なタイトルについて話したいことを話し、見せたい映像を見せて好きなように語るだけ。投げっぱなしでも嘆かないように。
で、アキバ通り魔事件だ。とりあえずここからやってみる。
宮崎勤が東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を引き起こしたときと違って、全然当事者意識がない。
1988年の事件のときは、GAINAXの社員の誰が犯人でもおかしくないといった意識を持っていたが、今回の加藤智大が起こした秋葉原通り魔事件についてはそこまでの思い入れはない。
しかしBlogなどを見るに、今の若い世代(20-30代?)がこの事件に衝撃を受けたというのは分かる。つまりは当事者であるとの切実な思いが吐露されているということだ。
この事件は果たしてオタクというものの範疇なのであろうか。
世間から眺めたときにはオタクの事件として括られるであろうがゆえに、当事者意識がなくてもそれなりに考慮せねばならない。逆説的にその程度の当事者性しかない。


いったん話をBSマンガ夜話にとばす。
先日放映されたBSマンガ夜話では「へうげもの」「男組」(最初「男塾」と言っていた。“同じようなものじゃん!”と開き直った発言も)「ハチミツとクローバー」といったラインナップで、番組を観た人は分かるであろうが「ハチクロ」とそれ以外では番組から受ける印象が違っている。
おいらも番組を拝見して「ハチクロ」の回では違和感があった。夏目房之介いしかわじゅん両氏が岡田斗司夫の意見を押しとどめるといった場面があったのだ。それは確かに番組の存続やら取り上げる作品の幅を狭めないなど一面では正しいことなのだが、岡田斗司夫としては不満で、BSマンガ夜話として「ハチクロ」の回は失敗だと言い切る。
BSマンガ夜話で気をつけていることは
1)バラエティ番組として成立している
2)評論としての視野が必要(絶賛状態は駄目
3)番組後、取り上げた作品の売上げに貢献
といったあたり。
Amazonでの順位を注視すると、「へうげもの」「男組」は番組後順位を上げた。だが「ハチクロ」はほとんど順位変動がみられなかった。
単に発行部数の差もあると思うのだが、岡田斗司夫は「ハチクロ」が既に読んだことがある人間同士の内輪話で留まってしまった点について指摘する。
つまり、ようやくマンガ夜話で取り上げられたといったあたりから、ハチクロを正しく読んでいるかどうか、楽しく読めたかどうかが焦点となってしまう。そして絶賛状態になったがゆえに、それ以上語ることが難しいポイントに関しては積み残され、ぶっちゃけ番組後半レギュラー陣は楽をしたのだ(手を抜いたわけではないものの。
これでは未読の視聴者には届かない。
確かに切り口は難しい。「へうげもの」ならば読者に要求される教養、茶道や戦国時代の知識から切り込むことができる。「男組」ならば60-70年代の学生運動や番長モノとしての系譜から語ることができる。
しかし「ハチクロ」についてはセンス(才能)の問題となるがゆえに聞くに堪える話を展開するのは難しい。
結局のところ、いい年したオッサンが「俺は正しく読めた」大会になってしまうのだ。これでは外に広がらない。作品好きなファンだけの話だったら、番組としての価値は「?」となるであろう。
ここらへんがBSマンガ夜話の問題だと、岡田斗司夫は認識している。
今回、羽海野チカハチミツとクローバー」の前に上がっていた候補作品は、岡崎京子のものであった。いしかわじゅん夏目房之介岡崎京子が好きだというのはあるが、既に取り上げたものであり、今度また取り上げるならば政治的に難しい問題にも発展する。既に少年ジャンプ作品が取り上げてはいけないという枷があるのに、1回も取り上げられてない作家がいるのに2回取り上げられるとは…といった話もあるのだろう。岡崎京子が何度も取り上げられるに値する作家なのか、という話もある(まったくだ。その視野の狭さに、もし岡崎京子を取り上げるなら、以前夏目房之介BSマンガ夜話をお休みしたのように、岡田斗司夫もその回はお休みを頂くとMailing Listに流したら、「何でそんなこと言うのかな。みんなで仲良く番組を盛り上げようよ」とお叱りの連絡を受けたとのこと。
夏目房之介いしかわじゅんと話の合わなくなる日も近い…とまで嘯く始末。
ここまでぶっちゃけた話をするのは、今までプロデューサーなんぞをやっていて自分の発言には気をつけていたのだが、ここまで来ると一度思いっきり何でも発言してしまいたいというのもあるかも。
