新日曜美術館:高島野十郎

ちょっと感動したので、記す。
1890年-1975年、福岡・久留米生まれ。東京帝国大学・水産学科を首席で卒業すると、周囲の反対を押し切って画家の道を選択。以後、死ぬまで写実画家の道を歩み続ける。
家族を持たず、画壇とも関わらず、まさに孤高の人生。
「生まれた時から散々に染め込まれた思想や習慣を洗い落とせば落とすほど、写実は深くなる。写実の遂及(ママ)とは、何もかも洗い落として、生まれる前の裸になること。そのことである。」
凄い人生だ。
末期の句は「花も散り世はこともなくひたすらに、ただあかあかと陽は照りてあり」
自分の視線をどのように扱うのか、どうやってものを見るのか、思い定めるのが人生なのかもしれない。そう思わせる。
写実としての核を外さなければ、すなわち空っぽが描ければ、描き手は想いの多様さを結果的に伝えることができ、受け手は多様な受け取り方をできるがゆえに豊かな作品との出会いになる。
ゲストが言及していたけど、孤独を引き受けて真摯に生きる個人の人生を受け止め得る周辺・世間であるか、というのは確かにあるな。まあ、望むべくもないというのもあるけど。
さらに四年間縁の下に捨て置かれた油絵「雨 法隆寺塔」を修復する話は、壮絶の一言だ。朽ち果てて修復不能でもおかしくない状態であったが、調べてみると画家の作品保存の工夫が奇跡の修復を可能にした。
絵を保護するためにキャンバス裏に緑の絵の具を塗ってコーティングしていたり、油絵で細い線を引くのは困難で固着力のない画材を使ってしまうものだが、この絵では損傷を受けても絵の具が剥げない工夫がしてあった。
そもそも制作期間が17年間ってのは、凄すぎる。
とりあえず思いつくままに。