自宅>呉

新幹線が9:30発なのに6:15頃に家を出て自走、7:30には東京駅についてしまうという。
朝飯はおにぎりに味噌汁、喫茶店で670円(高い!)のカプチーノを飲んで時間をつぶし、ようやく新幹線に搭乗。車内で買っておいたサンドイッチを食べる。
9:30 のぞみ21号発
9:36 品川
9:46 新横浜
11:12 名古屋
11:50 京都
12:05 新大阪
12:22 新神戸
12:25 岡山
13:31 広島
早速広島から呉に向けて自転車で走り出す。山越えルートと海沿いルートがあるみたいだが、海沿いルートを選択。
天気は良かったなあ。おそろしいことにほとんど下りであった。
呉に到着して少し時間があったので、入船山記念館(呉鎮守府長官公邸)を訪れる。


▼東京駅

▼ちょうど日章旗を掲揚している最中だった

女性職員がよっこらせという感じで。
▼広島駅

▼広島から呉への海岸道

意外と距離はあった
▼呉駅

▼柚子胡椒そば

細うどんにしとけばよかったか
▼入船山記念館

▼軍港で使用されていた時計塔

▼旧火薬庫

中は絵画の展示品が。
▼呉鎮守府長官公邸

▼旧呉鎮守府司令長官官舎

明治22年(1889年)、洋風木造総2階建の軍政会議所兼水光社が建てられ、明治25年(1892年)からは長官官舎(初代〜6代)として使用されましたが、明治38年(1905年)の芸予地震で崩壊したため、同年、その資材を利用して現在の建物が建てられました。
その後は、昭和20年(1945年)まで長官官舎(7代〜32代)として使用され、戦後は昭和31年(1956年)まで進駐していた占領軍の司令官官舎として約10年間使用されました。
その後呉市に引き継がれ、昭和41年(1966年)に「入船山」は呉市の史跡となり、昭和42年(1967年)から一般公開されました。
財団法人文化財建造物保存技術協会の御協力により明治38年(1905年)当時の資料が発見されたことを受け、平成3年(1991年)から平成7年(1995年)にかけて調査、解体、修復事業を行い、明治38年(1905年)の建築島嶼の姿を復元したものです。
この建物は木造平屋建で洋館部と和館部からなっています。洋館部は英国風ハーフティンバー様式を取り入れ、屋根は天然スレートの魚鱗葺きになっています。
▼大和の模型

この街にはどれだけ大和の模型があるのやら
▼入口

錨のマークの入ったステンドグラスが素敵
▼応接室

▼壁紙見本

▼客室

▼食堂

当時の会食の献立(例)。手前三品は「ローストビーフ」「レモン・アイスクリーム」「タピオカプリン 黒豆添え」
▼和室もある

▼離れ座敷

田舎のお祖母ちゃん家って感じだ。
▼修繕跡

昔のマンガ(松本零士)で、よくガラス戸が修繕された表現があるけど現実に見る機会はあまりない。セロテープ…なんだろか?
▼国産天然スレート

洋館部の屋根には、日本瓦ではなく「天然スレート」が並べられています。天然スレートは自然石の粘板岩を加工して作ります。薄くはがした板状の石を長方形に整え、両角を丸くして屋根に敷き詰めると魚鱗葺きになります。
明治初期の洋風建築には輸入品が使われました。国産天然スレートの使用は、政府派遣の屋根職人、篠崎源次郎が明治21(1888)年にドイツから帰国して、スレート葺きの技術を日本に伝えたことからはじまりました。
この時、良質の硯の原材料として昔から知られた宮城県石巻市雄勝町産の「玄昌石」が代表的な国産天然スレートとなりました。
その後、国産天然スレートは明治・大正の代表的な洋館などの屋根や壁に使用され、建築当時の姿に復元された東京駅などに見ることができます。
▼粘板岩

▼入船山郷土館

1階は職員の事務室だが2階は呉鎮守府の歴史をテーマとした展示室になっている。歴代の呉鎮守府司令長官の写真とかあって南雲忠一の写真も飾られていた。
おいらが閉館直前に到着したときには、高校教師と思しき男性が私服姿の学生男子3人女子2人に説明しながら見学していた。
こうの史代のポスター

やはりというかこういう仕事もされてるのですな
▼夕食

あなご重と茶そばのセット