ともかくハチクロについては、番組内でも言及したが、根本的な構造に目を向けなくてはならない。
・天才としてのハグの才能
・仲間たちの普通の才能
この違いは明確であり、ハグの才能は著者の才能で捉えきれるものではなかった。それでも天才を描くとき、その天才の落としどころ(悩みと解決)はどのようなものだったのか。ここを注視すべきである。
夏目房之介高橋留美子を評して「登場人物が著者のコスプレ」という言い方をするけれど、キャラクタというのは作家のとある側面の強調である場合が多い。
その抱えてる問題や対処方法も作家の範疇である。とくに自らの作品を愛するタイプの作家はそうに違いない。
そして「ハチクロ」の内在している恐ろしさは、四年間の執行猶予で仲間や笑顔を得てもなお芸術を選択することで、話の要である先生を引っこ抜いて持って行ってしまうハグちゃんを描いてしまった点にあるのではなかろうか。
岡田斗司夫は、アニメ制作に羽海野チカが作品内の共同幻想を体現している様を見出したのではないかとも言っていた。
本来自分の作品をイジられることを漫画家は望まないものだとも。


こうしたBSマンガ夜話の話を経由して、ようやくまたアキバ通り魔事件に話が戻ってくる。
既に岡田斗司夫
・オタク内部に向けて話をする場合…当事者意識はない。
・オタク外部に向けて話をする場合…(世間が納得してくれそうにないゆえ)オタクの話として発言するが、言葉を濁す。
という対応をするだろう。
共同幻想が壊れたオタクといえども、象徴的な物事にはかつての連携・共感を取り戻す。
20代30代が通り魔事件に衝撃を受ける様を、たとえばコロラド州 コロンバイン高校銃乱射事件(1999年)と同様なのではないかと。これもアメリカンドリームが嘘で格差社会の歪みで起こった象徴とも言える。
事件で「なぜアキバだったのか?」といった疑問に、明らかだと思われる回答は
・(オタクが)非常に殺しやすい。貧弱だと見なされている。第三の属性(第一は「キモい」第二は「モテない」)。
・犯人にとって秋葉原が学校という空間に近かったから。暴れる場所として学校を選択する子供の意識に近い。
という2点になる。
大人の引き起こした事件であれば、怨恨だとか妬み嫉みの線があるものだが、そういった類のものではない。
世間に向けての回答は、オタクが殺しやすそうだから秋葉原だったというのは非常に分かりやすい回答であるが、我々にとってデメリットが大きすぎる。
そして秋葉原が学校という幻想空間として機能している点については、この感覚を分かってもらうには少なくとも何らかのオタクになってもらう以外にない。
ゆえに岡田斗司夫はこの件については外向けに歯切れの悪い発言しかしない。
業界の外に届く言葉と内側に留まる言葉について。
最後に「ひぐらしのなく頃に」に関する近況。ゲームを何度もやろうとしたけど、つまんなくて先に進まず。
仕方ないので小説を買ってきて読み出したが、上巻を読了したところで心に疲労がたまってどうしようもない。
登場人物全員腹が立つ。全員正座しろと言いたい。これが生理的に受け付けないってことなのか。
内部:「ひぐらし〜」が分からん自分はオタクじゃないのかなあ
外部:「ひぐらし〜」で悩んでるアンタは十分オタクだ
まあ、「オタクは何か?」という疑問が無意味化した世界では、こういった状況がただあるだけ。
●オススメ映像を視聴
岡田斗司夫が視聴しているVIDEOをみんなでみよう企画。
「世界まるごと特捜部」か何かで紹介されていたアメリカの「ポピュラーサイエンス」(Science and Technology of the 40s)を視聴する。
1930年代のアメリカ珍発明。
多機能乗用車が紹介されていて、ボディは流線型、ドアはガルウィングっぽく、未来志向。でも車重が2トンもあって笑ってしまった。
1941年の真珠湾攻撃、日本は銃後の人々が工場などに取られていく様が映像で流れる。一方でアメリカは戦地に向かった夫を待つ御婦人方に向けてエステが大流行という映像。
1945年の敗戦、日本は闇市が立って必死な人々の映像が流れる。一方でアメリカはシステムキッチンやニュータイプバスルームの映像。温度調節や石鹸をセットすると石鹸水まで身体に吹き付けてくれるシャワー完備。
まさにアメリカの家庭は幸福の象徴といった時代の映像など見ていると、いろいろ人生間違ってる気になってくる。
