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大和ミュージアム

天気は良かった。9:00開館なのでそれにあわせて移動。お昼には駐車場もいっぱいになるくらいの盛況ぶりだった。
▼車道を通らずに行ける

ショッピングセンター2Fをそのまま突っ切れば歩道橋がそのまま敷地内まで通じている。
写真は歩道橋から「てつのくじら館」を捉えている。左手の大和ミュージアム前に見えるのは戦艦「陸奥」の主砲とスクリュー。
大和ミュージアム入口

宇宙戦艦の方も…
▼展示パネル 戦艦「陸奥」に見る建造工程








①設計…要領書に基づき製図を行う。
②起工式…キールに鋲を打つセレモニーを行う
③鋼板加工作業…プレスで鋼板を曲げる作業を行う
④鋲打ち作業…?を熱し、穴をあて、鋲打ち機で打つ作業を行う
⑤船体工事[1]…艦底部を建造する
⑥船体工事[2]…艦首部を建造する
⑦船体工事[3]…艦尾部を建造する
⑧船体工事[4]…最上甲板を取り付ける作業を行う
⑨シャフトブラケット取付作業…スクリューのシャフトを受けるブラケットの取り付けを行う
進水式…船に名前を付け、海の上に浮上させる
⑪艤装…艦橋や煙突など上部構造物を取り付ける
進水式とは何か?


進水式とは、船の名づけである命名を行い、船が海上に浮かぶかどうかの実験を兼ねた船の誕生を祝う式典です。呉海軍工廠では、明治30(1897)年10月27日に通報艦宮古」が初めての進水式を行い、昭和20(1945)年8月までの間に未成艦6隻を含めた139隻の艦艇が進水しました。進水方法は、大きく分けて船台進水、横向進水、船渠進水の3種類があります。
●船台進水
船台進水とは、船台から船が滑り海に浮上する進水方法です。船台とは、海面に向かってゆるやかに傾斜している台で、艦船を建造する施設です。船台中央には盤木があり、盤木を挟んだ両側に進水台をつくります。
進水直前、すべての盤木、支柱を外す作業が行われ、「トリガー」という滑り止め金物で船を一時的に止めておきます。進水式で、支綱切断が行われると同時にトリガーが外れ、船が海へ滑り出します。
●横向進水
進水の方法は船台進水と同様であり、ただ船が進水海面に平行に置かれてつくられ、横滑りして進水する点が異なります。この方式は水面に進んだ後の抵抗が大きく船がすぐ止まるため、河川のほとりの造船所で多く採用されていますが、進水後の船体の動揺が激しく、また進水後船が船台の端に打ちつけられる危険もあります。
日本ではあまり見られませんが欧米では多用されている進水方式です。
●船渠進水
船渠進水とは、建造ドック内に水を注入して船を浮上させ、曳船によって海へ船体を曳き出す進水方法です。
船渠進水は、建造しているドック内でそのまま船を浮かべることができるため、進水方法としては、事故が少ない、確実な方法といえます。
(例)戦艦扶桑、空母赤城、空母蒼龍
▼戦艦「扶桑」進水記念の品

▼軍艦「青葉」進水記念の斧

▼支綱切断とは

支綱とは、進水式において、船体と進水式台をつなぐロープ(支え綱)のことです。
支綱の切断を合図に、船が海へ滑り出します。
「支綱切断」は、船を船出に導くという綱切りの儀式なのです。
支綱切断は、欧米では女性がその役を担うことが多いのですが、日本海軍では、工廠長、つまり男性が行うこととされていました。
進水式に使用した鉞(斧)は、式が済むと支綱切断者に記念品として贈られます。
また、進水式は船の誕生にあたるので、そこで使用された支綱は、安産のお守りとして珍重されています。
駆逐艦霰進水記念絵葉書のたとう(包み紙)にある「支綱を切断すると艦が滑り出す説明」

