週間アスキー

神足裕司氏のコラムに考えさせられる。
「…言葉が良い仕事をしたから、その言葉が流行った時点における世の中は変わり、あるいは消えた。言葉が役割を終えたのだ。逆にいつまでも残る言葉は、みなの強い怨念を背負いながら…」というあたり。
この考え方を敷衍するならば、中二思考というものも役割を終えたら本来は消えるはずのもので、いつまでも残っているのはまさしく「業」ということに。なんだ、常々思っている結論と変わらん。
「世に倦む日々」のサイトでも、今年の漢字が「変」だったのは日本人が経済ではなく政治を「変えなくては」という気分にあるからと分析していたが、神足氏は「変わらなきゃ」と連呼していていまだ変わっていないから言葉そのものが残っているのだとしている。
それにしても同じ文章の中で、40歳前後の独身女性が他の世代の日本人がシステムに奉仕するだけの奴隷となる中で、文化をしていると思えた…ってあたりは「なんだかな」と思う。“優雅な生活は最高の復讐”なのかもしれんが、それ自体他を省みず病んでいるって意味では、中二思考と大して変わらんのじゃなかろうか。*1
まあ、最後の「いい加減だから強い」というのは、島本和彦無謀キャプテン」的に漢の三箇条と(俺的には)ほぼ一緒かと。「それでも」「それならば」「だがしかし」。要するに後付先付け(理由)どのような流れも自分の中で如何様にも配置・咀嚼できれば、それはそれで世はこともなしである。

*1:“文化”の使いどころが違うのかもしれんが。というか、コラムなんだから細部に引っかかるのはスルーするのが一般的か。