1940年代後半。ノーマロップという現代のステルス戦闘機のようなV型形状の旅客機の映像。客席は振動を感じないので空中にいることを忘れるほどだとか。
あと1950年代。Mechanical Brain(人工頭脳)である。
当時はカムと歯車の様々な組み合わせがロッドに取り付けられていて、このロッドを設計図通りに配置・組立てることでプログラムを構築していた。
音速に近づいたときの空気の流れを図面に曲線で表示するための機械なのだが、こいつがまた大がかりな代物。UCLAで実際に構築・運用されている映像を視聴する。
こうした機械が1970年代に電気化され1980年代に電子化され、マイクロチップに焼き付けられて現代のコンピュータにたどれるというのが信じられない感じ。
映像は最後、ロケットを飛ばすシーンに繋がるのだが、ここだけなぜかドイツから接収したV号ロケットの発射シーン。
岡田斗司夫は概念の陳腐化の速さについて指摘。つまり50年前にコンピュータ的なものを描写する場合、歯車とかが付いたロッドを組み合わせて構築するようなものをイメージしてしまっただろうということ。
わずか50年でどれだけの違いを見せていることか。
前半最後は昔のおもちゃのコマーシャル映像。Classic Toy Commercial。アメリカのミサイル発射のシークエンスを再現するオモチャ(ミサイルの胴体にはUSAFの文字が。United States Air Force)から、宇宙へと向かうアポロ発射基地っぽいもの(Man in Space)まで。
あと面白そうだったのは少女向けオモチャで、Mistery Dateというもの。双六みたいな盤の中央に扉があって、条件がそろうと扉を開けてデートの相手がそこにランダム?に表示される仕組み。
コマーシャルに登場する少女が、デートのお相手のイメージに一喜一憂している様が可愛かった。


●[後半]大爆笑、プロジェクト・グリズリー
休憩10分。

プロジェクト・グリズリー [DVD]

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とにかくこれは笑える!
グリズリー(灰色熊)に対抗するため、脅威のグリズリースーツを7年という時間、150万ドルという資金をかけて開発したトロイの冒険譚。
おいらも思わずAmazonで発注してしまったヨ!
なにせ「次々と明らかになる致命的欠陥!」という宣伝文句に悶絶すること間違いなしですから。いや素晴らしい。
シャア・アズナブル分析
岡田斗司夫のライフワークのひとつである作品分析。
今回は赤い彗星のシャアについての分析。TV版と劇場版の重要場面を抜いてビデオに編集、これを視聴しつつ解説を聞く。
テーマは「キャラと人物:シャアは実は傷つきやすい青年として描かれている」といったあたり。
まずキャラという捉え方について。
ケロロ軍曹などを引き合いに出すまでもなく、出来事が登場人物に変化をもたらさない、つまりは成長も葛藤もないのを「キャラ」としている。
ドジッ娘だからドジをするのであって、彼女の内面がこれによる葛藤、ドジッ娘からの脱却を志向、キャラからの脱却といった展開を見せることなどはない。
こういった描き方には富野由悠季は否定的だ。
だが、オタク系の視聴者はとくにキャラとしての捉え方、表層で留まるがゆえに安定する関係性に縛られる。
では機動戦士ガンダムにおけるシャアの描かれ方はどのように変化していったのであろうか。
まずはガルマとシャアが友人付き合いをしている場面から。シャアはもともと家族の敵討ちを主眼としており、ガルマは討たねばならぬザビ家の男であった。
そのガルマは姉のキシリアを慕い、イセリナとの恋もあり、実に人間的に描かれている。これを裏切るのは相当に精神的なプレッシャーに違いない。
ガルマが戦死する場面は払暁であり、夜間戦闘がようやく明けてくる青空の下で散ることで、より残酷な死に様として描写されている。
散華する場面でのイセリナの絵は表示時間が長すぎるので、思ったような絵が上がってこなかったか、ここで全体の時間調節したのだと思われる。
また、この後のガルマ戦死の報に接するホワイトベースの描写に、セカイ系作品にはないガンダム世界の広がり奥深さを見いだせる。