「工廠長のふりかざしたる銀斧は八か月の苦心をこの一揮にこめて切断台上の繋索をはっしと切る」(国定小学国語読本巻十参照)と下図(欄外)中紅白の支綱(イ)は切断せられ白色の把輪は其の右方白色柱内上部に吊るされたる朱色の重錘の落下によりて左方に回転し之に取付けたる緑色の水圧弁は開かれる。
此の水圧弁は最初は赤色の管(ロ)-(ハ)内を赤色の矢の方向に毎平方糧につき100キログラム*瓦に千と書いてキログラム*の水圧力にて進水室の中央両舷に取り付けられたる水圧「ドリツガァー」と称する水圧筒に水を送り恰も(あたかも)鉄砲の引き金のような金物(右端図中赤色の棒で下に下がっているもの)を押して滑り台が滑り出すのを其の上方の突起物で止めているのであります。
今此●が左に回転して開かれると今迄押していた水は下図黒色の矢(印)(ニ)の方向に戻って来て緑色の管(ホ)から逃げ出することになる、すると突っ張りが引き込み引き金が外れて艦は勇ましく滑り出すのであります。
▼戦艦「加賀」進水記念絵葉書

▼「比叡」進水記念の槌

巡洋戦艦「比叡」進水記念の品

艦名は、京都府滋賀県境にある比叡山に由来します。
金剛型2番艦で、のちに大和型戦艦の見本艦として実験的な改装がおこなわれました。
槌のそばにある桜の花形をした道具は、支綱切断時に使用した鑿の頭に付けるキャップです。
スプーンは、進水レセプションで出されたもので、料理の取り分けに使われたものです。
▼「比叡」進水記念の盃

▼「比叡」進水式レセプションで使用されたスプーン

▼軍艦千歳命名

▼空母龍驤進水記念

▼昔の龍驤

伊号第73潜水艦 進水記念の銀製シガレットケース

蓋の裏には、進水年月日、艦名、建造場所が刻まれています。
▼「千代田」進水記念の徳利と盃

描かれている水上複葉機に趣がある
工作艦「明石」進水記念の品

艦名は、兵庫県の明石の浦に由来します。「明石」進水当時、戦局の拡大が予想されていました。
そのため「明石」の進水準備は、灯火管制のもとでいかに建艦を進めるべきかを調べる実験を兼ねていました。
作業用灯火が外に漏れるのを天幕を張ることで防ぐ方法が考えられ、天幕の色や厚み、灯火の照度などいろいろな比較が行われました。
▼「翔鶴」進水記念絵葉書

航空母艦「翔鶴」進水記念の品

艦名は、「天翔ける鶴」を由来としています。
進水式開始直前、突風を伴う豪雨になりましたが、中止はせず、悪天候の中進水しました。
しかし、滑走中に強い横風のため艦が揺れ、艦尾が固定台を離れた直後、固定台と滑走台がこすれあって「ガターン」という大音響が発生し、関係者をはっつさせましたが、大事には至りませんでした。
▼艦艇進水年表

大正十年(1921年)から記載されてる。
駆逐艦皐月(1925年), 駆逐艦文月(1926年), 駆逐艦叢雲(1928年), 駆逐艦綾波(1929年), 駆逐艦曙(1930年), 駆逐艦電(1932年)あたりが艦これに登場しているか艦艇か。
綾波の横に小さい枠があるのは「砲艦二見」って書いてある。
▼客船「あるぜんちな丸」

大阪商船の南アメリカ東岸航路に就航した貨客船です。
優秀船舶建造助成施設(国防強化のための政府補助金)により、戦時、短期間に改装して特設航空母艦として使用する「空母予定艦」として計画されました。
昭和14(1939)年5月に南アメリカ東岸航路に就航しましたが、その後、第二次世界大戦が勃発、4航海を行っただけで、昭和18(1943)年に改装、航空母艦「海鷹」となりました。
同じく優秀船舶建造助成施設で建造された「新田丸」も、昭和17(1942)年、呉海軍工廠で改装、航空母艦「冲鷹」となりました。
▼空母「赤城」模型


▼空母「瑞鶴」模型



▼鋲打ち

ジャムリベッター(左)は49kg, 譩鋲ハンマー(右)は32kgの重量があります。
持ち上げるだけでも大変な機械ですが、作業を行う場所はせまく、熱した鋲を両側から打ち合うので、大きな音が鳴り響きます。
しかも、船体強度材を結合する鋲打ちなので、検査も厳しいものでした。
このように譩鋲作業は、心身ともに過度の負担を強いられる重労働であり、1日にせいぜい60〜70本が限度でした。
▼特大型譩鋲ハンマー及びジャムリベッター

