横須賀へ [72.1km(横須賀までは61.6kmくらい?)]
年に一回の自転車旅行。
今回は三浦半島を回ってみようとぼんやり考えた。
三浦市まで一気に行く計画を練っていたが、走行距離と宿の予約の問題から初日は横須賀泊まりとした。
なにせDAC2013から帰宅したのち宿の予約を入れたのでやむなし。でも結果的に正解だったのではなかろうか。
出発は9/23 6:45頃。
環八を南下して一時間で砧公園のあたり。8:00には多摩川にぶつかって渡河点を探す。
▼多摩川渡河
丸子橋にて多摩川を渡る。8:10頃。
▼三笠公園入口
8:45に菊名、9:10に横浜到着。横浜のドトールで長めの休憩。
2号線(綱島街道)から16号線(横須賀街道?)をたどって横須賀へ。
12:15頃に到着。
▼海軍カレー
▼店内には戦艦三笠の模型が飾られていた
▼さらにはZ旗まで…
▼カレー、おいしゅうございました
▼お土産
五十六珈琲とか、なんでもいいのか。
まだ時間が早いので、市内散策。というか記念艦三笠を見る。
▼米軍基地入口のデッカイ錨
▼三笠公園
▼なぜか大和型戦艦の主砲46cm弾が展示されてる
有効射程かどうかしらんが、戦艦三笠の主砲が30cmで10km射程、戦艦大和の主砲は46cmで40km射程。随分と違うなあなどとぼんやり考えていました。
入場券買って記念艦三笠の中へ。
▼艦内神社
▼展示品
▼黄海海戦戦闘被害状況
被弾15発、戦死33、重軽傷92
▼日本海海戦被害状況
被弾14発、戦死8、重軽傷105
▼主砲の構造
火薬庫から装薬、弾庫から砲弾を、それぞれ揚弾薬機によって換装室にひきあげ、砲室の砲塔にセットしている。
揚弾薬機は滑車なのか。
▼小学生の艦船模型コンクール展示
▼いつの時代も同じか
戦艦三笠を記念艦として保存しようという動きに対して、そんなことより水害救援が先とか批判の声も。
1959年(昭和34年)ってことは伊勢湾台風であろうか。
▼佐世保港で沈没したときの記事
1905年(明治38年)に火薬庫火災により爆発・沈没したらしい。原因は不明。
記事によれば「キングストンを開き」とあるので、火災を鎮火するためにキングストン弁を開いたようだ。
キングストン弁は機関室にあったのだと思うのだが、弁を開いた人間は逃げることができたのだろうか?
▼砲員まわり
砲員が10人も詰める割には狭い区画という印象であった。
釣り床(ハンモック)も寝心地良さそうには見えなかったよ(当然か。
▼バルチック艦隊艦影図
本宮ひろ志のマンガでミッドウェー海戦を描いた作品内に、アメリカ空母のシルエットを見て艦名を当てる訓練風景が挿入されてたのを思い出した。
▼舵輪
▼戦艦の乗員は860名か
▼トイレにプライヴァシーはなさそうだ(正面には立ちたくない
▼1904年(明治37年)列国艦隊比較
この頃の日本とアメリカの戦力はあんま変わんないように見受けられる。
▼30cm連装砲
▼艦橋の操舵室
▼戦闘指揮所
35cmの鋼板に囲まれた狭い場所。主砲の直撃に本当に耐えられるのだろうか…。
▼カッター
▼無線室にあった「敵艦見ゆ!」
索敵重点。
▼東郷平八郎も歩いたチーク材の甲板
▼戦艦三笠30cm主砲弾解説
▼戦歴
▼最後に一枚
記念艦なので喫水線以下をコンクリートで埋められている。内部も展示用に大幅に手が入っていた。
当然といえば当然だが、1/1レプリカで水上艦として稼働するか、いっそのこと波動エンジンを積んで宇宙航行艦として動いてほしいと思うのが素直な感想であった。
三笠公園を後にしたものの宿に入るには時間があったので、横須賀中央駅近くの茶店で読書。17:00にはチェックインしていたのではなかろうか。
その後夕食のために街をうろついて店を探しているとき、夜の街に繰り出してテンションあがってる女子(中学生?)二人組が、歩道にうちこまれた杭をスカートなのに跨ぎ越している場面に出くわしてこちらもちょっとテンションが上がった。なんか、若いっていいね。
とくにイベントがあるわけもなく、ちょっといい定食屋なのか飲み屋なのか分からぬ店に思い切って入ってみると、食事はなかなか良かった。
▼街中でみつけた
横須賀はジオン軍の勢力下?
▼お食事処
▼鮪刺身定食
「街に出てゴローちゃん張りに店を探してみたら当たりだった。常連っぽい親父さんとおかみさんに、横須賀から企業(日産)が撤退して税収が落ち込み、山がちな土地柄で若者は高台に住まないし街を出て行くので人口が減少、海兵と米兵で何とかゆう話された」(Twitter書き込みより)