主人公が直接歴史的な事柄にからむセカイ系の手狭感に比して、ガンダムではまずガルマを直接殺したホワイトベースの面々にその自覚がない。それはガウ攻撃空母にガルマが搭乗していて特攻をかけたなどという事情を知らないからだ。さらにはギレンの演説時には時間が経過しており、その発言に対してガルマを殺した事実に当事者たるの意識なく無責任にザビ家の独裁への義憤を語ることができるのである。こういった登場人物間のすれ違いを描きつつ、視聴者にはすべてが分かっているような、大河ドラマの感覚が物語に深みを加えている。
それはともかく、ギレンの演説に対するシャアの有名な台詞「坊やだからさ」について言及。
岡田斗司夫も20歳くらいのとき、初見では「ガルマがガキだったから」死んだのだという意味としてとった。
だが実は違うのではないか。
シャアは家族を殺されたその恨みで戦っている。その彼がザビ家に同じ思いをさせようと、親友でもあったガルマを手にかけた。
だがその結果、ギレンはどういった反応を見せたか? ガルマの死をジオンの士気高揚のために利用しているだけではないのか。
絵面としては、酒のグラスをイライラと弄ぶシャアの様子の後、グラスを煽って酒を飲む描写となっている。ここまでの手間をかけて伝えたいこととは何か。
それは「坊やだからさ」と言うしかないシャアの惨めさを表現しているのだ。
そして酒に逃げているということは、ガルマを殺してしまったことを悔いていることに他ならない。
この後、キシリアの誘いに乗るシャアであるが、自分のやったことを悔いている自分を認めず正当化するには今の流れを加速するしかなく、ミイラ取りがミイラになる塩梅で、もはやシャアがギレンになっていく過程を踏み出したことに他ならない。
TV版と劇場版を比較するに、シャアがキシリアキャスバルだと指摘される場面については劇場版でより明確にシャアの運命が決定される様を追うことができる。
仮面をはずしてカメラ目線で喋るとき、登場人物は真意を語る。シャアは本意として、ガルマ殺しを認め、キシリアからの断罪なり何なりを受け入れる姿勢で臨むのだ。
ここで語られる「ガルマ様の時…むなしくなりました。キシリア様流に言えば、復讐の後に何の昂揚感もなく、ただむなしい自分を見つけた時、おかしくなったのです。自分に笑ったのです。」という台詞が、そのまま「坊やだからさ」の台詞を指し示していることが明らかである。
ここまでの覚悟を見せたシャアであったが、キシリアの反応は彼を絶望に叩き込む。
キシリアはそんなシャアを「かわいいじゃないか」と評して、弟を殺した有能さを自分のために活かすかどうかといった観点でしか話さない。
劇場版では再び仮面をつけて心を閉ざし、ギレンを好かないという暗殺教唆といった台詞まで聞くことになる。ガルマが慕っていた姉の本心がこれでは、もはや罪業はみずから断つ以外にないと思い固めても無理はなかろう。
セイラとの別れのシーンも劇場版はさらに明確な意図をもった描写がされている。
アムロくんが呼んでいる」と最後の言葉を投げかけたときに、セイラの視線が一瞬シャアから外れるといった描写をすることで、シャアは妹を置いてゆけるのだ。TV版ではここらへんの流れが冗長である。
結局のところ、細部ではより演出意図が明確になった劇場版であるが、岡田斗司夫はTV版のシャアが死んでしまったであろう結末の方を美しいラストだと評価している。
劇場版ではシャア人気のために、シャアがキシリアをバズーカで撃ち抜いた後ザンジバルがそのまま誘爆して轟沈する様が描かれる。それどころか、シャアが生存している可能性を織り込んだりしている(注:私は劇場版ラストを覚えていない。たぶん未視聴。
TV版ではシャアはキシリアをバズーカで撃ち抜く場面の後、連邦軍の艦砲によってザンジバルが轟沈して、戦争の中の一場面として描かれる。
アムロは己の帰る場所をホワイトベースクルーの中に見出し、シャアは最後に「ガルマへの手向け」という言葉があった通り、己の復讐に幕を降ろすべく、キシリアを討ち果たした場所を死に場所とすることで対照的な決着こそが「機動戦士ガンダム」の最後とするに相応しいものなのではないか。
この物語をシャア人気により、シャアをキャラとして捉えた人々に煽られて富野由悠季は「Zガンダム」「ZZガンダム」という流れを制作してしまう。
だが、こういった分析には正解はない。
もし岡田斗司夫が指摘した通りの流れでガンダム世界が進んできてしまったのだとしても、いまやガンダムが様々な人々に影響を与えその中で発展して大袈裟に言えばキリスト教の変遷のごとき展開を見せているのが現実であろうから。
そしてこうした話を富野監督本人に語った岡田斗司夫であるが、富野さんが怒りだしたというから事実どうあったかなど意味のないことなのかもしれない。