通常の艦船で使用する鋲は、最大径15mmが普通でしたが、大和型戦艦では舷側甲板など36-40mm径のものが多く、材質も高張力鋼であったため表裏合計4人がかりで特製の大型鋲締機を使用しました。
▼進水の制動と停止

「武蔵」進水の最大の難関は、対岸までの距離635mの手前で停止することです。
左右両舷に260トン合計520トンの制動用の鎖と錘を搭載し、滑走距離340m付近で重量抵抗100%となるように計算されました。
進水開始から505.8mで完全に停止しました。船体重量に耐え、重心が大きく移動せずに無事進水しました。
▼戦艦「武蔵」の進水台

巨大戦艦の重量を転倒しないように支えながら、固定台の上を長さ213mの滑走台が滑ります。
船体とともに固定台を統べるために滑走台の艦首、艦尾部分は、船体形状に沿うようにつくられ、船体と強力に結束されています。
滑走台は船体に取りついたまま進水し、艤装岸壁で取り外されます。
▼砲塔運搬艦の建造

海軍工廠砲熕部から三菱造船所まで46cm主砲身、3連装砲塔を海上輸送するため専用の特務艦が建造されました。
基準排水量10360トン載貨重量6000トンの砲塔運搬艦「樫野」です。
主砲身160トン、砲塔旋回盤277トン等を運搬します。
また、甲鉄類は呉海軍工廠から三菱長崎造船所に、昭和12(1937)年10月16日から昭和16(1941)年5月12まで51回にわたり輸送されました。
▼船台進水の技術

大和型戦艦建造の計画が決定すると昭和13(1938)年8月完成をめどに三菱長崎造船所で最大の船台、第二船台の改造が開始されました。
船台の拡張、補強が行われ、延長されたガントリークレーンは、長さ323m幅45m高さ36m最大75トンの楊重能力を備えました。
「武蔵」の船体が完成し、進水時船体と船台の構造用鉄柱との間隙は、わずか80cm程度でした。
▼進水と軍機

第二船台の対岸には、イギリス・アメリカの領事館がありました。
「武蔵」進水時の機密を保持するため、領事館前に木造2階建の倉庫を建設、進水前日までに屋根と壁をとりまとめ、どうにか視界を遮断することができました。
また、長崎湾は狭く後背地から湾内を望見できるため、3カ所に監視所を設置し、造船所が一望できるグラバー邸や香港上海銀行長崎支店などは買収し、造船所対岸における機密保持監視の拠点としました。
▼三菱長崎造船所第二船台の増強

大和型第二番艦建造を決定するには、船台進水が可能か否かの検討が必要でした。
客船「八幡丸」進水後、各種試験(耐圧、沈下、滑走試験等)が行われ、多数の進水計算、予備実験、進水台の試作等とともに、重量3万トン以上の船体が進水台を滑走し、艦尾が海中で浮揚する瞬間、艦首部の船台に最大の荷重がかかる部分の基礎工事から補強されました。
ガントリークレーンは延長及び補強が加えられました。
巡洋戦艦「霧島」の進水

大正2(1913)年12月1日、巡洋戦艦「霧島」が船台進水しました。
イギリスで建造された日本最初の超ド級巡洋戦艦「金剛」の技術習得を生かして、横須賀海軍工廠の第二番艦「比叡」、神戸川崎造船所の第三番艦「榛名」に次ぐ第四番艦です。
大型艦の大量建造体制をめざし、官民総力を結集して建造されました。
大正4(1915)年4月19日、民間造船所初となる国産巡洋戦艦「榛名」と同時に竣工しました。
▼戦艦「武蔵」の建造と進水


第一番艦建造の呉海軍工廠には、多数の技術者が長崎から派遣され、同型艦の建造に生かされました。
軍機第一類工場に指定され、建造現場を秘匿するため、第二船台周囲を遮蔽し、工員を厳選して、厳しい入退場管理が行われました。
昭和15(1940)年11月1日長崎市街は、防空演習のため海軍警戒隊等が動員され市民の外出を制限し、大和型第二番艦「武蔵」は、式典の関係者のみにより、8時50分、第4号鐘に続き、小川嘉樹所長の支綱切断の後、最大満潮時の長崎湾内に進水しました。
船台から対岸までの距離が、わずか635mのため、狭い長崎湾内で停止する制動機構を備えて進水に臨みました。
進水後は、艦容全体を隠すために、先に進水していた客船「春日丸」とともに艤装に向けて向島岸壁に移動、12月28日滑走台引き抜き等の進水関連工事が完了します。
▼戦艦「武蔵」命名

