Writers on Roleplaying: Elizabeth Bear

QA部分をざっくりと訳してみた。


[Q]フィクションを書くにあたってTRPGを遊ぶことで教えられたことは?
[A]貴方も知っているように双方とも物語るものだ。しかし双方のスキルが常に互いに交換可能なほど柔軟なものではないことを知った。
TRPGは対話や起こったことに対する反応であり、それ以上に協調して行うことの過程だ。思うに、協調することでTRPGプレイヤーはモノを書くよりも多くの楽しみを得ている。
そしてまた、予想外の展開からも十分な楽しみを見出している。モノを書くことで同様の働きを実現しようとするなら、頭を悩ませることになるかもしれない。

[Q]フィクションを書くこととTRPGを遊ぶことに類似性はあるか? 
[A]類似性はあるでしょう。特に物語から何かが触発されるものがあるときには。
そしてよい物語を構成するもの(キャラクタ、展開、冒険、緊張感、実はこうだったという謎の解明など)に共通点はある。
しかしこれらの取り扱いまで同じというわけではない。

[Q]書き手と登場人物の関係と、キャラとプレイヤーの関係の違いはどのようなものですか? 
[A]プレイヤーは自分のキャラクタに宿る。自我への結びつきがあるので、キャラクタは「私」だ。
それはしばしばよそよそしく「ミスターブラウン」などと語りかけたり、演技することを求める。
 (だが演者にとってはキャラクタを演じていないとき、第三者に自分のキャラクタの話をする場合には普通のことだ)
作家の何人かはとても個人的なやり方で作品の登場人物に己を託し、自我を埋め込んでいる。
そして私もまた、私が憑依したりロールプレイしている何人かの登場人物を扱っている。これらはしばしば「登場人物自身を描く」と呼んでいるやり方だ。
しかし、私はTRPGを遊ぶようにフィクションの登場人物に自分の自我を埋め込むことをためらっている。なぜなら、物語の要請に応える必要もあるからだ。
TRPGにおいては、私はプレイしていて行動していない場合、キャラクタの代弁者である。書き手である場合は、もっとゲームマスターのように振舞っている。

[Q]TRPGを遊ぶこととフィクションを書くことの明確な違いは? TRPGを遊ぶことはフィクションにおいて何を伝えることができないか
[A]よいTRPGはよい物語を生むとは限らない。プレイヤーは自我をキャラクタに埋め込むから。
世界がキャラクタ中心に動いているなら問題ないが、物語は主人公たち以外のところでも動いている。そういう話はすぐにメアリー・スーのようになってしまうだろう。

メアリー・スー http://ja.wikipedia.org/wiki/Mary_Sue