ただ理系の岡田斗司夫としては、“単純な理屈で多くの事象が説明できる仮説”をもって、対象を分析することの面白さには抗し得ない…といったところか。
On Your Mark宮崎駿の宿業
1995年 On Your Markジブリ実験劇場(原作・脚本)。
おいらは視聴済み。そのときは宮崎作品にしては随分とGame的なつくりだと思った(Bad EndingからGood Endingに繋げてるのかと思った)。


岡田斗司夫はこの作品のエゲツなさを抉り出して指摘していく。
その前提として、チャゲ&飛鳥の"On Your Mark"をベースにPOP-MUSICを映像作品化するゆえ、リフレイン(繰り返し)を表現のベースにしている。作品は音楽にならって少しずつアレンジして繰り返すという流れになっている。
まず岡田斗司夫が指摘するのは、虐殺側・権力側に視点があるということ。
95年はオウムのサリン事件などあるが、宮崎駿庵野秀明エヴァンゲリオン・95年)・押井守パトレイバー, 89年93年)に対抗意識があったとする。
とくに押井守に焦点を絞った対抗作品としての色合いが濃いという。押井は権力側の視点・人の暗黒面への言及といったあたりを“確信犯”として映像作品に織り込むことに特徴があった。
そこで大人気もなく「確信犯とはこういうことだ!」と斬り込んだのが「On Your Mark」という作品なのである。
まず作品冒頭で描かれているのは“チェルノブイリ事故によってコンクリートで固められた施設”だと喝破する。
人気のない街並みは放射能汚染されているがゆえで、人々はドームの中でしか生きていけない状況になっている。
街の情景を止めてみると、崩れた鉄条網、放射能汚染地域であることを表す標識が描かれている。
当然、原子力発電を利用している電力会社がスポンサーしている番組なぞでは放映できないにも関わらず、今までTVで二度ほど放映されている様子。つまりスポンサーも描かれている内容に気づいていないのだ。
つーか、宮崎駿はこれだけの描写で十分に説明してると言うのだろうけど、「わかんねーよ!」(会場全員の思いを岡田斗司夫が突っ込んでくれる)
ともかく冒頭から物語を追っていく。
最初に令状を見せることもなく強行突入する権力側の治安部隊と思しき兵士たち。対する宗教団体は抵抗・無抵抗を問わずに虐殺されていく。
AKIRA」も「パトレイバー」も、この宮崎駿の本気にはかなわない。
とくにチャゲ&飛鳥の歌詞が画面外に表示されると、いかにヒドイのか実感できる。歌詞の意味合いをある意味正確にトレースしているあたり並ではない。
しかも直後宮崎作品にはあり得ない、目を見開いた女性の死体が登場する。
この本気度は狂気度と紙一重だと認識できる。
同時上映が「耳をすませば」だったというから、何か偏執的なアンバランスさを感じずにはいられない。
で、女性の死体の背中を兵士が掴んで持ち上げる場面が、次の妄想場面への伏線となっている。背中をつかむというのが翼をもった少女のメタファーであろう。
最初の妄想は翼を持った少女が画面中央に表示されるところ。
これが妄想だというのは、描かれ方として最初に少女以外は存在せずに後から主人公たちがフレームインしてくるというあたりにある。
この世界では(放射能汚染された)外の世界を行くには、専用車でなくてはならないはず。ゆえにアルファ・ロメオのオープンカーで戸外を走っているのはどれも妄想の類だということになる。
On Your Markという歌にも言及。チャゲ&飛鳥の歌はどれも「やろうと思ってできない」後悔と未練に満ちた童貞の歌。これを正確に作品に反映している。
すなわち、実際は宗教施設にいた女子供問わず虐殺して、誰一人助けることもできなかった。誰かを助けようと行動することはなかったのだ。
だから、放射能で畸形として背中に羽根を持つ少女をみつけて、彼女だけでも助けて…と妄想の翼を広げることにしたのだ。
岡田斗司夫曰く「童貞の味方」チャゲ&飛鳥
現実は主人公たちは飲み屋で鬱屈している。せっかく生存者として妄想した羽根付き少女も本部に連れて行かれる。これを救出して空に返してやろうという物語を展開させるのだ。
主人公は施設のハッキングを行い、相棒は警備システムを無効化させる装置を作り上げる(この場面、なんとなくルパン三世を連想した。