本資料は、昭和12(1937)年8月21日に発せられた第一号艦(戦艦「大和」)の建造命令関係の書冊です。
この中に、長崎で建造中の戦艦「武蔵」命名に関する一件も綴られています。
命名が発せられた昭和15(1940)年11月1日は、「武蔵」進水の日にあたります。
▼戦艦「武蔵」建造見積書

戦艦「大和」「武蔵」の建造にあたっては、その予算額の大きさから艦の規模が外部に漏れるのを防ぐため、表向きは3万5千トン級の戦艦2隻と空母などの建造費というかたちにして、予算請求が行われました。
「武蔵」は民間の工場で建造されたため、会社側から見積書が海軍艦政本部に提出され、両者の協議により額を決定しました。
最終的に「武蔵」の建造費は「大和」のおよそ半分でした。これは甲鈑や砲熕類、エンジンなどが官品として支給されたためです。


船体部:44561520円
機関部:11503530円
兵装部:6473500円
合計:62538550円 [6253万8550円]


●[参考] 昭和12年度の国家予算
http://shinmennanba.blog.fc2.com/blog-entry-792.html
これによると一般会計・歳出による軍事費12億+臨時軍事費20億で32億。
▼昭和五年海軍造船官写真帖

平賀譲だ!

1977年集英社発行「科学戦・太平洋戦争」の「沈まぬ駆逐艦雪風”」に出てくる
▼ドック進水の技術
「大和」の重量配分は、船殻28.3%、甲鉄及び防御鈑33.1%で「陸奥」「金剛」に比べて船殻重量は小さく、甲鉄重量が大きい重防御艦です。
舷側傾斜VH甲鈑は、進水前にわずか4枚、残り60枚は進水後取り付けられ、出渠する際には機関重量の偏りに対し、艦首部にバラスト注水する等の重量の均衡が行われ、渠底部からわずかに浮揚し、曳航されました。
▼舷側VH甲鈑取付工事と進水
舷側傾斜VH甲鈑は、重量86.5トン、厚み41センチ、幅4メートル10センチ、高さ6メートル50センチの巨大な部材であるとともに、取り付け後は水線下となるため、進水の後、艦首、艦尾、中央など順番にバランスを取りながら、左右両舷に30枚ずつ取り付けられました。
また、主な装甲鈑は、すべて呉海軍工廠製鋼部で製作され、第二番艦の「武蔵」の建造に支給されました。

▼大和型第二番艦「武蔵」の進水重量

大和型第二番艦「武蔵」は、船台進水のため、一番艦「大和」にくらべて、進水時の重量がそのまま、船台全体の強度、滑走速度、滑走時から停止までの時間等に影響を及ぼします。
「大和」は約4万トン、「武蔵」は約3万5千トンの重量で進水しました。
▼戦艦「大和」の進水式

(中略)午前八時過ぎ御名代久邇宮殿下は御乗艦の常盤から同艦の艦載艇で極めて非公式で工廠桟橋にお着きになった頃、俄かに港内に黒煙、白煙立ち昇り海面を蔽うて煙幕が展張せられ、こは何事かと思う間もなく殿下には公式の御資格となって自動車で式場にお成りになり、午前八時二十分司令長官日比野中将の御案内で玉座に立たせられました。
工廠長砂川中将、砲熕部長菱川造兵少将、造機部長渋谷少将、製鋼部長宇留野技師、電気部長山口少将、外直接関係部長のみ参列してお迎え申し上げ、海軍大臣代理として司令長官は本艦を大和と命名すという命令書を小声で読み、型のごとく工廠長から造船部長の私に進水命令が下され、進水主任の芳井造船大佐の号笛指揮により進水作業は開始せられましたが、滑走式の進水式と違って、
【1】用意
【2】欄索(らんさく:船をつなぐための綱)張り合わせ 前後左右の繋留索の固縛を解いて、各索に十人宛の作業員が綱を持つ
【3】曳き方始め 港務部長が静かに曳船に曳き方を命じ、艦首の欄索に張りがかかるのを見て進水用意よしと工廠長に報告
【4】支綱切断 式台上の支綱を金斧で切断すると渠頭に設備してある「ギロッチング・シャー」の支綱がゆるんで重い刃先がその下を通してある張り切った紅白の艦首欄索を一挙に切断する。
の順序によって軍艦大和は静々と折柄展張せられた煙幕の中を渠外に向かって曳出されたのでした。
勿論軍楽隊の演奏もなく、ただ薬玉が割られて七羽の鳩が舞い上がり五色の紙吹雪だけが圧縮空気で吹き出されて景気をそえたのがせめてものはなむけでした。

海上艤装と軍機
昭和16(1941)年9月20日艤装桟橋で艤装中の戦艦「大和」です。
写真左奥艦首部分に船腹が視認できないように遮蔽する簾を設置、写真右側の海上航空母艦「鳳翔」、正面に給糧艦「間宮」、左遠方に巡洋艦「加古」「衣笠」が配置され「大和」の全容目視が困難な措置が取られました。
▼46センチ主砲
昭和15(1940)年6月3日進水前の砲塔積込作業です。
写真前方の第一主砲塔は内部艤装中、砲塔中央の隔壁手前には15m測距義が装備されます。
写真手前の第二主砲塔は、給弾室まで搭載完了です。
「大和」最大の機密事項は46センチ主砲の搭載と配置です。
主砲塔各部の艤装終了後、小屋掛けされ主砲塔の大きさ等を機密にして進水しました。

▼呉海軍工廠造船船渠(ドック)の拡張
大和型第一番艦「大和」は、呉海軍工廠で建造する最大規模の戦艦です。
船体の甲鉄の重量も大きく、海水を注入して約4万トンの船体を浮かばせ曳船で外海へ曳き出す方式では、ドックを1メートル掘り下げなければ進水できません。
また、揚重機能力の向上、側壁の階段の削除、機密保持のため目隠しの塀、4分の1部分には大屋根が設けられました。最大338m、最大幅45m、最大喫水14.5m。
▼戦艦「扶桑」の進水
明治44(1911)年3月に、呉海軍工廠に新設された造船船渠で、はじめての進水式が行われました。それが、大正3(1914)年3月28日進水の国産最初の超弩級戦艦扶桑型第一番艦「扶桑」(3万トン級35.6センチ砲6基12門)です。
以後、大型艦艇は全て同じ造船船渠で建造され、進水します。
「扶桑」は完成時にはイギリス、アメリカ、ドイツの主力戦艦を上回る世界最大重武装の戦艦でした。

▼戦艦「大和」の建造と進水

昭和15(1940)年8月8日大和型第一番艦「大和」は最大満潮時に進水しました。
建造時から重量バランスを考慮され、進水時には機関部搭載と2基の主砲塔未搭載の重量不均衡を解消するため前方に3千トン注水し、船体の前後左右の均衡を保ち曳船でゆっくりと呉湾へ曳きだされました。
市街では防空演習のため外出禁止の下、命名式の後、砂川兼雄呉海軍工廠長により進水式が行われました。
▼昭和19(1944)年10月24日 シブヤン海アメリカ軍空母艦載機の攻撃を受ける武蔵

▼戦艦「大和」進水記念の湯呑

風鎮と同じく、戦艦「大和」の進水記念でつくられた湯呑です。
正面には、戦艦「大和」進水式の式台が描かれ、背面には「進水記念 呉海軍工廠」の文字が記されています。
蓋の裏側には、錨とスクリューをあわせたマークが描かれています。
この湯呑も配布は許されませんでした。
▼戦艦「大和」進水記念の風鎮

戦艦「大和」の進水記念品は、呉海軍工廠造船部長であった庭田尚三氏が意匠し、有田焼の風鎮500組を作成しました。
その時点で艦名の内報はなく、「大和」「武蔵」になるだろうとの予想のもと、一方に奈良県大和国)にある橿原神宮
一方に東京都(武蔵国)にある千代田城二重橋が描かれた。
極少数の関係者に配布する予定でしたが、それも許されず、竣工後、直接の関係者にのみ、紀元二千六百年の記念…
て配られたものです。背面に「皇紀二千六百年 呉海軍…」と記されています。
▼「赤城」進水記念の手鏡

▼「赤城」進水式絵葉書