だが、妄想力の限界か、救い出した少女を車に乗っけるシーンで、少女の足は硬直しており死体だということを暗示している。これが生きていれば、足は重力方向にしなだれるはずなのだ。
さらに車で逃走する場面で抱きしめた少女の目は見開かれており、最初の死体の目と同じ死んだ瞳をしている。そして脱出劇は一度失敗する。
こんな妄想では駄目だ。
もう一度最初から妄想のやり直し…ということでアレンジされた物語のリフレインが始まるのである。
いくら何でもそれはないだろうという車の飛翔能力によって建物に追突することで、彼らは追手から逃れるのだ。
車が建物に突っ込む場面は、冒頭の宗教施設への突入と対になっており、岡田斗司夫の見立てだと同じ突入速度であろうとのこと。
そもそもあの翼面積で少女が空を飛べるなぞ、宮崎駿は少しも信じておらず、それでいてこれだけの映像を組立てられるというのは一体どういうことなのか。
少女奪還の場面が妄想だというのは、そこだけコミカルで前後の状況が唐突に切り替わる点をもってしても分かる。
さらに死の世界である屋外を、オープンカーで背景に原発のサイロを背負いつつ走る不気味さは何とも言い難い。
このような童貞の妄想を無くせないのは、これがアニメ制作といった現実のやるせなさと本質的にあまり変わるところがないゆえだ。
現実に対しての無力感が強ければ、または二律背反な思いを抱く人ほど、こういった切実な妄想に多くの意味を見出すのであろう。


それはともかく話の最後は羽根付きの少女は天に帰るも、主人公たちは無防備に戸外に出たがゆえに最後オープンカーはHappy Endのお約束である“どこまでも疾走していく”場面ではなく“道の路肩で停まる(おそらくは死に絶える)”Bad Endとして描かれる。
アニメの見方も“本当”はないのだが、それでもこの作品は「宮崎駿」「主人公二人が宗教団体を虐殺する組織で仕事を完遂し、飲み屋で鬱屈する」「羽根付き少女の生存から一連の妄想を展開する」という三重のレイヤーを持っていると言える。
とくに宮崎駿というレイヤーを考えるに、作品に対する愛と作品は評価されるも真意が伝わらぬ現実に二律背反な思いを抱え続けている様に心が動かされる。
クリエイターとしての行き詰まりを今も抱えつつ、「嘘の少女を空に帰すくらいしかできない。そんな妄想しかない。これを作品として提示してみんなで観るのが精々だ」といった凝縮された思いがサラリと描かれている。
つまり宮崎駿は現役バリバリだということだ。それはとても苦しいことであろうけど。(息子は全然苦しんでない、とも。
・アニメをつくるという行為
・世間一般での評価(少女、メカ)
On Your Markの映像化という仕事
すべて満たして提示していたのか。驚愕。
これに対する押井守の本気の反撃はまだ観ていない。ゆえに「スカイ・クロラ」にはちょっとだけ期待?
●質疑応答
1)On Your Markで主人公二人が少女を救出するためにハッキングなどする場面で花束が登場するが、この意味は?
それこそが妄想の証拠。
酒場で二人が鬱屈している場面で、背後にお品書きが表示されているが、生ものがほとんど入手不可能な状態だと思われる。
2)BSマンガ夜話ハチクロ」の話
芸術家の周囲は不幸。
ピカソの周囲にいた女性は、ピカソから「女神か下女」といった極端な認識のされ方をされた。それが原因か10人以上が発狂している。
唯一生き残った女性を題材に、「サバイバル・フロム・ピカソ」といった作品ができたくらい(Googleで検索かけたけど出てこなかった。
アマデウスサリエリの話もあったが、要するに才能ある人間をその才能が分かってしまう人間がいつまで許容できるのかということ。
しかも才能ある側は、はっきりと芸術を選択した上に大事な先生を連れて行ってしまうのだ。それでも友人と言えるのかどうか。相当怖い話なのではないか。
[2008/07/17 追記]
出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

宮崎駿「出発点」に収録されている1995年のアニメージュ・インタヴューでは、「On Your Mark」がチェルノブイリ並の放射能汚染の世界でのエピソードだと宮崎駿本人が述べている。
情報通の人間はこうした記事を読んでいるであろうから、岡田斗司夫氏の「On Your Mark」解題を冷静に受け止めていたのかも知れない。

*1:情報収集もまともにしていないので、そこらの評論家と変わらないことしか言えない。そのようなExcuseを入れていた。